【必読!!】
※カルロ12歳、ブレット13歳、WGP2inアメリカ
※「断罪のマリア」(前後編)「最善の悪意」(前篇)を踏まえてお読みください。
※公式キャラによる暴力描写あり。
※ブレットのターン、そして相変わらずカルロが可哀想な感じ。
※カルブレ以外の公式キャラもちらほらと登場します。(セリフのある公式キャラ:烈、エッジ、ユーリ、ワルデガルド、シュミット、エーリッヒ)
※タイトルは「21」さまより。





 「ブレットくんは友達が多いね」
 そうコメントしたのはビクトリーズの星馬烈だ。同じことを言うのは彼だけじゃない。弟の豪に、ジムやピコに至るまで、多少なりともブレットを知る人間は異口同音。だがエッジは、いつも心のなかでNoと答えてきた。




 最善の悪意




 第二回ミニ四駆世界グランプリは、アメリカ各都市をめぐるサーカス仕様だ。ニューヨークに始まりロサンゼルスを経て、大会も折り返しつつある今はサンフランシスコを会場にしている。
 新しい都市に赴くたびに、地元の大学教授、研究員と名乗る人々がブレットとの面会を求めてFIMAの施設に訪れていた。それが人目には、旧交を温めに来た友人の姿と映るらしい。
「友達っていうか、仕事相手なんだけどなぁ」
 ブレットはN△S△ユースきっての天才少年で、宇宙飛行士の卵であると同時に新進気鋭の学究の徒でもある。グランプリに参加する以前も以後も、ブレットは昨今発達のめざましいワールドワイドなネットワークを活用して、遠く離れた地にいる碩学たちと学問的な交流を続けてきた。ウェブ上でしか知らない天才少年が最寄りにいると聞き及んで、彼らはひと目会いたいと足を運んでくる。まるで珍獣見物の観光客だ。
 一体あの中の何人が、ブレットの「友人」と呼べるのだろう。ブレットの交友関係について尋ねられる度に、エッジは首を傾げてきた。
「友達どころか、敵かもしれないだろ」
 どんな分野であれ、飛びぬけて優秀な人間の周りには取り巻きが現れる。利権のため、評価のため、自尊心のため、優秀な人物の恩恵に少しでもあずかろうと皆必死だ。そのためなら、心無い言葉でちやほやとほめそやすことも、わざとらしく媚びを売ることも辞さない。そういうタイプに限って、取り入ることに失敗するや否や手のひらを返してくるのだからいい迷惑だ。エッジとて少なからず経験のあるあれそれを、ブレットがわかっていないはずがなかった。
「ステラちゃんだって、結局そうだったんだよなぁ」
 一か月ほど前、ブレットの前に颯爽と現れ、瞬く間に彼を独占し、しかし二週間と経たずに姿を消した少女をエッジは思い返す。MIT時代の旧友で、ブレットと対等に物を言いながらも屈託のない笑顔を見せた彼女。ブレットに紹介された当初、こんなにも非の打ち所がない人間がいるものかとエッジは驚いた。
 賢くて、可愛くて、ブレットにぴったりの良い子だと思ったのに。とどのつまりはステラも、ブレットのガールフレンドだなんておいしいポジションに収まって、好き勝手したいだけだとわかった時には失望させられた。そして、例えMIT時代からの友人であっても、相手の心づもり如何では切り捨てなければいけないブレットにエッジは心からご同情申し上げる。シビア過ぎると非難されるかもしれないが、こういう手合いを相手に悠長に構えていると、散々利用されたあげく足元をすくわれるなんてこともあり得るのだからしょうがない。裏切りや下剋上は、エリートの社会でも必須科目だった。
 表では媚びへつらい、裏では足を引っ張る、そんな厄介で面倒な奴らを振り切って、残った一人握りの者たちだけがブレットに「友人」として受け入れられる。例えばドイツのシュミット、ロシアのユーリ。才覚と自立心を併せ持ち、自分の寄って立つ場所を見失わない彼らを相手にして初めて、ブレットは腹を割ることができる。
「俺もその一人だけどね」
 アストロレンジャーズでブレットの右腕になって三年目。彼の隣にいると、エッジはしばしば父と別れる前の母のことを思い出す。バリバリのキャリアウーマンだった母は、同じく生粋の仕事人間だった父と職場結婚した。父は家庭的とは程遠いタイプで、家事の負担はすべて母が負った。兄やエッジを身籠ってからも、母は孤独な戦いを愚痴ひとつこぼさず続けていた。
 そんな母が限界を感じたのは、たった三日の出張から戻り、自宅のドアを開けた時だった。家事をしない夫とやんちゃ盛りの息子二人の手によって、家の中は嵐が過ぎ去ったあとのような惨状を呈していて、その光景に心が折れた母は父との離婚を決意する。以後、息子たちにも最低限、家の中をまともに保つ術を教え込んだ。
 N△S△の訓練もミニ四駆も人付き合いも、何でも完璧にこなそうとするブレットを見ていると、いつか母のように「プッツン」する日が来そうでエッジは心配でたまらない。だからブレットにはブレットなりのストレス発散方法があるのだと、気づいたときにはほっとした。それが天体観測なのが、天文学者の孫らしいとエッジは笑う。ブレットはきっと、最大の理解者である亡き祖父と、星を介して会話しているのだろう。
 そこまで考えて、エッジはちらりと視線の先をある少年に向ける。彼は今日もラウンジの片隅で、トレードマークである古いナイフを磨いていた。
 カルロ・セレーニ。イタリア代表ロッソストラーダのリーダーで、近頃、ブレットの大事な天体観測に参加しているらしい少年。エッジは一度だけ、寮の屋上から二人が連れ立って下りてくるところを目撃していた。エッジですら誘われたことのないブレットの憩いの時間に、一度でも彼が招かれたと言うことはそれっきりではなかった可能性は高い。カルロに対する、近頃のブレットの言動を観察していればその確率はさらに高くなった。
 アメリカで大会が始まってからというもの、どうもブレットはカルロにご執心だ。最近では自由時間に手とり足とり勉強まで教えているらしい。バトルは辞めたものの、未だダーティな気配が色濃い彼の、一体どこかブレットの琴線に触れたのだろうか。

