※カルロ26歳、ブレット27歳。
※カルブレ初対面をねつ造。
※例によって例のごとくロードレースについては嘘っぱちです。
※タイトルは「21」さまより。
一羽の燕が春をもたらすのではないように、
至福なひと、幸福なひとをつくるのもまた一朝夕ではない
春を嘯く
「カルロも変わったよね」
液晶画面に向かって、ミラーがコメントを寄こす。職場のレスティングルームに置かれたテレビに映っているのは、Moto2はドイツのザクセンリンクサーキットで勝利を飾ったカルロのインタビューだ。ビクトリーラップを一番に駆け抜けた彼は、汗のひかない顔を無表情ながらも満足感で輝かせていた。
藤吉の推薦で三国コンツェルン傘下のサテライトチームでMoto3デビューを果たしたカルロは、すぐに三国のワークスチームに籍を移した。世界に名だたる老舗メーカーがひしめくグランプリの中にあっては、三国コンツェルンと言えどもひよっこ同然。元空軍パイロットをメインレーサーに起用した藤吉の采配を、各メーカーは嘲笑った。その嘲りの声が、カルロと藤吉の闘争心に火をつける。もともとカルロは下剋上上等な男であるし、藤吉とて「おぼっちゃまにも五分の魂」と負けん気は人一倍だ。
何が何でもテッペン奪(と)ってやる。
「こんちくしょう精神」とでも名付けようか。ミニ四駆時代には折り合いの悪かった彼らは、MotoGPという強敵の前で固く手を取り合った。翌年Moto2への昇格を果たしたカルロ個人はもちろん、グランプリに携わるチーム全体の成績も右肩上がりを続けている。開発の進捗によっては、社長である藤吉自ら寝食を忘れ、カルロもいつ果てるとも知れないマシンテストに付き合うというのだから、仕事柄傍にいられない、またつっこんだ会話にもついていけないブレットは妬けてしょうがない。
そんな個人的な感情はさておいて、ミラーの一言がWGPでのカルロの猫かぶりを指しているのだと、同じソファに腰を下ろして同じものを観ているブレットはすぐに理解した。ひと一人分の距離を開けたミラーの隣で、テレビのカルロを注視したままブレットは頷いて見せる。
ロードレーサーとしてのカルロ・セレーニは、感情をあまり表に出さない、どちらかと言えば物静かな男で通っていた。インタビュアーの熱のこもった質問にも、応じる声は興奮を押し殺し淡々としている。それがお高く留まって聞こえないのは、コメントの要所要所に散りばめられる品のないスラングのせいだ。
よそ行きのきらいはあれ、パートナーのブレットから見ても、テレビに映し出されるカルロは素に近い。あまりのそっけなさに、もう少しファンやマスコミに愛想良くした方がいいんじゃないかとブレットが案ずると、カルロはシニカルに笑ってこう敷衍した。
「しゃべりすぎるってのは良くねえ。ちっとばかり謎めいてるくらいが得なのさ」
そんなカルロのキャラクターデザインの極意は、しゃべりたがりのブレットも密かに参考にさせてもらっている。
ミニ四駆を離れて以後、カルロは自分を過大に着飾ることも、威嚇的にふるまうことも止めていた。過去の彼を知る者で、現在のカルロを好意的に評価する者は「丸くなった」「大人になった」と言い、否定的な者は「牙をもがれた」「世間に迎合した」と詰る。果たして「カルロを変わった」と言う、ミラーはどちらを選ぶのだろうか。
審判を待ち受けるブレットに、ミラーが続けた言葉はそのどちらでもなかった。
「俺、マジでショックだったんだよね。リーダーとカルロがデキてるって知った時」
話題の転換は意外だったが、その矛先は想定の範囲内だ。またその話か、とブレットは画面のカルロを見つめ続ける。
片耳ピアスに、パドックガール嫌い。カルロはレース中、サーキットの女性スタッフすら近寄ることを赦さない。おそらく「母性」を連想させるものすべてがカルロのアレルゲンなのだろう。あれをマザーコンプレックスと言って良いのか、心理学に明るくないブレットにはわからない。ただ、カルロのこの性質を目の当たりにするたびに、母や姉たちに引き合わせるには時期尚早と感じるのだ。
一時はブレット自身、カルロの女性嫌いをどう治してやるべきか悩んだこともある。しかしカルロとの関係に腹をくくってからは、彼に無理を強いようとは思わなくなった。むしろ、男だろうが女だろうが、お遊びでも目移りするなんて赦せないし、浮気でもしようものなら鉛玉の百発や二百発は撃ちこんでやる所存でいる。そんなブレットの危ういほどの独占欲に、カルロはファンや関係者には決して見せない嬉しげな笑顔をあらわにした。
とにかく、カルロが極端な女性嫌い、またはゲイであることは公然の秘密だ。一方で、その長年にして唯一の相手がN△S△の宇宙飛行士だという事実は、今なお極めて限られた人々の秘密になっている。世間様に対しては、マネージャーとして常に傍に侍るジュリオが(本人たちは噂されることすら不快でたまらないそうだが)良い目くらましになっている。ミラーとて、レスティングルームに他に誰もいないからこそ、この話題を出したのだ。
「お前だけじゃなかったさ」
かつてアストロレンジャーズと呼ばれたメンバーに、ブレットがカムアウトした直後の狂乱は今も語り草だ。ほかならぬミラーも、ブレットとカルロの交際に猛然と反対意見を述べたうちのひとりだった。
「そりゃジョーとエッジはカルロ……っていうかロッソ嫌いだからおかんむりだったけどさ、俺はあの二人とは理由が違ったんだよね」
「初耳だな」
昔の記憶をたどるミラーは、生意気そうな顔とそばかすはそのまま、あの頃よりも随分と背が高くなった。成長期から今日にいたるまで、ブレットを抜くことはできなかったものの、線が細い体つきのおかげで、実際の数字より高身長な印象を与えるだろう。
そんな彼が、幼さを取り戻した仕草と表情で秘密を打ち明ける。
「俺にとって、ブレットはパーフェクトだったんだ」
頭が良くて冷静で、訓練の成績は常にトップ。プライベートでは面倒見が良くて、温厚で、トラブルにも滅多と声を荒上げたりしない。外見は好みもあるだろうけれど間違いなく平均以上、赤みのないブロンドと魅惑的なブルーグレイの瞳は光り輝いたまま。エリート意識とプライドの高さはそれに見合うだけの努力を積み上げてきた証であるし、長年の欠点だった詰めの甘さも、仲間にカヴァーされることを学んでからは大きな失敗を引き起こさなくなった。
宇宙飛行士としても、チームリーダーとしても、また一人の男性としても、申し分ないミスター・パーフェクト。それがプレティーンで彼のチームメイトとなったミラーの、今日(こんにち)まで変わらないブレットへの評価だった。
「べた褒めだな、寒気がする」
「だから今日まで言わなかったろ」
恥ずかしいに決まってると、年の割には似合うふくれっ面を一瞥したブレットは、口角を上げて肩を震わせる。すぐに視線を戻したテレビでは、カルロのインタビューはまだ続いていた。
