※未来時制。カルロ?年、ブレット?年。
※カルロの名前の由来、ブレットの生い立ち、毎度のごとく盛大にねつ造しています。
※タイトルは「21」さまより。





「わたしは知っています。だからこそ、あんたをゆるしてあげたのです。あんたがまじめに悲しんでいたので、これはやさしい心の子だとわかったのです。
 やさしい心をもった子どもは、たとえ少しぐらいわんぱくもので悪いくせがあっても、いつも多少の望みがあります。つまり、いつも、正しい道にかえるという望みがあります。
 だからこそわたしはあんたをここまでさがしにきたのです。わたしはあんたのおかあさんになって……」
「わあ、すてきだ!」と、ピノッキオは、とびあがってよろこびながら、さけびました。

 C.コローディ『ピノッキオの冒険』



 アンドロイドアイデンティファイ



 その夜、カルロはブレットの胸にもたれて目を閉じていた。人肌に温もったベッドのなかで、カルロの頬はブレットの心臓の真上に預けられている。生まれたままの、一糸まとわぬ四肢をぴったりと寄り添わせながら、歳にそぐわないメルヘンを朗読するブレットの深い声が、鈍い振動となってカルロの耳を満たしていた。
「『あんたはわたしのいうことをよくきいて、いつでもわたしのいいつけどおりにしなくてはいけませんよ』
 『ええ、きっと、きっと、そうします』
 『あしたから』と、女神さまはいいそえました。『あんたはまず学校へゆくんですよ』」
 音は媒質によって伝播速度が異なる。気体より液体、液体より個体の中を通る方が、音はよく伝わるのだ。媒質の密度が影響すると、ブレットから教わったのは遥か昔のこと。初等教育すらあやしかったカルロの知的好奇心を、ブレットは手を変え品を変えて育んできた。その努力の名残は、知識という形で今もカルロの中に残っている。
「『ぼく、いってたんです……』と、操り人形は低い声でもぐもぐつぶやきました。『学校へゆくにはもうちょっとおそすぎるようだって……』
 『いいえ。よくおぼえておきなさい。教育をうけたり勉強するにはいつでもおそすぎるということはありません』」
 人体はその半分以上が水でできていて、今こうしてカルロが身を浸しているブレットの声も、骨格や筋肉といった個体と体内を満たす液体を通じて、普段より速くカルロの元に届いていることになる。標準大気中の音速は時速1200キロを超えるから、あくまでも気持ちの問題でしかないのだけれど。
「『坊や』と、女神さまはいいました。
 『そのようなことをいうものは、たいがいいつでも牢屋か慈善病院にはいるのがおちです。人間というものは、あんたに注意しておきますが、金持に生まれようが貧乏人に生まれようが、この世の中では何かをする義務、つまり仕事をしたり働いたりする義務があります。なまけぐせがついたらたいへんです。』」
 ローティーンでベッドを共にする仲になって以来、カルロが寝物語をせがむことは稀にあって、恋人の孤独な生い立ちを知るブレットは、幼少期に得られなかったものを取り戻すような彼の望みを厭わなかった。今宵も、心優しいブレットは寂しがり屋なカルロのために、夢の物語の表紙を開く。タイトルは、イタリア生まれの彼にちなんだ『ピノッキオ』だ。
「この話はピノッキオの気もちをうごかしました。ピノッキオは元気よく頭をあげて女神さまにいいました。
 『ぼく勉強します。ぼく働きます。ぼくなんでもあなたのいうとおりにします。つまり、操り人形の生活がいやになったのです。どんなに苦労してでも子どもになりたいのです。あなたは、そうなれると約束してくださったんでしょう、ねえ?』
 『わたしはそのとおり約束しました。これからさきは、あんたしだいですよ』」
 意外と長いストーリーを、ブレットは小休憩をはさみならゆっくりと読み進めていた。そうして、生きた操り人形が生みの親の行方を捜す途中に、かつて死に別れた女神と再会したあたりで、彼は人差し指をしおり代わりに本を閉じた。音読に乾いた口内を潤そうと、唾液を嚥下する食道のうねりがカルロの耳に届く。鼓膜の奥に深く染み入るようなブレットの声が、その後を追いかけてきた。