 ブレットにおもねったりしないところ?
 深窓のご令嬢が不良男に惹かれるのと同じ心理?

 ブレットを指して「ご令嬢」だなんて、本人が聞けば怒り出すだろうけれど、実際のところそんなにとんちんかんな喩えでもないとエッジは思う。なにせN△S△が、ブレットの動向に神経を尖らせている。ブレットの父親がホワイトハウス高官であることは理由の一つだろう(N△S△の予算を左右できる立場にいるなんてゴシップすらあるが、真偽は不明だ)。だがそれ以上に、何でも優秀なブレットはN△S△の秘蔵っ子だ。ミニ四駆でグランプリ参戦だなんてわけのわからないカリキュラムも、ブレットの参入に満を持して始動させたと聞く。となれば、N△S△が「ブレットの身辺の安全」に関してFIMAにかける圧力はいかほどか。これが深窓のご令嬢、でなければ箱入り息子でなくて何だろう。
 N△S△におけるブレットの立場はさておいて、カルロに対するブレットの執着は、シュミットやユーリに向けるそれとは明らかに違っている。そしてブレットの「変化」は、何もカルロに限った話ではなかった。
 グランプリにかかわってからというもの、ブレットはN△S△に加入した当時とも、アトランティックカップ時代とも変わりつつある。これまでなら鼻にもかけなかっただろう、星馬兄弟やビクトリーズのメンバーを気に入っているのが何よりの証拠だ。社会的なレベルだとか、頭の良さだとか、これまでブレットが友人選びに重視してきた項目が相対的に地位を下げているようだった。
「だからって、なんでカルロ?」
 そう、エッジの疑問はこの一点に戻る。グランプリレーサーはチームメイトを除いても40人以上いるというのに、その中からわざわざ神経質で面倒くさそうな男を選ぶ理由がエッジにはわからない。老若男女問わず如才なく立ち回れるブレットが、カルロ一人になりふり構わずロックオンしていることが本当に不思議だ。
「だいたいカルロの野郎はどう思ってんだか」
 天体観測に付き合ったり勉強を教わったり、そこに悪意があるとすれば目的は何だ、とエッジは訝しむ。だからついつい、カルロのいるラウンジにブレットが足を向ける度にエッジは後を付いて行った。おかげでジョーからは、金魚のフンと笑われる始末だ。
 そんなブレットの好意の標的にされた、カルロは今日も大人しい。それが嵐の前の静けさだとは、エッジは気づけずにいた。