「実際、偶像視はしてたよ。ブレットは間違いなく宇宙飛行士になれると思ってたし、しかもとびきりのね。でっかいことやってくれるって、信じてた。今だってナンバーワンはブレットだって俺は信じてるよ」
「おいおい、プレッシャーかけるなって」
「俺一人の期待で潰れるようなリーダーじゃないっしょ」
事実、ブレットはミラーの期待を裏切らなかったし、今も応え続けている。
「だからさ、そんなブレットのパートナーになる人も、きっとパーフェクトなんだろうなって。誰もが羨むような美人でさ、上品で賢くて性格も良くってバイタリティに溢れた、そんな、女性じゃなきゃ、釣り合わないって」
思ってた、と言い終えたミラーは口をつぐむ。ようやくブレットは、テレビの中のカルロから傍らで俯く青年に顔を向けた。
ブレットのカムアウトは、唯一ミラーの期待を裏切った。それでもこのご時世、セクシャリティについてはとやかく言うものじゃないと、ミラーが割り切るのは早かった。ミラーの理想にあった「女性」という単語を「人」に変えればすむことだ。けれど他の部分はどうにもならない。ミラーが描いた「ブレットのパートナーにふさわしい」パーフェクトな人物像と、カルロは決してイコールでは結ばれない。
「顔は、まあ、ハンサムだよ。むかつくけど。バイタリティもあるんじゃないの。きっつい生い立ちからここまで成り上がったんだからさ。頭だって悪くないんだろうぜ。でもさ、やっぱり俺にとってカルロは、WGPのアレで……、あの印象はやっぱ、そう簡単には覆んないよ……」
だから、赦せなかった。ミラーは、消え入りそうな声で呟く。床に言葉を落すその表情は、こわばった微笑に固まっている。カルロのせいで、パーフェクトであったはずのブレットの人生に、傷をつけられた気がしてしょうがなかったのだと。
ブレットは騙されているのだ。深窓のご令嬢がうっかり不良男に惹かれるのと同じ心理だ。それは自分に無いものへの憧憬という名の幻想であって、愛や恋だなんて感情に比べれば脆いことこの上ない。ましてや人生のパートナーに選ぶ動機にはふさわしいはずがない。そう、ミラーは考え、ブレットの目を覚まさせようとやっきになった結果が、あの騒動だった。
ミラーは顔を上げ、ブレットをふり返る。カルロを詰るセリフを吐いた先ほどに比べて、彼は幼さの抜けきれない顔にずっとやわらかい微笑を浮かべていた。
「でもそれってさ、俺の押し付けじゃん、って気づいたんだ」
カルロにぶつけた怒りや恨みの根っこは、どれもこれもミラーが勝手に描いて、ブレットに押し付けていた理想像と繋がっていた。だが、それこそが幻想だったのだ。ブレットはミラーのために存在するわけではない。
「俺もいい年だしさ、いつまでもガキのころの妄想引きずってるわけにもいかないだろ。だから、俺の憧れからブレットを自由にしてやろうって思うんだよ。で、ついでに、カルロとのことも、ま、祝福してあげてもいいのかなって、最近は、少しは、そう、思えるようになった? かなって……」
そこまで腹を決めておきながら、カルロに関しては留保の合いの手が多くなるのはどういうわけか。ブレットは自然とブルーグレイの瞳を眇めて笑っていた。自業自得と言えばそれまでだが、カルロが背負う過去の悪行は根深い。ミラーの気持ちも、カルロの重ねた苦労もわかるからこそ、ブレットは(もう随分と慣れてきた)カルロに対するフォローにとりかかるのだ。
「カルロも同じさ」
わずかに目を見開いて、首を傾げるミラーを誘うようにブレットは薄いブルーアイズをテレビの中に向ける。ヒールぶる必要がなくなったカルロは、珍しく、口角をわずかに上げただけの笑みを浮かべていた。レース直前はもちろん表彰台でも、カルロは満面の笑みを見せない。Motoの公式サイトに載る顔写真すら、他のライダーたちの笑顔が並ぶ中、カルロひとり歯を見せない徹底ぶりだ。おかげでシニカルな微笑ですら、彼のセクシャリティを問わない女性ファンには垂涎の的であるらしく、テレビの中でもひときわ多くのフラッシュがたかれていた。
ありのままのカルロが、これほど多くの人に受け入れられる日が来ようとは。誇らしい気持ち半分、ここにたどり着くまでにかかった時間への切なさ半分で、ブレットは口を開いた。
「『ピカロはもうごめんだ』」
「え?」
「あいつの口癖」
かつてカルロは、嫌われ者であることを厭わなかった。悪党と罵られることを毛ほども気に留めていなかった。だがそれは、世間から向けられるイメージや自ら囚われた妄執が、カルロにピカロであることを強いていたにすぎなかったことを、ブレットは知っている。
カルロをがんじがらめにしてきた、目には見えない怪物。偏見や思い込みという名の怪物に、カルロは勝った。だから今の彼の姿がある。
「『自分らしく』『ありのままに』 良い言葉だが、それだけに難しい。だがカルロは成し遂げた」
だから余さずこの目に映しておきたい、記憶にとどめておきたいと、ブレットは寸暇を惜しんでカルロを見つめる。そんなブレットの横顔に、ミラーの声が向けられる。
「カルロがピカロを捨てられたのは、やっぱ、ブレットのおかげ?」
「自負はある。それでも、困難な道を選んだのはあいつ自身だ」
そのくらいガッツがある男じゃなきゃ、十何年も惚れてないさとブレットは肩をすくめた。
雨の日のカルロは動かない。まったく、動かない。ではどうしているかというと、いつも一か所でじっとしている。ミラノの自宅(ロードレース転向とともに彼はトリエステからミラノに居を戻している)の中では、夏は一番涼しく冬は一番あたたかい一角に置いた、ひとり掛けのソファが彼のお気に入りだ。その居心地のいいソファの上で、長い手足を器用に丸めてじっとしている。
雨に濡れた靴の気持ち悪さが、カルロはことのほか嫌いだ。故に、小雨だろうが傘があろうが、休日に車もなしに外に出るなど言語道断であるらしい。その姿に「まるで寒い日の猫だな」とブレットが呆れれば、カルロは「てめぇは雪にはしゃぐ犬だ」とやりかえしてくる。
雨でなくとも、カルロは基本的に外出嫌いだ。嬉々として出かけるのは蚤の市が開かれる朝くらいなもので、彼と予定の合わない休みには、仲間たちとトレッキングや高所めぐりに精を出すブレットとはまるで正反対だった。そうして何かと外に出たがる活動的なブレットを、カルロはソファで丸くなったまま「じっとしていられない犬」だと揶揄する。
おかげでブレットは、カルロとイタリア観光した覚えがほとんどない。連れて行けとせがんでも、彼ががんとして動かないのだからしょうがない。あまりしつこく縋ると、しまいには「ひとりでどこへなりとも行って来い」と追い払われる始末。それで実際にブレットがひとりで出かけてしまうと、帰った後に盛大に拗ねられるものだからたまったものではない。付き合い始めた当初、この行動範囲のズレはよく喧嘩に発展した。