「原作と映画じゃ、違うところが多いな。長い話だから仕方ないのか」
「映画は知らねえ」
「ビデオならあるぞ、今度観るか」
「別にいいさ」
 ブレットの声を子守唄に、現実に足を残したまま夢に漂う。そんな贅沢をしたいだけのカルロは、ブレットの裸の胸に唇を押し付けて首を振る。わき腹から背中を通って肩に回した腕の位置を少し変えて、体の落ち着く場所を見つけてから瞼を上げた。瞬きで眠気を払うと、ブレットの手の中の『ピノッキオ』が目に入る。
 縁が色褪せ、背表紙と表紙の境目がくたびれたハードカバーは、なかなかの年季を感じさせる。ジェペットじいさんの手で作られた操り人形が描かれた扉絵を、ブレットの形の良い親指が撫でていた。
「俺は映画を先に観たんだ。本も母が読んでくれたが、どっちもあまり好きになれなかった。四歳の頃だ」
 相変わらずブレットの記憶は正確で、そんなに何もかも覚えていてしんどくないのかとカルロは考える。忘れるということが人間を幸せにする能力なのだとしたら、ブレットが幸福になるのはひどく難しいだろう。彼のパートナーとしては、あまり歓迎したくない。
 現実にはもちろん、ブレットにも忘れる能力はある。脳の記憶容量が一般人の五倍十倍はありそうな彼でも、旺盛な知識欲故にきちんと整理しなければたちぱちパンクしてしまうのだそうだ。逆を言えば、これは忘れるとブレットが決めない限り、一度彼が取り込んだ情報はいつまでも彼の内側に留まり続ける。
 そんなブレットが覚えていると言うことは、ピノッキオに好意を持てなかった事実は彼の中で何かしらの意味を持つということだ。そしてその意味を、ブレットはカルロに問われるまでもなく語り出す。
「ピノッキオは木の人形で、ジェペットじいさんの本当の子どもじゃないだろう。俺も同じだと思った。俺は父にも母にも、姉たちにも似てなかったから、どこからか貰われてきたんだって本気で考えてたんだ」
 ブレットの言葉を受けて、カルロは彼の家族の顔を頭の中で並べてみた。先ごろ惜しまれながらホワイトハウスの職を辞した彼の父親は見事な赤毛で、澄んだ青の瞳が似合う穏やかながらも力強い顔立ちをしているハンサムだ。母は明るいブロンドが美しく、慈愛に満ちたグリーンの瞳でもって凛とした優しさを際立たせていた。父と母の色合いは、母のうりざね型の輪郭とともに、二卵性双生児である姉たちに均等に受け継がれている。
 この四人が一堂に会した時、そこにはわかりやすい血の繋がりが「見て」とれた。けれどその輪にブレットが入ったとたん、血の調和は乱れる。赤みのないくすんだブロンドも、厚い瞼とつり上がった目尻も、色味の薄いブルーグレイの瞳も、子どものころから変わらない小さな顎も何もかも、アスティア家の特徴と一致しなかった。
 メンデルの遺伝の法則。
 二個で一組の遺伝子をもつ生物は、親双方からひとつずつ遺伝子を受け継ぎ、その形質を表に出す。親(AA)×親(aa)の子は(Aa)の遺伝子型となり、すべて優性であるAの形質を示す。エンドウを使った説明をする、声変わり前のブレットの声音が懐かしかった。
 自分はよそ者かもしれない。ピノッキオに植え付けられた疑惑は、幼いブレットの中で日々強固になっていく。ブレットが、並の子どもよりもずっと成熟した知性をもっていたことも災いした。
 自分が学び得たこと、ひらめいたことを、ブレットはとっておきの宝物のように家族の前で披露する。父も母もその度にブレットを褒め、大げさなほどのリアクションで共感を示してくれた。けれどある日、ブレットはその賢さゆえに気づいてしまう。父たちが、ブレットの言葉の十分の一も理解していないことに。ブレットが見つけた宝物の美しさに、決して同じ気持ちで感動してくれていたわけではなかったことに。
 小さなブレットは両親が隠していた真実に、子ども部屋のベッドの上で膝を抱えてすすり泣いた。
『あなたの賢さは、神様からの賜りものなのよ』
 天賦の才の意味を、聖歌隊のシスターは子どもにもわかる言葉で説明してくれた。その年のクリスマス、小さなブレットはサンタクロース宛の手紙にこう綴った。