 事件は、唐突に起こった。
 その日、ブレットは両手に荷物を抱えて、グランプリレーサーが集まるラウンジに姿を見せた。先にいたシュミットやエーリッヒ、それから後を追いかけてきたエッジの視線を受けながら、中央のメインテーブルに抱えていた箱を下ろす。ブレットがその蓋を開けると、とたん、甘ったるい空気がふわりと辺りに漂った。魅惑的な香りに、ラウンジで腰かける少年たちの腰が浮く。
「母の焼いたクッキーだ。食べきれないから助けてくれ」
 シュミットやユーリたちが覗き込んでくる中、いの一番に喜びの声を上げたのは、ブレットの母の味を知るエッジだ。
「これめちゃくちゃ旨いんだよな、でもすっげえ量じゃん」
「先日、親族の集まりがあってな。おすそ分けってやつだ」
 母の意図を敷衍しつつ、ブレットは周囲の人間を呼び込む。育ちざかりの少年たちに、母の焼いたクッキーはたまらなく魅力的に映るだろう。律儀に許可を求めるユーリたちに再度勧めると、四方八方から箱に向かって腕が伸びた。アプリコットジャムにアーモンドとチョコレートが効いた甘い甘いクッキーに、舌鼓を打つ面々をブレットは見回す。シュミット、エーリッヒ、ユーリにワルデガルドとそのチームメイトたち。グランプリレーサーは出入り自由なラウンジの、本日の顔ぶれはこんなところだ。
「確かに旨いな」
 生真面目な北欧チームのリーダーが、脳に直撃する甘さに感嘆の声を上げる。母に伝えておくよ、とブレットはワルデガルドの賛辞に片手を上げて応じた。ユーリたちの口にも合うようだ。食べ慣れているエッジは言うまでもない。
 自分が作りだした人の輪から、ブレットは顔を上げてラウンジの片隅に目をやる。案の定、そこにはただひとりクッキーの誘惑に靡かないカルロがいた。
 本棚にグランドピアノ、各種ボードゲームを楽しめるプレイスペースまで用意されたラウンジは、ブレットがクッキーを置いたメインテーブルを取り囲むように、小さなテーブルとイスが五つほど置かれている。カルロが陣取るのはその小テーブルのいずれかで、決してメインテーブルには近寄らない。
 それでもブレットは、ラウンジというグランプリレーサー共有の空間にカルロがいることを喜ぶ。輪に入らずとも、同じ空気、同じざわめきを共有するだけでいい。変わっていくカルロを、周囲も少しずつ受け入れていくだろう。あせることはない、とブレットは自分に言い聞かせ、カルロをとりかこむ雰囲気が醸成されるのを待ち続けていた。
 そうしてカルロがラウンジに姿を見せるようになって、二週間ちょっとが経つ。あと一週間もすれば、グランプリは次のソルトレイクシティへと会場を移すだろう。新たな施設に移る前に、ブレットはカルロのために、今日行動を起こそうと決めていた。
「そっちの本は何だい?」
 ユーリの声に、ブレットの意識が人の輪に戻る。母のクッキーを手に、ブレットに向けられたユーリのアイスグリーンの瞳には天体図鑑が映っていた。小脇に抱えていたそれを、自由になった両手でブレットは掲げ持つ。
「祖父の形見の天体図鑑だ。お前たちに見せたくなってな」
「やれやれ、星マニアのワンマンショーが始まるぞ」
 ユーリとブレットの間に、割り込むようにシュミットがからかう。母のクッキーは彼の舌にも合うのか、機嫌は上々だった。