今日も今日とて優れない空模様に、早々に雨を察知したカルロはソファにかじりついている。案の定、一時間もしないうちに外はどしゃぶりの雨になった。冬の寒さとあいまって、火を入れた暖炉のそばでますます身を丸くするカルロの姿に、ブレットは今日も自動的に猫を思い浮かべる。そして猫からの連想に、ブレットはあることを思い出した。
「初対面のときのお前は、猫かぶりまくりだったな」
同時によみがえるのは、先日アメリカでしたミラーとの会話だ。今、ブレットの目の前にいる(ソファの上ででかい図体を丸めている情けない姿の)彼がありのままというのなら、WGP時代のカルロはその正反対の位置にいたことになる。
ソファに身を沈めているカルロは、ブレットの言葉に怪訝そうに顔を上げた。
「初対面って……、選手宣誓ん時か」
「いや。最初のリーダーミーティングに呼び出された時だ。お前から初めて声をかけられた」
よく覚えていると付け足せば、お前はなんでも覚えてるだろうと言い返される。コンピューターとも肩を並べかねないブレットの記憶力に、なんだかんだでカルロは全幅の信頼を置いてくれていた。ブレットからやや遅れて、記憶の道を引き返した先でカルロも同じ思い出にぶちあたる。
「……ああ、アレか」
「選手宣誓を褒められた」
「マジで全部覚えてんのか」
「お望みならセリフも再現いたしましょうか」
胸に手を当てて芝居がかった会釈をすると、ソファの上でカルロがひらひらと手を振って拒絶の意を表した。
「やめろやめろ。黒歴史どころの話じゃねえぞ」
カルロが心底嫌がるから、再現は自分の心の中だけにしようとブレットは口を閉ざす。ムーングレイの瞳は雨の脅威から身を守ろうとするカルロを見つめたまま、記憶の方は二人の初対面まで遡りはじめていた。
『チャオ、シニョール・アメリカーノ。良い選手宣誓だったな』
ミーティングルームに向かう道すがら、後ろから声をかけてきたのはカルロの方だ。あのころのカルロは、それはそれは人当たりの良いさわやか少年の皮を一分のスキもなくまとっていて、追いついたブレットの肩にも(あたたかいものアレルギー真っ盛りのカルロには苦痛の所業だっただろうに)実に自然に腕をからめてきた。
『俺はカルロだ。ロッソストラーダのリーダーってやつ』
『知ってる。イタリアじゃ負けなしだってな』
『あんたに知られてるとは光栄だな。お互い、宣誓通りの良いレースをしようぜ』
そうして握手を求めてきた少年がその内心で、育ちのいいエリート少年への激しい嫉妬や敵愾心を抱いていたことなど、この時のブレットは想像だにしなかった。だが今思えば、カルロがブレットの選手宣誓に見せたこだわりこそ、彼の本当の願望だったのだとわかる。そんなカルロは、和やかに進む会話の裏でブレットに牙をむく算段を冷徹に整えようとしていた。
『まだミーティングまで時間があんだろ、ちょっとあっちで話さねえ?』
しきりに他所に連れ出そうとするカルロの誘いに、警戒心をすっかりほだされていたブレットは乗りかけていた。旧知のユーリが姿を見せなければ、何の疑いもなくカルロの後に付いて行っただろう。
「俺を連れ出して、お前はどうするつもりだったんだ」
とうに察しのついていることを、ブレットはあえて尋ねる。予想通り、現在のカルロは心底バツの悪そうな顔で答えた。
「……ルキノたちと、ぼこぼこにしてやるつもりだった」
「だろうな。腕の一本は折られてたか」
危なかったとブレットは笑って肩をすくめる。あの段階でリンチにあっていたとしたら、さすがに彼とこんな関係にはなれなかった。邪魔してくれたユーリには感謝せねばなるまい。
あの頃のカルロには、ブレットが立った宣誓台は憧れの場所だった。そこに、親の力で不自由なく育ってきた人間が立っている。カルロには赦しがたい光景だったろう。ブレットが親の力だけでなく(育った環境に恵まれていたことは否定できない)、自らの才覚と努力によってあの場所にいたことをカルロは知らなかった。
「もしタイムマシンがあったなら、あの頃に戻って、お前を抱きしめてやりたいよ」
この世の何もかもを敵視して、ナイフを振り回す必要などないのだと、ブレットは好みのサイエンスフィクションの力を借りてでも、心をさかむけだらけにしていたカルロに伝えてやりたいと願う。
「やめとけ。あの時の俺じゃ無理だ」
カルロのセリフは自嘲以上に真実をついている。ブレットの体温は、あたたかいものアレルギーが最も深刻だった頃のカルロには毒でしかなかっただろう。触れ合った場所から肌がただれ、カルロは激痛にのたうち回るはめになる。
バトルに荒んでいたかつてのカルロに胸を痛めつつ、ブレットは今のカルロの背後にまわる。そして後ろからあの頃のカルロに代わって、今のカルロを抱きしめた。限定的(特にブレットが関わる場面がほとんど)ではあるけれど、26歳になったカルロはあたたかいものアレルギーを随分と克服している。
「マシになったもんだ」
「誰かさんのおかげでな」
例えば道を行き交っただけの、縁もゆかりもない人物からの親切を素直に受け取れるようになった。例えば距離感が近すぎる女性インタビュアーのあしらいも、そつなくこなせるようになった。熱烈なファンの秋波にも、機嫌が良いときは小さく笑い返せるほどだ。ずっと拒み続けてきたトラットリアでの食事も、こんな雨の日でなければ問題ないことをブレットは知っている。
少しずつ、確実に、カルロの心の錆が剥がれ、固く閉ざしてきた門や扉に潤滑油がいきわたっていく。そんなカルロの変化もまた、同じようにゆっくりと周囲の人間に受け入れられていく。
「ミラーから、お前に伝言を預かってる」
だからブレットは、伝えるなら今だと思うのだ。ブレット以外から与えられるあたたかさも、今の彼なら火傷を負わずに受け止められるかもしれない。
後ろから耳に吹き込まれた名に、腕の中でカルロが首をよじってふり返った。
「ミラー?……ああ、おまえんとこの4番目か。そいつが何だって?」
「俺を幸せにしないと赦さないそうだ」
なるべくさらりと、伝えたつもりだった。それでも、腕に触れるカルロの肩がこわばるのがわかる。ミラーの思いやりにアレルギーを出させるまいと、ブレットは両手でカルロの肩を慰めるようにさすった。
これは非難じゃない。罵声じゃない。赦しや優しさと呼べるもので、そういうものの方がずっと苦手なカルロに、怖いものじゃない、俺が傍にいると、ブレットは伝えることが上手くなった。
『リーダーはやっぱりパーフェクトじゃなきゃ。ほんと、パーフェクトに順風満帆で、幸せな人生送ってほしいんだよね。だからさ、泣かせたり不幸にすんなら赦さねえよ、俺』