 ギフト(天賦の才)なんていらないから、家族と同じ顔にしてください。

「自分が間違ってることに気づいたのは、MITの入学を控えて祖父の家に挨拶にいった時だ」
 ワシントンD.C.の生家からボストンにある大学への通学は現実的ではなく、ブレット少年はボストンの隣、サマービルに住む祖父母の元に寄宿することになった。この時、偏屈で人嫌い、おまけに写真嫌いの祖父と、ブレットは物心ついてから初めての対面を果たす。
「祖父母の家には、若いころの祖父母を描いた肖像画があって、それを見て驚いた。俺と祖父が瓜二つだったんだ」
 メンデルの法則には続きがあった。親(AA)と親(aa)の間に生まれた子(Aa)同士を掛け合わせると、四分の一の確率で孫(aa)が生まれる。この場合、表面上では親世代の形質が、子を飛び越えて孫に現れたように見える。世に言う、隔世遺伝というやつだ。 
 ブレットの祖父は、赤みのないくすんだブロンドしていた。目は、厚い瞼とつり上がった目尻で出来ていて、月面色の瞳、歯の本数が足りているか心配になりそうな小さな顎を持っていた。何より、他者からの理解を得られないほどのずばぬけた知性は、ブレットのギフトと形質を同じくする。加えて、そんな彼に寄り添う若いころの祖母の肖像は、いくつかの点でブレットの母に非常によく似ていた。
 この一枚の絵によって、ブレット少年に根強く残っていた疑惑は打ち消される。間違いなく、自分は祖父と血が繋がっている。ということは、両親や姉たちともそうに違いないのだ。自分は貰いっ子じゃない、父も、母も姉たちも、正真正銘、同じ血を分け合った家族なんだと信じられた。
「その場で父と母に謝ったよ。いきなり泣きだして謝る俺に、二人ともわけがわからないって顔で……、あれは見ものだったな」
 普段は生意気なほどとり澄ました少年が号泣し、その姿を取り囲んだ家族が驚き慌てる姿は目に浮かぶようで、カルロはその和やかな過去の一場面を現在に繋ぎ合わせる。
「顔はともかく、お前はオヤジさん似だよ。間違いねえ」
「そうか?」
「並んで立ってりゃ、どっからどう見ても父子だぜ」
 カルロの言葉を疑うように、ブレットは開いた手の指を顔に添えて首を傾げる。この仕草がまさに彼の父親とそっくりで、目の前で二人同時にこのポーズをとられたとき、カルロは吹き出さないように奥歯で舌を噛んでいなければいけなかった。人差し指と親指をL字に開いた角度は、測ったように同じことだろう。
 遺伝は、メンデルの法則ですべての説明がつくほど単純なものではない。また、遺伝的要素は何も顔ばかりに現れるとも限らないのだ。手の骨格の形、腕の長さ、それぞれの筋肉のつき方にいたるまで、遺伝子の影響力は実に多種多様だ。そして家族という運命共同体の中で培われた近似性も、彼らを間違いなく父子にしていた。
「ま、このころのお前の境遇に比べたら、バカみたいな悩みだな」
 カルロの足りないに説明に、慰められたのだと誤解したブレットは肩をすくめる。どうでも良いこととアピールする仕草を、カルロは咎めるようにブレットの体に絡めた腕の力を強めた。
「お前には、一大事だったんだろ」
 一桁の歳の子どもが、自分の出生を疑い、家族との隔絶に胸を痛める。そこにどれ程の苦悩と葛藤があったのか、ブレットのようなギフトを持たないカルロにはわからない。わからないなりにも、想像することはできた。こんな共感を示せるようになったのは、それだけ大人になったと言うことだろうか。出会ったころの自分なら、きっと今のブレットのように鼻で笑い飛ばしていた。
 出会ったころ、そのキーワードがあることをカルロにひらめかせる。ブレットのシミひとつない白い胸から顔を上げて、カルロは言った。
「だからお前、大会中ずっとゴーグルつけてやがったのか」