 ユーリが図鑑について触れてくれたことはありがたい。シュミットが星語りを容認する態度をとってくれたことも、非常に好都合だった。ブレットの本命はあくまでカルロで、天体図鑑をユーリたちに見せたいというのも、カルロをこちら側に引き込むための方便だ。ここ数か月の天体観測で、カルロはブレットの薫陶をたっぷりと受けている。そんな彼に、折を見て星の話を振るつもりでいた。
 ブレットは天体図鑑を手にカルロをふり返る。そして、声を投げた。
「カルロ、お前も来い!」
 果たしてカルロが、素直に応じてくれるかはわからない。「はい」でも「いいえ」でも、彼が何か一つ反応を示してくれればそれで良かった。ラウンジにいるカルロが、マネキンでも異星人でもなく、口をきけば答えてくれる相手なのだと、ブレットの周りに立つ彼らに実感してほしかった。こちらはいつでもカルロを受け入れる用意があることを、彼に知ってもらう良い機会でもある。
 そんなブレットの期待を受けて、カルロは椅子から立ち上がった。意外にも彼はそのままこちらに歩み寄ってくるではないか。想定していたステップを一つ二つ飛び越えた光景に、ブレットの顔が歓喜にほころぶ。
「おい、ブレット」
 背後のシュミットが低い声で警告を促すが、カルロの軟化した態度に感動するブレットには効果がない。左右にいるユーリやワルデガルドの、戸惑った表情すらブレットは黙殺した。むしろ彼らの警戒心を掻き消したくて、ブレットはカルロに向けて歓迎の意を示す。彼と自分を繋ぐ象徴である、祖父の天体観測を彼に向けて差し出した。
「カルロ」
 ブレットの正面に立つ、カルロの口角が上がっている。彼もどうやら機嫌が良いようだ。今日はクリスマスかなにかだろうか、とブレットは理想的な展開に顔をほころばせる。
 それでいい、あと少しだ。
 カルロの青い瞳にのみ視線を注いでいたブレットは、油断しきっていた。詰めが甘い。カルロにもシュミットにも、しばしば指摘されてきた自分の欠点を、ブレットは忘れていた。
 最初の違和感は音だった。固いものが紙を突き抜けるような、かすかで乾いた擦過音。それが耳を掠めたと同時に、図鑑を持つ手に軽い衝撃が走る。え、という驚きは、果たして声になっただろうか。
 ブレットはカルロを見つめていた目を音の方に向ける。手元に下げた視界に映るのは、自分の両手に握られた祖父の天体図鑑だ。美しい青の表紙、金のインクで無数の星座が描かれた夜空に、銀色の光沢が突き刺さっている。それがカルロのナイフだと、気づくには少し時間が必要だった。
「カルロッ!」
 一番に声を上げたのは、エッジだった。激しい動揺を込めた声に、母のクッキーへの喜びは少しも残っていない。その悲鳴をきっかけに、カルロの腕が大きく動く。きらめく星座が、縦に引き裂かれた。ナイフを握った手が上下に動くたび、切れ味抜群の刃に、紙の繊維が断ち切られている感覚が津波のようにブレットの手に押し寄せてきた。
 ガリガリ、ガリガリ。ハードカバーの表紙にも、カルロの刃は苦も無く傷を付けていく。
「あ、あ……!」
 ナイフの刃が抜かれ、再び突き刺さる。カルロの手が、腕が動く。ミッドナイトブルーの空が切り刻まれていく。
 狂ったように何度も何度も刃を立てるカルロに、ユーリもワルデガルドもシュミットも動けない。ブレットにいたっては、図鑑を支え持ったまま、まるでカルロの暴挙を手伝っているかのようだ。