そう、カルロに言っといてよ、とミラーはそばかすをかきながら笑ったのだ。
「カルロ……」
大丈夫か、そう続けようとしたブレットを遮るように、彼の手が肩を撫でるブレットの手を掴んだ。
「4番目に伝えろ」
ミラーって名前があるんだが、とツッコミを入れるのは野暮すぎる。わかったと答える代わりに、ブレットはカルロの手を握り返した。握り合った手の下で、カルロの肩が膨らむ。そして彼は伝言への返事を紡いだ。
「『15年後を見てな』って」
15年。
カルロが口にした歳月がどこから出てきたのか、ブレットはすぐに理解する。カルロとブレットが出会って、今年で15年。それはカルロが本当の意味で自我に芽生えてから、自分の中のピカロと決別するまでに要した時間だ。ひとりの少年が大人の男となって、穏やかで幸福な生き方を勝ち取るまでにかかった時間でもある。人が誰かを(他人であれ自分自身であれ)幸せにするには、少なくともそれくらいの時間がかかるものなのだ。
「わかった、伝えておこう」
この15年のおかげで、ブレットはひとりがけのソファ(ブレットのくっつくスペースがないのが問題だ)から動かないカルロにあまり腹を立てなくなったし、カルロもブレットが逢瀬の間に多少の単独行動をしても目くじらを立てなくなった。あと15年もすれば、一緒に観光地をめぐったり、日がな一日どこへも出かけず二人で体温を分け合う過ごし方が板につくかもしれない。こんなどしゃぶりの雨の日にだって、傘を差して出かけられる日がきっとくる。
カルロにぐっと、手を引かれた。軍用銃や飛行機の操縦桿、今はバイクのハンドルグリップを握ってできた胼胝の感触が愛しいブレットは、誘われるがままソファの前に回る。
「ほら、来い」
自分の膝をぽんぽんと叩いて、カルロはなおもブレットの手を引き寄せた。カルロの腿の間に尻を乗せれば、背中を支えられて横抱きにされる。カルロの首に腕を回して、足を上げたブレットはカルロとともにひとりがけのソファに収まった。5.9フィート(約180センチ)級の成人男性二人を抱えさせられたソファは、不平の軋みをあげるけれど、カルロに気に入られているだけあって安定感は抜群だ。そしてブレットがしがみつくカルロの首も、出会ったころが嘘のように太く逞しいものへと成長を遂げている。
探るように顔を覗きこまれ、ブレットは首を伸ばしてカルロに応える。ちゅ、と触れるだけの口づけはくすぐったかったけれど、外の雨音も遠ざかる多幸感で二人を包み込んだ。向かい合って、見つめ合って、自分だけを映す青い瞳をはめこんだ顔に触れてみる。カルロの肌は、頬と言わず唇と言わずブレットにとてもよくフィットした。
「足んねえ、もっとだ」
そんな似合いの唇が、ブレットのそれと重なり合う。口唇の肉を押し潰すだけのキスに、ブレットも唇を尖らせて応じた。ちゅ、ちゅ、と啄む音が、またしても窓を打つ雨音を払いのける。食み合った唇が離れる間際には、名残惜しさにねっとりとした空気が互いの隙間を埋めた。
自身の両手に収まる、カルロの最高にハンサムな顔を見つめてブレットはほくそ笑む。老獪なレースを展開するクレバーさと狡猾なまでにテッペンを狙うバイタリティをクールな表情の下に隠し持つ彼は、「こんなイイ男は他にいない」とブレットに思わせるし、彼を見出した己の審美眼を自画自賛させずにはいられない。
その彼が、15年後を約束した。彼にそうさせる価値のある自分を、ブレットは誇りたい。
「とりあえず、あと15年は別れずに済みそうだ」
「おいおい、15年ごときで頼りねぇな。一緒にじーさんになってくれるんだろ?」
挑発的なカルロの軽口に、ブレットは笑って抱きしめる腕を強める。カルロの悪戯な唇が、ブレットの耳たぶや首筋をくすぐってきた。官能を引き出すには浅すぎる刺激に、くすくすと肩を震わせながらブレットはカルロが口にした15年に思いを馳せる。
15年後はどうなっているだろう。ブレットは宇宙飛行士を続けていられるだろうか、カルロはロードレースを引退し新しい道でブレットを驚かせてくれるにちがいない。ブレットもカルロも子どもは産めないけれど、この関係に(どのような形にせよ)新しいメンバーが加わる可能性だって否定できないのだ。
洋々たる前途に胸を膨らませながら、今はこうして、自分が腕に抱いた「幸福」の形をブレットは忘れまい、放すまい、失うまいと願う。そのためなら、どんな困難な壁でもぶちやぶる覚悟だ。二人に立ちはだかる最も大きくて分厚い壁を、ブレットはずっと昔から避け続けてきたけれど、逃げること自体がもうカルロへの侮辱のような気さえする。
出会って15年、目覚ましい回復を見せ、克服されつつあるカルロのあたたかいものアレルギーに、自分はもっと期待してもいいのかもしれない。母や姉たちを前に、彼がきちんと立っていられる可能性に賭けたかった。
「なあ、カルロ」
「んー?」
腕に抱き込んだ、カルロの耳に唇を寄せて囁く。悪ふざけをやめ、本格的にブレットの性感帯を探り始めていたカルロは、油断しきっていた。
「俺の両親に、会う気はないか」
核弾頭じみた誘いに、抱きかかえたブレットごとカルロがソファから転げ落ちるまで、あと少し。
春を嘯く
(もっともっと、幸せになろう)
+++++++
冒頭引用はアリストテレスより。
アストロメンバーは全員カルブレに絡めたかったので、ようやくそれが叶いました。
ミラーは一番年下と言うこともあって、ブレットへのあこがれが強いのではないのかなー、と妄想。
あと、根明で行動的なブレット(=犬)と根暗でヒッキーなカルロ(=猫)ということで、rain cats and dogs(どしゃぶりの雨がふる)という全く伝わらないシャレ。
ブレットのご両親にカルロがご挨拶する話もかけたらいいなーいいなー。あと、藤吉+カルブレ話とかね。
そういえば、ロッソはまだジュリオしか絡めていないな。
【ロッソのWGP後妄想】※白黒反転
ジュリオ……ストリップバーだかゲイバーでウリ子しているところを、ロードレースに転向したカルロに見つけ出されてマネージャーに。
ルキノ……ずっとドンのところにいそう。でも一応表家業の方でがんばってる。カルロと同じくレースの世界にいて、どこかで再対決できるといいな。
リオーネ……すちゃらか警官。なぜか警官。自分でも何でリオーネを警官にしようと思いついたかわからない。ま、一応真っ当に生きてるということで。
ゾーラ……あまりイメージがわかない。趣味の「ポルチーニ狩り」のインパクトが強すぎたのか、うっすら農村部にいる気がしている。
ロッソじゃないけど、リョウくんも警官とか自衛隊系かなぁ。トラック野郎も捨てがたい。
さて、こんなやつらをどうやって絡めようか。
2015/08/20 サイト初出。
※カルブレ初対面をねつ造。
※例によって例のごとくロードレースについては嘘っぱちです。