 二人が出会った、第一回ミニ四駆世界グランプリ。ブレットが率いるアストロレンジャーズのメンバーに課されたハイテクゴーグルは、顔の半分近くを覆うシロモノで十代初めの子どもにはかなり重い。他のメンバーがユニフォームとともにそれを脱ぎ去るのに対し、彼はオンオフ問わずゴーグルを手放さなかった。
 カルロの指摘に、現在のブレットの目が泳ぐ。わずかに眉をひそめて、頭を左右に振るのは照れ隠しのサインだ。
「ああ、うん、まあ……、あの頃には貰いっ子疑惑は晴れてたとはいえ、自分の顔はあまり好きじゃなかったんだ」
 祖父には悪いが、と口をもごもごさせる様は、普段の能弁家ぶりとは程遠い。
「そのわりにゃ、俺の前ではよく外してたな」
 チームの垣根を越えて、ひそかに催された天体観測の夜はもちろん、時おり顔を合わせたスクールの図書館やプライベートで、カルロは頻繁にブレットの素顔を目にしている。
「お前が言ったんじゃないか、俺の目は月に似てるって」
 遠い何かを思いだす瞳は、昔も今も変わらないムーン・グレイ。星に恋した宇宙少年の、月色の眼差しにカルロはずっと焦がれてきた。
 ブレットの月面色の瞳をじかに見つめる度、カルロはどんなテクノロジーも不気味の谷を飛び越えるのは容易ではないと確信していた。あれから十数年、現実に開発されたアンドロイドはやはり、ピノッキオのような「ほんとうの子ども」にはなれないままだ。逆に、ゴーグルをかければどんなにアンドロイドじみて見えたブレットであろうと、カルロの前ではいつだって生々しいほどに人間的だった。
 L字に広げた人差し指と親指の間に、子どもみたいな小さな顎と頬を乗せてブレットはカルロを見る。
「嬉しかったんだ」
 とても、素敵なものに例えられたから。それでようやくこの顔も、この瞳の色も悪くないと思えたのだと、ブレットは微笑む。彼が心から笑うとき、周囲に星屑が散るのをカルロの目は幾度となく捉えてきた。
 きらきら、きらきら。はじける星屑の音色が、耳に聞こえそうなほど。ブレットがこんな風に笑えるのは、自分がどこの誰なのかを疑わないでいられるからだろう。
 カルロにはかつて、わが身の不幸を盾に攻撃的にふるまう悪癖をブレットにきつく叱責された過去があった。カルロの脳はブレットほど精密な記憶装置ではないので、それがいつのことだったか、どういういきさつだったかは思い出せない。それでも、ムーン・グレイを剣呑に光らせて、きっぱりと言い切ったブレットの厳しい顔つきは記憶にしっかりと残っていた。
『世の中の不幸を、全部一人で背負いこんだつもりならいい加減にしろ』
 カルロがどんなに自棄を起こしても、自嘲的な振る舞いで困らせようと、じっと忍んで見守り続けてきたブレットからのこの一言はひどく堪えた。虚を突かれたカルロに、完全にキレたブレットはさらなる追い打ちをかける。
『お前は俺を幸せの塊みたいに言うが、俺には俺の不幸がある。それをわかろうとしない、お前の視野狭窄なところが大嫌いだ』
 ブレットを、本気で怒らせるとめちゃくちゃ怖い。そんな記憶が、カルロの胸に刻まれたやりとりだった。
 彼には彼の不幸があった、悩みがあった、当たり前のことを今なら素直に受け入れられる。
「カルロ」
 あの時怒らせた勢いで捨てられなくて良かった、と回想にひたっていたカルロは名を呼ばれて顔を上げる。いつの間にかブレットの頬を支えていた指は、カルロの頭皮をなぞっていた。短いカルロの銀髪を手櫛で弄びながら、ブレットは尋ねる。
「お前の中には、まだ、小さなお前はいるだろうか」
 俺は小さなお前のために、こうして本を読み聞かせているのだろうかと、もう片方の手に残る『ピノッキオ』を揺らしてブレットは問い続ける。
「グランプリのころから、俺は何度も、お前の中の小さなお前を目にしてきたんだと思う。自分がどこの誰なのか、わからなくて泣いている子で、俺はその子に何かしてやりたくてたまらなかった」
 ブレットがカルロの中に見出した憂いは、かつてブレットが抱えていたものと同じだ。自分はどこの誰なのか。天涯孤独な浮浪児であったカルロとは違い、快適な家で暮らし、あたたかな家族に囲まれていたブレット少年ではあったけれど、それが本物だと信じられなければ何もないのと変わらなかった。