 何をしている。

 彼は、
 カルロは、
 こいつは、一体何をしてるんだ。

 考える間にも、青い本はブレットの手の中で無残な姿へと返られていく。それが祖父から貰った大切な大切な宝物だと言うことを、ようやく思い出したブレットは叫んだ。
「やめろ!」
 腕に抱き込み、身を挺して宝物を守ろうとするブレットの顔を、尖ったものが掠めていく。目のすぐ下に、ちりりと熱を感じた。
「ブレット!」
 シュミットとエッジの声が重なる。カルロのナイフの刃先が目元のすぐ下を切ったのだと、ブレットが知るのはすべてが終わった後だ。だが、周囲を取り囲むレーサーたちには、その光景がはっきりと見えていた。エッジも、シュミットも、ユーリもワルデガルドも、ブレットの顔に赤い線が浮かび上がるのを目の当たりにする。
 カルロもまた、すべてを見ていた。
 切り口から溢れた血の一滴が、涙のようにブレットの頬を伝う。カルロはナイフを振り回す手をぴたりと止め、一歩後ろに後ずさった。次の瞬間には、踵を返してラウンジから走り去る。
「ヨハンソン!」
「フォックス3! フォックス4!」
 各々のリーダーたちの呼び声で、大柄な三人がカルロを追ってラウンジを飛び出す。天体図鑑を抱えて床に座り込んだブレットに、いくつもの腕が伸びて彼を助け起こした。焦点の定まらない視界に、エッジの赤やシュミットの影がちらつく。彼らは口々に叫んでいた。
「エーリッヒ、スタッフを呼んで来るんだ」
「ついでにうちのジョーにも、救急箱持って来いって!」
「わかりました」
「俺はヨハンソンたちを追いかける。後は任せたぞ!」
 ワルデガルドがエーリッヒと共にラウンジを後にする。その場には、エッジ、シュミット、ユーリが残った。
「ブレット、大丈夫か?」
 ユーリの声だ。
「何なんだよ、あの野郎!」
 エッジが叫んでいた。
「とにかく動くな。これ以上現場を荒らすべきではない」
 シュミットの平坦な声は、逆に彼が焦っている証拠だった。
 頭上で交わされるやりとりを、ブレットは呆然と耳にしていた。音も光も、平衡感覚すら怪しい。何もかもがスローとエコーのバイアスがかかって体内に入ってくる。椅子に座らされた後、動くなと誰かに命じられたが、言われずともとうてい動く気にはなれなかった。

 どうして。
 どうして、どうして、どうして……。

 同じ言葉ばかりが、頭の中を旋回している。腕に抱えた天体図鑑の硬さだけが頼りと、ブレットは腕の力を強める。その時、足元でざらりと、何かが砕ける感触があった。床に目を落とすと、粉々になったクッキーの残骸が散らばっている。どさくさに紛れて、箱がテーブルから落ちたのだろう。母のクッキーが、ブレットの好物が、サマービルでの祖母の味が、たくさんの足に踏み散らかされて無残な姿に変わっていた。