※タイトルは「21」さまより。
一羽の燕が春をもたらすのではないように、
至福なひと、幸福なひとをつくるのもまた一朝夕ではない
春を嘯く
「カルロも変わったよね」
液晶画面に向かって、ミラーがコメントを寄こす。職場のレスティングルームに置かれたテレビに映っているのは、Moto2はドイツのザクセンリンクサーキットで勝利を飾ったカルロのインタビューだ。ビクトリーラップを一番に駆け抜けた彼は、汗のひかない顔を無表情ながらも満足感で輝かせていた。
藤吉の推薦で三国コンツェルン傘下のサテライトチームでMoto3デビューを果たしたカルロは、すぐに三国のワークスチームに籍を移した。世界に名だたる老舗メーカーがひしめくグランプリの中にあっては、三国コンツェルンと言えどもひよっこ同然。元空軍パイロットをメインレーサーに起用した藤吉の采配を、各メーカーは嘲笑った。その嘲りの声が、カルロと藤吉の闘争心に火をつける。もともとカルロは下剋上上等な男であるし、藤吉とて「おぼっちゃまにも五分の魂」と負けん気は人一倍だ。
何が何でもテッペン奪(と)ってやる。
「こんちくしょう精神」とでも名付けようか。ミニ四駆時代には折り合いの悪かった彼らは、MotoGPという強敵の前で固く手を取り合った。翌年Moto2への昇格を果たしたカルロ個人はもちろん、グランプリに携わるチーム全体の成績も右肩上がりを続けている。開発の進捗によっては、社長である藤吉自ら寝食を忘れ、カルロもいつ果てるとも知れないマシンテストに付き合うというのだから、仕事柄傍にいられない、またつっこんだ会話にもついていけないブレットは妬けてしょうがない。
そんな個人的な感情はさておいて、ミラーの一言がWGPでのカルロの猫かぶりを指しているのだと、同じソファに腰を下ろして同じものを観ているブレットはすぐに理解した。ひと一人分の距離を開けたミラーの隣で、テレビのカルロを注視したままブレットは頷いて見せる。
ロードレーサーとしてのカルロ・セレーニは、感情をあまり表に出さない、どちらかと言えば物静かな男で通っていた。インタビュアーの熱のこもった質問にも、応じる声は興奮を押し殺し淡々としている。それがお高く留まって聞こえないのは、コメントの要所要所に散りばめられる品のないスラングのせいだ。
よそ行きのきらいはあれ、パートナーのブレットから見ても、テレビに映し出されるカルロは素に近い。あまりのそっけなさに、もう少しファンやマスコミに愛想良くした方がいいんじゃないかとブレットが案ずると、カルロはシニカルに笑ってこう敷衍した。
「しゃべりすぎるってのは良くねえ。ちっとばかり謎めいてるくらいが得なのさ」
そんなカルロのキャラクターデザインの極意は、しゃべりたがりのブレットも密かに参考にさせてもらっている。
ミニ四駆を離れて以後、カルロは自分を過大に着飾ることも、威嚇的にふるまうことも止めていた。過去の彼を知る者で、現在のカルロを好意的に評価する者は「丸くなった」「大人になった」と言い、否定的な者は「牙をもがれた」「世間に迎合した」と詰る。果たして「カルロを変わった」と言う、ミラーはどちらを選ぶのだろうか。
審判を待ち受けるブレットに、ミラーが続けた言葉はそのどちらでもなかった。
「俺、マジでショックだったんだよね。リーダーとカルロがデキてるって知った時」
話題の転換は意外だったが、その矛先は想定の範囲内だ。またその話か、とブレットは画面のカルロを見つめ続ける。
片耳ピアスに、パドックガール嫌い。カルロはレース中、サーキットの女性スタッフすら近寄ることを赦さない。おそらく「母性」を連想させるものすべてがカルロのアレルゲンなのだろう。あれをマザーコンプレックスと言って良いのか、心理学に明るくないブレットにはわからない。ただ、カルロのこの性質を目の当たりにするたびに、母や姉たちに引き合わせるには時期尚早と感じるのだ。
一時はブレット自身、カルロの女性嫌いをどう治してやるべきか悩んだこともある。しかしカルロとの関係に腹をくくってからは、彼に無理を強いようとは思わなくなった。むしろ、男だろうが女だろうが、お遊びでも目移りするなんて赦せないし、浮気でもしようものなら鉛玉の百発や二百発は撃ちこんでやる所存でいる。そんなブレットの危ういほどの独占欲に、カルロはファンや関係者には決して見せない嬉しげな笑顔をあらわにした。
とにかく、カルロが極端な女性嫌い、またはゲイであることは公然の秘密だ。一方で、その長年にして唯一の相手がN△S△の宇宙飛行士だという事実は、今なお極めて限られた人々の秘密になっている。世間様に対しては、マネージャーとして常に傍に侍るジュリオが(本人たちは噂されることすら不快でたまらないそうだが)良い目くらましになっている。ミラーとて、レスティングルームに他に誰もいないからこそ、この話題を出したのだ。
「お前だけじゃなかったさ」
かつてアストロレンジャーズと呼ばれたメンバーに、ブレットがカムアウトした直後の狂乱は今も語り草だ。ほかならぬミラーも、ブレットとカルロの交際に猛然と反対意見を述べたうちのひとりだった。
「そりゃジョーとエッジはカルロ……っていうかロッソ嫌いだからおかんむりだったけどさ、俺はあの二人とは理由が違ったんだよね」
「初耳だな」
昔の記憶をたどるミラーは、生意気そうな顔とそばかすはそのまま、あの頃よりも随分と背が高くなった。成長期から今日にいたるまで、ブレットを抜くことはできなかったものの、線が細い体つきのおかげで、実際の数字より高身長な印象を与えるだろう。
そんな彼が、幼さを取り戻した仕草と表情で秘密を打ち明ける。
「俺にとって、ブレットはパーフェクトだったんだ」
頭が良くて冷静で、訓練の成績は常にトップ。プライベートでは面倒見が良くて、温厚で、トラブルにも滅多と声を荒上げたりしない。外見は好みもあるだろうけれど間違いなく平均以上、赤みのないブロンドと魅惑的なブルーグレイの瞳は光り輝いたまま。エリート意識とプライドの高さはそれに見合うだけの努力を積み上げてきた証であるし、長年の欠点だった詰めの甘さも、仲間にカヴァーされることを学んでからは大きな失敗を引き起こさなくなった。
宇宙飛行士としても、チームリーダーとしても、また一人の男性としても、申し分ないミスター・パーフェクト。それがプレティーンで彼のチームメイトとなったミラーの、今日(こんにち)まで変わらないブレットへの評価だった。
「べた褒めだな、寒気がする」
「だから今日まで言わなかったろ」
恥ずかしいに決まってると、年の割には似合うふくれっ面を一瞥したブレットは、口角を上げて肩を震わせる。すぐに視線を戻したテレビでは、カルロのインタビューはまだ続いていた。