 アイデンティティクライシスに陥るには、二人とも少し早すぎる年齢であっただろう。ブレットは天賦の才ゆえに、カルロは過酷な生い立ちゆえに、ひとより早くその壁にぶち当たっていた。
「俺を救ったのは祖父で、支えてくれたのはアストロレンジャーズのあいつらだ。だけどお前には、お前の疑問に答えてくれる奴はひとりもいなかったんだろう?」
 自分ならカルロの疑問に答えられる、自分ならカルロを救える。そんな傲慢な考えを持っていたわけではないけれど、何かの慰めになるくらいのことは自負していたかもしれない。そんな、グランプリレーサー時代をブレットは思い出している。
「自分がどこの誰なのか、わからないのは不幸じゃないか」
 『ピノッキオ』の操り人形も、それがわからないまま欲望に任せてさまよい、何度も騙され裏切られ、彼自身もまた嘘をついて鼻を伸ばして傷つくことを繰り返す。ブレットの手がカルロの銀髪から再び『ピノッキオ』を抱え直したせいで、離れてしまった心地よさを惜しんで、カルロは口を開いた。
「その本の、作者が誰か知ってっか」
 カルロの不意の問いかけに、返事に窮したブレットは本の表紙を目でなぞる。
「C.コローディ」
「CはカルロのCだ」
 ブレットのムーン・グレイの瞳が、丸くなってカルロに向けられる。いつも冷静で、動揺のハードルが高い宇宙飛行士の驚きの表情は、何度見ても爽快な気分にさせられた。
「このタイトルだけは覚えてた。たぶん家にあったんだろうな。『教授』ってあだ名の物知りなホームレスがよ、『じゃ、お前は今日からカルロだ』って決めやがった」
 イタリア生まれで、のちにニューヨーク系マフィアの大ドンになったカルロ・ガンビーノにもあやかっているらしいが、どう考えても「教授」の考えた後付けだろうからブレットには教えないでおく。マフィアより童話作家の方が、彼も心穏やかに受け入れられるだろう。
 だが、カルロのそんな心遣いを、慈悲深い恋人はスルーするのが得意だ。
「カルロの由来ってカルロ・ルビアじゃないのか」
「誰だそいつ」
「イタリアの物理学者で、宇宙線の研究者だ」
「知らねえ!」
「ノーベル賞まで取ったんだぞ」
 知らないわけないだろ、と責める側になれるのがカルロには信じられない。何でもかんでも自分の物差しで測るな、てめえだって視野狭窄もたいがいにしろと今日まで幾度となく繰り返したセリフを今宵もまたくれてやりたくなって、しかしカルロは疲労感にブレットの胸にうつぶせた。なじみの良い体温と一定の鼓動が何よりもカルロの疲れを癒してくれると言うのは、一体何の皮肉だろうか。
 カルロを振り回し、けれど必ず受け止めてくれる、安心感抜群の胸の主はもっともっととカルロの由来を聞きたがった。
「なら、セレーニは?」
「ドンが用意した里親夫婦の苗字。結構な歳で、WGPの前にはくたばってた」
 疑似親子どころか共同生活のパートナーという感覚もわかないままに、カルロは彼らを死を看取った。ドンに呼び出され、ロッソストラーダのリーダーとしてWGP参戦を告げられたのはその直後のことだ。おかげで、老夫婦の葬式もまともに出してやれないまま、セレーニの苗字だけがぽつんとカルロの手の内に残される。
「カルロ……」
「もう、どうでもいい話だ」
 ブレットの胸に額をこすりつける。少しの恥ずかしさと緊張をかき分けて、カルロは言葉を続けた。
「お前がいる」
 小さく紡いだ言葉を直接受け取った、ブレットの胸が膨らむ。少し遅れて額の下で、ブレットの脈拍がわずかに速まるのがわかった。
 里親夫婦を土の下に送り、自分がどこの誰なのか、はっきりとした実感を持てないまま日本へと旅立ったカルロは、WGPの開会式でブレットの背中を目の当たりにした。自分より一段高い所で選手宣誓をするまっすぐな背中は、カルロに強烈な印象を与える。