 どうしてだ、カルロ。

「どう、して……」
 こんなことになったんだ。何一つわからないブレットの頬を、また、涙に似た血が流れ落ちた。




 幸いにも、ブレットの受けた傷は小さかった。絆創膏ひとつで事足りると、ブレットは病院行きを固辞している。そもそも雑菌が入ってはいけないと、消毒液やガーゼを当てようとしたジョーの手を拒んだのも彼自身だ。
「俺より、図鑑がひどい」
 カルロによって切り刻まれた天体図鑑を見下ろして、ブレットは呟く。肩を落とした様子を見るに見かねて、エーリッヒとユーリが本の修復を申し出てくれた。手先が器用で責任感の強い二人の厚意に、ブレットは感謝と共に天体図鑑を預けることを決めた。ユーリは、最善を尽くすと傷だらけの本を手にブレットに約束する。彼の穏やかなアイスグリーンの瞳に、ブレットも少しばかり落ち着きを取り戻した。
 図鑑は、おそらくある程度元の姿を取り戻すだろう。ブレットの傷も数日で消えるはずだ。
 けれどどんなに運が良かろうと、直らない、消えないものもある。器物破損に、傷害。オフィシャルの処分がどうなるにせよ、バトルから手を引き、素行も大人しくなり、上向きかけていたカルロの評判は地に落ちた。そのことについて、最初に触れたのはシュミットだ。
「いつか、こんなことになると思っていた」
「……嘘をつくな」
 シュミットの叱責に、返すブレットの声は酷く弱弱しい。それでも、カルロの凶行を当然のことと受け止めるシュミットに対し、一体誰がこんな事態を予測できただろうとブレットは噛みついている。カルロに不用意に近づくブレットに、シュミットが過去に何度も苦言を呈していたことへのやるせなさが、ブレットの反論には含まれていた。
「お前が心配していたのは、俺がカルロの悪い面に染まることのはずだろう。あいつが俺に乱暴することなんて、考えていなかったはずだ」
 シュミットだけではない、誰だってそうだ。もしこの場に星馬豪やルキノがいれば、かつてカルロが豪に蹴りを食らわせたこと、ルキノを殴り飛ばしたことを主張したかもしれないが、幸か不幸か、彼らはこの場に居合わせなかった。
 そう、大方のグランプリレーサーにとって、カルロはレースでこそバトルを好んでいたが、人に直接暴力をふるうような、ましてや凶器を振り回して怪我をさせるほどの悪党とまでは認識されていない。バトルをやめ、精神的に落ち着いた雰囲気をただよわせていた、今大会では特にそうだ。
 ブレットの主張に、シュミットは悲しげに眉をひそめる。そこにはアイゼンヴォルフのNo.2の責任感からも、ドイツ貴族の気位からも距離を置いた、異国の友人を慮る少年の義憤が見え隠れしていた。
「どの道お前が傷つくなら、同じではないのかな」
 傷、という単語に、ブレットはジョーの貼ってくれた絆創膏に触れる。まだ、ちりりとした痛みは残っていた。
「お前はカルロに甘すぎた。その結果がこれだ」
 異議は差し挟めまいというシュミットの正論に、ブレットは頭を抱えて顔を覆う。いやいやをするように、しきりに首を振った。
「わからない、何もわからない。俺たちはうまくやってた。俺はあいつと、友達になれたと思ってたんだ」
 繰り返した天体観測、根気よく続けてきた学習指導、くだらないやりとりに、誕生日を祝って、悪態すら笑って流しながら、真摯な打ち明け話を少しだけ混ぜてきた。楽しかった思い出が、ひどく遠い。
「あいつだって、同じ気持ちで……」
「だがすべては、お前ひとりの思い上がりだったわけか」
「シュミット」
 エーリッヒが窘めるが、遅すぎる。椅子を倒さんばかりの勢いでブレットが立ち上がり、シュミットを睨みつける。絆創膏を近くに添えた怒りは、痛々しかった。
「違う! 何か、何か理由があるはずだ」
「ならそれは何だ? 答えられるか? できるわけがない。お前はカルロを知った気になっていただけだ」
 所詮は生きる世界も、行動倫理も相容れない相手だったのだと、畳みかけるシュミットにブレットの顔が歪む。ふるふると肩をわななかせ拳を握るブレットの姿に、一触即発を恐れたエッジが割って入った。
「おい、落ち着けよ、シュミット。リーダーもだぜ」
「いいじゃないか。ここらではっきりさせておこう。ブレット、お前はカルロの行動の原因に心当たりがない。それで『友達』とは聞いてあきれる」
 ブレットはぐうも音も出せずに俯く。そこへ、ブレットの心情を労わるように、ユーリの手が肩を撫でた。顔を上げたブレットに、ユーリはやんわりとした声で慰めの言葉を口にする。
「俺は、このところカルロと君が近しかったことは信じる。カルロにも事情があるんだろう」
「ユーリ……」
「だけど」
 青とも緑ともつかないユーリの瞳に救いを求めたブレットは、しかし彼の毅然とした態度に肩を突き飛ばされる思いがした。
「事情はどうあれ、彼がやったことは赦されるべきじゃない。何より君は被害者だ、ブレット。無理してカルロを庇うことはないんだ」
「無理なんかしてない! なんでだ、どうしてわかってくれない!」
「お前がわかっていないことを、私たちが理解できると思ってるのか」
 シュミットの声は、ユーリほど優しくない。そして彼の言葉の正しさを噛みしめながらも、ブレットは違う、違うと首を振り続ける。そこにN△S△の秘蔵っ子たる天才少年の面影はなく、親に叱られて言い返したくても語彙を知らない駄々っ子のような、意地にしがみつく13歳の少年の姿があった。
 急に幼くなってしまったブレットを前に、シュミットはみっともないと首を振る。
「お前はいつから、そんなバカな男になったんだ」
 カルロが悪い、所詮カルロはピカロでしかないと、シュミットの降す審判に、ブレットは聞きたくないと耳を塞いだ。




 最善の悪意
 (どうしてだ、カルロ)





+++++++++++
うーん、三人以上の登場人物がいるといろいろ書ききれませんね。自分の力不足を実感…orz
ユーリはまだしもワルデガルドをもう少しちゃんと書いてあげたかった。

幼いころから何かに秀でている人(著名人を問わず)は、周囲にちやほやされて道を踏み外すパターンが多いような気がして。天才少年(どうせ後付設定だろうけど)のわりには、自分を持ってるブレットにはブレットなりの苦労があったんだろうなぁと思うわけです。

2015/07/22 サイト初出。

2015/07/22(水) レツゴ:ステラ事件(カルブレ)【完結】
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