「実際、偶像視はしてたよ。ブレットは間違いなく宇宙飛行士になれると思ってたし、しかもとびきりのね。でっかいことやってくれるって、信じてた。今だってナンバーワンはブレットだって俺は信じてるよ」
「おいおい、プレッシャーかけるなって」
「俺一人の期待で潰れるようなリーダーじゃないっしょ」
事実、ブレットはミラーの期待を裏切らなかったし、今も応え続けている。
「だからさ、そんなブレットのパートナーになる人も、きっとパーフェクトなんだろうなって。誰もが羨むような美人でさ、上品で賢くて性格も良くってバイタリティに溢れた、そんな、女性じゃなきゃ、釣り合わないって」
思ってた、と言い終えたミラーは口をつぐむ。ようやくブレットは、テレビの中のカルロから傍らで俯く青年に顔を向けた。
ブレットのカムアウトは、唯一ミラーの期待を裏切った。それでもこのご時世、セクシャリティについてはとやかく言うものじゃないと、ミラーが割り切るのは早かった。ミラーの理想にあった「女性」という単語を「人」に変えればすむことだ。けれど他の部分はどうにもならない。ミラーが描いた「ブレットのパートナーにふさわしい」パーフェクトな人物像と、カルロは決してイコールでは結ばれない。
「顔は、まあ、ハンサムだよ。むかつくけど。バイタリティもあるんじゃないの。きっつい生い立ちからここまで成り上がったんだからさ。頭だって悪くないんだろうぜ。でもさ、やっぱり俺にとってカルロは、WGPのアレで……、あの印象はやっぱ、そう簡単には覆んないよ……」
だから、赦せなかった。ミラーは、消え入りそうな声で呟く。床に言葉を落すその表情は、こわばった微笑に固まっている。カルロのせいで、パーフェクトであったはずのブレットの人生に、傷をつけられた気がしてしょうがなかったのだと。
ブレットは騙されているのだ。深窓のご令嬢がうっかり不良男に惹かれるのと同じ心理だ。それは自分に無いものへの憧憬という名の幻想であって、愛や恋だなんて感情に比べれば脆いことこの上ない。ましてや人生のパートナーに選ぶ動機にはふさわしいはずがない。そう、ミラーは考え、ブレットの目を覚まさせようとやっきになった結果が、あの騒動だった。
ミラーは顔を上げ、ブレットをふり返る。カルロを詰るセリフを吐いた先ほどに比べて、彼は幼さの抜けきれない顔にずっとやわらかい微笑を浮かべていた。
「でもそれってさ、俺の押し付けじゃん、って気づいたんだ」
カルロにぶつけた怒りや恨みの根っこは、どれもこれもミラーが勝手に描いて、ブレットに押し付けていた理想像と繋がっていた。だが、それこそが幻想だったのだ。ブレットはミラーのために存在するわけではない。
「俺もいい年だしさ、いつまでもガキのころの妄想引きずってるわけにもいかないだろ。だから、俺の憧れからブレットを自由にしてやろうって思うんだよ。で、ついでに、カルロとのことも、ま、祝福してあげてもいいのかなって、最近は、少しは、そう、思えるようになった? かなって……」
そこまで腹を決めておきながら、カルロに関しては留保の合いの手が多くなるのはどういうわけか。ブレットは自然とブルーグレイの瞳を眇めて笑っていた。自業自得と言えばそれまでだが、カルロが背負う過去の悪行は根深い。ミラーの気持ちも、カルロの重ねた苦労もわかるからこそ、ブレットは(もう随分と慣れてきた)カルロに対するフォローにとりかかるのだ。
「カルロも同じさ」
わずかに目を見開いて、首を傾げるミラーを誘うようにブレットは薄いブルーアイズをテレビの中に向ける。ヒールぶる必要がなくなったカルロは、珍しく、口角をわずかに上げただけの笑みを浮かべていた。レース直前はもちろん表彰台でも、カルロは満面の笑みを見せない。Motoの公式サイトに載る顔写真すら、他のライダーたちの笑顔が並ぶ中、カルロひとり歯を見せない徹底ぶりだ。おかげでシニカルな微笑ですら、彼のセクシャリティを問わない女性ファンには垂涎の的であるらしく、テレビの中でもひときわ多くのフラッシュがたかれていた。
ありのままのカルロが、これほど多くの人に受け入れられる日が来ようとは。誇らしい気持ち半分、ここにたどり着くまでにかかった時間への切なさ半分で、ブレットは口を開いた。
「『ピカロはもうごめんだ』」
「え?」
「あいつの口癖」
かつてカルロは、嫌われ者であることを厭わなかった。悪党と罵られることを毛ほども気に留めていなかった。だがそれは、世間から向けられるイメージや自ら囚われた妄執が、カルロにピカロであることを強いていたにすぎなかったことを、ブレットは知っている。
カルロをがんじがらめにしてきた、目には見えない怪物。偏見や思い込みという名の怪物に、カルロは勝った。だから今の彼の姿がある。
「『自分らしく』『ありのままに』 良い言葉だが、それだけに難しい。だがカルロは成し遂げた」
だから余さずこの目に映しておきたい、記憶にとどめておきたいと、ブレットは寸暇を惜しんでカルロを見つめる。そんなブレットの横顔に、ミラーの声が向けられる。
「カルロがピカロを捨てられたのは、やっぱ、ブレットのおかげ?」
「自負はある。それでも、困難な道を選んだのはあいつ自身だ」
そのくらいガッツがある男じゃなきゃ、十何年も惚れてないさとブレットは肩をすくめた。
雨の日のカルロは動かない。まったく、動かない。ではどうしているかというと、いつも一か所でじっとしている。ミラノの自宅(ロードレース転向とともに彼はトリエステからミラノに居を戻している)の中では、夏は一番涼しく冬は一番あたたかい一角に置いた、ひとり掛けのソファが彼のお気に入りだ。その居心地のいいソファの上で、長い手足を器用に丸めてじっとしている。
雨に濡れた靴の気持ち悪さが、カルロはことのほか嫌いだ。故に、小雨だろうが傘があろうが、休日に車もなしに外に出るなど言語道断であるらしい。その姿に「まるで寒い日の猫だな」とブレットが呆れれば、カルロは「てめぇは雪にはしゃぐ犬だ」とやりかえしてくる。
雨でなくとも、カルロは基本的に外出嫌いだ。嬉々として出かけるのは蚤の市が開かれる朝くらいなもので、彼と予定の合わない休みには、仲間たちとトレッキングや高所めぐりに精を出すブレットとはまるで正反対だった。そうして何かと外に出たがる活動的なブレットを、カルロはソファで丸くなったまま「じっとしていられない犬」だと揶揄する。
おかげでブレットは、カルロとイタリア観光した覚えがほとんどない。連れて行けとせがんでも、彼ががんとして動かないのだからしょうがない。あまりしつこく縋ると、しまいには「ひとりでどこへなりとも行って来い」と追い払われる始末。それで実際にブレットがひとりで出かけてしまうと、帰った後に盛大に拗ねられるものだからたまったものではない。付き合い始めた当初、この行動範囲のズレはよく喧嘩に発展した。