 あれが欲しい。
 あの場所が欲しい。

 そこにたどり着くためなら、この手がどんなに汚れても構わないと思った。
 そしてブレットもまた、カルロの眼差しに混ざる羨望を感じてこちらをふり返った。いつしか彼のムーン・グレイの瞳は、カルロの中の小さな子どもの姿を捉えてしまう。セレーニの苗字を、サイズの合わない上着のように持て余しているカルロに、ただひとり、ブレットだけが気づいてしまった。
 お前だから、気づけたんだ。
 音の伝播速度も、人体の構成要素もメンデルの遺伝の法則も、みんなみんな、カルロはブレットから教わった。だがそれよりももっと大切なギフトを、彼はカルロに渡してくれたのだ。今もなお、与え続けている。
「お前がいたから」
 今日まで、こうして生きて来られた。
 例えば彼がいなくても、カルロはカルロなりの道でのし上がっていたかもしれない。だがきっと死ぬまで日陰者だ。ヘマをしでかして、口に石を詰めた死体になって道端に転がされる最期だってありえた。
 ほんとうのこどもになれないまま、木の操り人形で終わるピノッキオ。けれどそうはならなかった。哀れなピノッキオに厳しくも優しい女神さまがいたように、カルロには星に恋したカグヤ姫がついている。
 ベテラン宇宙飛行士を動揺させた偉業が、カルロの告白をさらに先へと進めていく。彼の心臓の上に手を当てて、一世一代のプロポーズよりも大切な想いを音にした。
「俺の居場所はここで、俺の本名はお前のアモーレだ」
 それでいい。それがいい。ずっと、死ぬまで、そうあり続けたい。彼からの贈り物がなければ、カルロもセレーニもただの記号にすぎなくて、彼からの贈り物さえあれば、ただの音の羅列にすぎなかったそれらは特別な響きに変わる。
 ブレットの鼓動がまた、加速した。そして、頭上から感極まった声が降ってくる。
「何だよ、その、口説き文句……」
 惚れ直すだろ、と震える響きに顔を上げる。エリートらしい小綺麗な顔の真ん中で、二つの満月が潤んでいた。
 さっきカルロの髪を撫でてくれた、優しい手がこちらに伸ばされ、形の良い指がカルロの顎の輪郭に添えられる。カルロが差し出した言葉の形を確かめる代わりに、ゆるゆると耳の後ろをたどられて、ときおりピアスがひっかかるくすぐったさに首をよじった。こんな風に、大切で特別な宝物のように誰かに触れられる心地よさも、教えてくれたのはこの男だ。今更手放されてもこちらが困る。
 お前は俺のカグヤ姫で、俺を地獄から引き上げでくれた蜘蛛の糸で、俺の居場所を教えてくれるカノープスで……。
 じゃあ、俺はお前の何なんだと、カルロは一度冗談めかして尋ねたことがある。期待と不安で胸を膨らませていたカルロは、「さあ、何だろうな……」というブレットの答えに凹んだ。考えたこともない、そんな口ぶりだったからだ。
 けれど、すっかりいじけモードに入ったカルロを見つめて、ブレットはそれはそれは綺麗に笑ってみせた。それまでで一番たくさんの星屑が散る。
『お前はどんどん変わって行くから、考える暇もなくて、目が離せないのさ』
 ストリートチルドレンからミニ四駆のグランプリレーサーへ、フレッチェ・トリコローリのエースパイロットから世界最高峰のロードレーサーへ。果てがなくて、留まることを知らないまま、広がり続けるのがカルロ・セレーニという男だから。
『宇宙みたいなやつ、ってことでいいだろ?』
 そう誤魔化されて、カルロの頭に血がのぼる。そのまましばらく、ぼうっとしたまま何も考えられなくなってしまった。
 だって、宇宙だぞ。
 お前にとっての宇宙ってのは、そりゃ最大級の愛の言葉じゃねえのか。
「もっとずっと、惚れててもらわねえと困るんでな」
 親すら渡してくれなかった幸福を前にして、精一杯余裕ぶるためにカルロがシニカルに笑う。カルロの言葉を受けた、ブレットの顔が小さく左右に振られた。
「そんな心配はいらない。俺はお前に惚れっぱなしだ」
 カグヤ姫。俺の、俺だけの、カグヤ姫。蜘蛛の糸でカノープスでもあるけれど、彼を形容する一番の言葉は星に恋するプリンチペッサなのだ。
 物語でカグヤ姫が求婚者にしたような無理難題をブレットがカルロにふっかけたことはないけれど、油断したら最後、月の世界に飛んでいったまま帰ってこなさそうな彼を、地上に引き留めるためにカルロはありとあらゆる手を尽くしてきた。その努力が、報われようとしている。