今日も今日とて優れない空模様に、早々に雨を察知したカルロはソファにかじりついている。案の定、一時間もしないうちに外はどしゃぶりの雨になった。冬の寒さとあいまって、火を入れた暖炉のそばでますます身を丸くするカルロの姿に、ブレットは今日も自動的に猫を思い浮かべる。そして猫からの連想に、ブレットはあることを思い出した。
「初対面のときのお前は、猫かぶりまくりだったな」
同時によみがえるのは、先日アメリカでしたミラーとの会話だ。今、ブレットの目の前にいる(ソファの上ででかい図体を丸めている情けない姿の)彼がありのままというのなら、WGP時代のカルロはその正反対の位置にいたことになる。
ソファに身を沈めているカルロは、ブレットの言葉に怪訝そうに顔を上げた。
「初対面って……、選手宣誓ん時か」
「いや。最初のリーダーミーティングに呼び出された時だ。お前から初めて声をかけられた」
よく覚えていると付け足せば、お前はなんでも覚えてるだろうと言い返される。コンピューターとも肩を並べかねないブレットの記憶力に、なんだかんだでカルロは全幅の信頼を置いてくれていた。ブレットからやや遅れて、記憶の道を引き返した先でカルロも同じ思い出にぶちあたる。
「……ああ、アレか」
「選手宣誓を褒められた」
「マジで全部覚えてんのか」
「お望みならセリフも再現いたしましょうか」
胸に手を当てて芝居がかった会釈をすると、ソファの上でカルロがひらひらと手を振って拒絶の意を表した。
「やめろやめろ。黒歴史どころの話じゃねえぞ」
カルロが心底嫌がるから、再現は自分の心の中だけにしようとブレットは口を閉ざす。ムーングレイの瞳は雨の脅威から身を守ろうとするカルロを見つめたまま、記憶の方は二人の初対面まで遡りはじめていた。
『チャオ、シニョール・アメリカーノ。良い選手宣誓だったな』
ミーティングルームに向かう道すがら、後ろから声をかけてきたのはカルロの方だ。あのころのカルロは、それはそれは人当たりの良いさわやか少年の皮を一分のスキもなくまとっていて、追いついたブレットの肩にも(あたたかいものアレルギー真っ盛りのカルロには苦痛の所業だっただろうに)実に自然に腕をからめてきた。
『俺はカルロだ。ロッソストラーダのリーダーってやつ』
『知ってる。イタリアじゃ負けなしだってな』
『あんたに知られてるとは光栄だな。お互い、宣誓通りの良いレースをしようぜ』
そうして握手を求めてきた少年がその内心で、育ちのいいエリート少年への激しい嫉妬や敵愾心を抱いていたことなど、この時のブレットは想像だにしなかった。だが今思えば、カルロがブレットの選手宣誓に見せたこだわりこそ、彼の本当の願望だったのだとわかる。そんなカルロは、和やかに進む会話の裏でブレットに牙をむく算段を冷徹に整えようとしていた。
『まだミーティングまで時間があんだろ、ちょっとあっちで話さねえ?』
しきりに他所に連れ出そうとするカルロの誘いに、警戒心をすっかりほだされていたブレットは乗りかけていた。旧知のユーリが姿を見せなければ、何の疑いもなくカルロの後に付いて行っただろう。
「俺を連れ出して、お前はどうするつもりだったんだ」
とうに察しのついていることを、ブレットはあえて尋ねる。予想通り、現在のカルロは心底バツの悪そうな顔で答えた。
「……ルキノたちと、ぼこぼこにしてやるつもりだった」
「だろうな。腕の一本は折られてたか」
危なかったとブレットは笑って肩をすくめる。あの段階でリンチにあっていたとしたら、さすがに彼とこんな関係にはなれなかった。邪魔してくれたユーリには感謝せねばなるまい。
あの頃のカルロには、ブレットが立った宣誓台は憧れの場所だった。そこに、親の力で不自由なく育ってきた人間が立っている。カルロには赦しがたい光景だったろう。ブレットが親の力だけでなく(育った環境に恵まれていたことは否定できない)、自らの才覚と努力によってあの場所にいたことをカルロは知らなかった。
「もしタイムマシンがあったなら、あの頃に戻って、お前を抱きしめてやりたいよ」
この世の何もかもを敵視して、ナイフを振り回す必要などないのだと、ブレットは好みのサイエンスフィクションの力を借りてでも、心をさかむけだらけにしていたカルロに伝えてやりたいと願う。
「やめとけ。あの時の俺じゃ無理だ」
カルロのセリフは自嘲以上に真実をついている。ブレットの体温は、あたたかいものアレルギーが最も深刻だった頃のカルロには毒でしかなかっただろう。触れ合った場所から肌がただれ、カルロは激痛にのたうち回るはめになる。
バトルに荒んでいたかつてのカルロに胸を痛めつつ、ブレットは今のカルロの背後にまわる。そして後ろからあの頃のカルロに代わって、今のカルロを抱きしめた。限定的(特にブレットが関わる場面がほとんど)ではあるけれど、26歳になったカルロはあたたかいものアレルギーを随分と克服している。
「マシになったもんだ」
「誰かさんのおかげでな」
例えば道を行き交っただけの、縁もゆかりもない人物からの親切を素直に受け取れるようになった。例えば距離感が近すぎる女性インタビュアーのあしらいも、そつなくこなせるようになった。熱烈なファンの秋波にも、機嫌が良いときは小さく笑い返せるほどだ。ずっと拒み続けてきたトラットリアでの食事も、こんな雨の日でなければ問題ないことをブレットは知っている。
少しずつ、確実に、カルロの心の錆が剥がれ、固く閉ざしてきた門や扉に潤滑油がいきわたっていく。そんなカルロの変化もまた、同じようにゆっくりと周囲の人間に受け入れられていく。
「ミラーから、お前に伝言を預かってる」
だからブレットは、伝えるなら今だと思うのだ。ブレット以外から与えられるあたたかさも、今の彼なら火傷を負わずに受け止められるかもしれない。
後ろから耳に吹き込まれた名に、腕の中でカルロが首をよじってふり返った。
「ミラー?……ああ、おまえんとこの4番目か。そいつが何だって?」
「俺を幸せにしないと赦さないそうだ」
なるべくさらりと、伝えたつもりだった。それでも、腕に触れるカルロの肩がこわばるのがわかる。ミラーの思いやりにアレルギーを出させるまいと、ブレットは両手でカルロの肩を慰めるようにさすった。
これは非難じゃない。罵声じゃない。赦しや優しさと呼べるもので、そういうものの方がずっと苦手なカルロに、怖いものじゃない、俺が傍にいると、ブレットは伝えることが上手くなった。
『リーダーはやっぱりパーフェクトじゃなきゃ。ほんと、パーフェクトに順風満帆で、幸せな人生送ってほしいんだよね。だからさ、泣かせたり不幸にすんなら赦さねえよ、俺』
そう、カルロに言っといてよ、とミラーはそばかすをかきながら笑ったのだ。
「カルロ……」