 姫君の口元に浮かぶアルカイックスマイルに、我慢の限界に達してカルロは噛みついた。何千回と吸いついたことのある唇は、それでも新しい味でカルロを楽しませるから、舐るようにキスを繰り返せばこれまた優しく噛みつきかえされた。互いを食べたくて、でも食べてしまうのは勿体なくて、中途半端な噛みつき合いは二人の唇の間でかわいらしい音を繰り返す。
 『ピノッキオ』をサイドテーブルに逃がしたブレットの両腕が、カルロの背中に回された。優しく引き寄せられるまま、厚さの違う胸板までぴったりと重ね合わせて、熱を分け合う。
「カルロ」
 キスを一休みした、ブレットの唇がカルロの耳に触れる。それぞれの首と肩の付け根にパズルのピースをはめ込むように首筋を預けて、顎先で相手のうなじを撫でれば、ライオンか何かに似たケダモノになった気分だ。
「カルロ」
 Ca,r,lo.
 最後のloを発音するときに、空を泳ぐブレットの舌の動きまで伝わりそうな、愛すべき音を堪能する。
「うん?」
「しよう」
 内耳に注ぎ込まれるのは、あのブレットの声で。つまりそれは、あの、湖の底からゆっくりと水面を押し上げ、波紋を広げて沁み渡るような深い声で。そんな声がかたどる"Fuck me"の響きに、カルロは腰が砕けそうになった。思わず「何だって?」と背を持ち上げて顔を向い合せれば、ひどく婀娜っぽい微笑がカルロを出迎える。
 さんざん吸った唇は、熟れきったトマトレッド。美味しさを隠さない口で卑俗なフレーズを告げられれば、美食家でエロスに弱いイタリア男にはたまらない。「犯して」だなんて悪いセリフを、アスティア家とN△S△の箱入り息子はいったいどこで覚えてきたんだか。
 俺か? 俺だよな。やっぱ、俺しかいねぇよな。つか、俺以外だったら赦さねえ。
 さっきより強く噛みつくキスをして、鼻筋を交差してから鼻先を合わせる。カルロが月の双眸に魅入られている間にも、ブレットはそのお上品な口から、極めて下賤なフレーズを繰り返した。
 Fuck me, fuck me, Carlo, Please......
 抱いて、犯して、カルロ、お願い。
 こんな、理性も手加減も木端微塵にしてくれるセリフと声を、カルロは知らない。しかも、知性も品性もないセリフを発しているのは、この広大な国で有数の頭脳の持ち主で、フロンティア精神を武器に未知なる宇宙へ何度も飛び出している英雄でもある。才覚も栄誉も、何もかもを身に備えた男がベッドの中で素っ裸のまま、カルロのアソコが欲しいとはしたなく誘うのだから始末に置けなかった。
 品行方正だったエリートくんにイケナイことを教えた責任は謹んでとらせていただきますと、カルロは諸手を上げて降参する。あとは二人そろって、ただのケダモノになり下がるだけだ。
 とっくに暴発しそうな熱い腰をぎゅっと押し付る。ブレットのトマト色の唇から、ほぅっと官能の吐息が押し出された。艶めかしい呼吸はカルロの鼓膜を震わせ、部屋の天井に張られた天体図に吸い込まれる。ここはブレットの子ども部屋。かつて幼い彼は両親の嘘に、このベッドの上で膝を抱えて泣いていた。彼がカルロのために朗読してくれた『ピノッキオ』は、彼の母が幼い彼に読み聞かせたものに違いない。
 純真無垢な幼少時代を過ごした部屋で、乳繰り合う背徳感は何ものにも代えがたい。年季ものの恋のスパイスに、カルロはこれでもかと獣欲を煽られた。ブレットの肌に余すことなくキスを落し、舌で愛する。その度に頭上で震える声は、極上のBGMだ。
 カルロの腹の下で、はしたなく乱れて見せるブレットの、ベッドの真下にはアスティア家のリビングがあった。
 ディナーの席で、二人はブレットの両親から結婚の赦しを得て、彼の姉たちからは祝福のキスを受けた。明日にはどこかの店で指輪を調達し、その足で役所に向かう手はずになっている。書類の準備は万端、立会人の手配も完璧だ。何事もパーフェクトでなければ済まない恋人に一任したのだから、遺漏のあろうはずもない。
 そんな夜だからだろうか、互いのルーツだなんて腹の足しにもならないことが気にかかったのは。けれど洗いざらい白状した今、この話題ももうネタ切れだ。だからカルロはブレットの肉体味わうことと、明日の指輪のことだけ考えていればいい。
 プラチナ製のリングの裏に、刻む文字は何にしようか。カルロとしては、今さっきブレットが口にしてくれた、最高にお下品でソソられるフレーズをぜひとも推したい。

 Carlo Fucks Brett Forever.

 宝飾店の店員が嫌な顔をするのなら、略してCFBFでも構わない。メンデルの遺伝子型みたいになるのは、この際目を瞑ろう。
 きっとこれからも、カルロはあっちへふらふらこっちへふらふらと、生きる世界を落ち着きなく変えていくことだろう。そんな根無し草のようなカルロの生き方を、ブレットは宇宙のようと讃えて見守り続ける。また彼自身も星と星の間をいつまでも泳いでいたいタイプだから、互いに互いの手綱を握っておく必要があった。安定感抜群のプラチナは、手綱の素材にはうってつけだ。
 明日が来れば、いくつかの書類と指輪の力で、二人は名実ともに生涯の伴侶となる。そして二人が出会ったあの日、この手を汚しても手に入れたいと望んだものは、白い光沢となってカルロの左手を飾るのだ。
 誓いを立て、署名を施し、指輪を交わしてキスをひとつ。それでいい。それがいい。それだけで、あとはもう、ずっと死ぬまで。


 そう、明日が来れば。
 自分がどこの誰なのか、もう迷うことはなくなるのだ。





 アンドロイドアイデンティファイ
 (木の人形はこうして、ほんものの子どもになりましたとさ)






+++++++++
おめでとうおめでとう、ついに結婚だよ! やっとここまでたどり着いたよ!!!

ブレット顎ちっちゃいよねー、顔の大きさジョーと変わんないし。歯の本数足りてるんだろうか。カルロのほうがうりざね顔っていうのかな、加齢にともなってしっかりした輪郭になる予感がある。

某ネズミ王国のピノキオを観ていて、そういや作者誰だよって調べたら名前がカルロでびっくりした。
よくある名前なのね。他にもいないかなって検索したら、宇宙線の物理学者が出てきて、絶対ブレットこっちを連想するなと思ったんだw

二人の年齢を?にしていますが、設定としてカルロが二輪レースの最高峰MotoGPで優勝した後の話です。だからカルロもブレットも30歳前後かな。
カルロMotoGPで優勝→世界一速い男がカレシなら文句はないだろ!ってブレットが家族にカミングアウト→わちゃわちゃしつつもOKゲット→プロポーズ(どっちがどっちに?)→カルロ、両親にご挨拶→結婚の許可がでる→子ども部屋でおめでとうエッチ→ピノッキオ朗読、という流れです。
両親の許可がもらえる=自分にふさわしい男=世界最速って、ナチュラルな発想が出来るブレットのエリート意識万歳。カルロもこんな自己評価の高い彼氏で大変ね、お幸せに!
カミングアウトのタイミングはもう少し早くてもいいし、逆に結婚はもっと遅くてもいい。と思うところもあるので、年齢?でよろしくお願いします。

ブレットは宇宙飛行士として脂の乗り切った段階でしょうか。カルロはトップに立ったし、次の道を決めてそう。ブレットがアメリカから動けないから、別居婚になっちゃうねぇ。

特に考えもせず書き続けてきたカルブレですが、ようやく時系列的にも切りのいいとこまで来ました。まだまだ空白の時代も多いので、がんばってカルブレ年表を埋めていこうと思います。

2015/04/14 サイト初出。

2015/04/14(火) レツゴ:チョコレートナイフ(カルブレ)
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