大丈夫か、そう続けようとしたブレットを遮るように、彼の手が肩を撫でるブレットの手を掴んだ。
「4番目に伝えろ」
ミラーって名前があるんだが、とツッコミを入れるのは野暮すぎる。わかったと答える代わりに、ブレットはカルロの手を握り返した。握り合った手の下で、カルロの肩が膨らむ。そして彼は伝言への返事を紡いだ。
「『15年後を見てな』って」
15年。
カルロが口にした歳月がどこから出てきたのか、ブレットはすぐに理解する。カルロとブレットが出会って、今年で15年。それはカルロが本当の意味で自我に芽生えてから、自分の中のピカロと決別するまでに要した時間だ。ひとりの少年が大人の男となって、穏やかで幸福な生き方を勝ち取るまでにかかった時間でもある。人が誰かを(他人であれ自分自身であれ)幸せにするには、少なくともそれくらいの時間がかかるものなのだ。
「わかった、伝えておこう」
この15年のおかげで、ブレットはひとりがけのソファ(ブレットのくっつくスペースがないのが問題だ)から動かないカルロにあまり腹を立てなくなったし、カルロもブレットが逢瀬の間に多少の単独行動をしても目くじらを立てなくなった。あと15年もすれば、一緒に観光地をめぐったり、日がな一日どこへも出かけず二人で体温を分け合う過ごし方が板につくかもしれない。こんなどしゃぶりの雨の日にだって、傘を差して出かけられる日がきっとくる。
カルロにぐっと、手を引かれた。軍用銃や飛行機の操縦桿、今はバイクのハンドルグリップを握ってできた胼胝の感触が愛しいブレットは、誘われるがままソファの前に回る。
「ほら、来い」
自分の膝をぽんぽんと叩いて、カルロはなおもブレットの手を引き寄せた。カルロの腿の間に尻を乗せれば、背中を支えられて横抱きにされる。カルロの首に腕を回して、足を上げたブレットはカルロとともにひとりがけのソファに収まった。5.9フィート(約180センチ)級の成人男性二人を抱えさせられたソファは、不平の軋みをあげるけれど、カルロに気に入られているだけあって安定感は抜群だ。そしてブレットがしがみつくカルロの首も、出会ったころが嘘のように太く逞しいものへと成長を遂げている。
探るように顔を覗きこまれ、ブレットは首を伸ばしてカルロに応える。ちゅ、と触れるだけの口づけはくすぐったかったけれど、外の雨音も遠ざかる多幸感で二人を包み込んだ。向かい合って、見つめ合って、自分だけを映す青い瞳をはめこんだ顔に触れてみる。カルロの肌は、頬と言わず唇と言わずブレットにとてもよくフィットした。
「足んねえ、もっとだ」
そんな似合いの唇が、ブレットのそれと重なり合う。口唇の肉を押し潰すだけのキスに、ブレットも唇を尖らせて応じた。ちゅ、ちゅ、と啄む音が、またしても窓を打つ雨音を払いのける。食み合った唇が離れる間際には、名残惜しさにねっとりとした空気が互いの隙間を埋めた。
自身の両手に収まる、カルロの最高にハンサムな顔を見つめてブレットはほくそ笑む。老獪なレースを展開するクレバーさと狡猾なまでにテッペンを狙うバイタリティをクールな表情の下に隠し持つ彼は、「こんなイイ男は他にいない」とブレットに思わせるし、彼を見出した己の審美眼を自画自賛させずにはいられない。
その彼が、15年後を約束した。彼にそうさせる価値のある自分を、ブレットは誇りたい。
「とりあえず、あと15年は別れずに済みそうだ」
「おいおい、15年ごときで頼りねぇな。一緒にじーさんになってくれるんだろ?」
挑発的なカルロの軽口に、ブレットは笑って抱きしめる腕を強める。カルロの悪戯な唇が、ブレットの耳たぶや首筋をくすぐってきた。官能を引き出すには浅すぎる刺激に、くすくすと肩を震わせながらブレットはカルロが口にした15年に思いを馳せる。
15年後はどうなっているだろう。ブレットは宇宙飛行士を続けていられるだろうか、カルロはロードレースを引退し新しい道でブレットを驚かせてくれるにちがいない。ブレットもカルロも子どもは産めないけれど、この関係に(どのような形にせよ)新しいメンバーが加わる可能性だって否定できないのだ。
洋々たる前途に胸を膨らませながら、今はこうして、自分が腕に抱いた「幸福」の形をブレットは忘れまい、放すまい、失うまいと願う。そのためなら、どんな困難な壁でもぶちやぶる覚悟だ。二人に立ちはだかる最も大きくて分厚い壁を、ブレットはずっと昔から避け続けてきたけれど、逃げること自体がもうカルロへの侮辱のような気さえする。
出会って15年、目覚ましい回復を見せ、克服されつつあるカルロのあたたかいものアレルギーに、自分はもっと期待してもいいのかもしれない。母や姉たちを前に、彼がきちんと立っていられる可能性に賭けたかった。
「なあ、カルロ」
「んー?」
腕に抱き込んだ、カルロの耳に唇を寄せて囁く。悪ふざけをやめ、本格的にブレットの性感帯を探り始めていたカルロは、油断しきっていた。
「俺の両親に、会う気はないか」
核弾頭じみた誘いに、抱きかかえたブレットごとカルロがソファから転げ落ちるまで、あと少し。
春を嘯く
(もっともっと、幸せになろう)
+++++++
冒頭引用はアリストテレスより。
アストロメンバーは全員カルブレに絡めたかったので、ようやくそれが叶いました。
ミラーは一番年下と言うこともあって、ブレットへのあこがれが強いのではないのかなー、と妄想。
あと、根明で行動的なブレット(=犬)と根暗でヒッキーなカルロ(=猫)ということで、rain cats and dogs(どしゃぶりの雨がふる)という全く伝わらないシャレ。
ブレットのご両親にカルロがご挨拶する話もかけたらいいなーいいなー。あと、藤吉+カルブレ話とかね。
そういえば、ロッソはまだジュリオしか絡めていないな。
【ロッソのWGP後妄想】※白黒反転
ジュリオ……ストリップバーだかゲイバーでウリ子しているところを、ロードレースに転向したカルロに見つけ出されてマネージャーに。
ルキノ……ずっとドンのところにいそう。でも一応表家業の方でがんばってる。カルロと同じくレースの世界にいて、どこかで再対決できるといいな。
リオーネ……すちゃらか警官。なぜか警官。自分でも何でリオーネを警官にしようと思いついたかわからない。ま、一応真っ当に生きてるということで。
ゾーラ……あまりイメージがわかない。趣味の「ポルチーニ狩り」のインパクトが強すぎたのか、うっすら農村部にいる気がしている。
ロッソじゃないけど、リョウくんも警官とか自衛隊系かなぁ。トラック野郎も捨てがたい。
さて、こんなやつらをどうやって絡めようか。
2015/08/20 サイト初出。
2015/08/20(木)
レツゴ:チョコレートナイフ(カルブレ)
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