【必読!!】
※カルロ12歳、ブレット13歳、WGP2inアメリカ
※「断裁のマリア」前後編の続き物。前作に引き続き思い切りカル→ブレなターン。カルロがひたすら暗くて重い。
※カルブレ以外の公式キャラもちらほらと登場します。(セリフのある公式キャラ:リオーネ、ロッソのオーナー)
※タイトルは「21」さまより





 リオーネは、胸ぐらを掴まれたまま背中を壁に打ち付けられる。痛みに顔をしかめたところに、カルロの鬼の形相が迫った。
「ドンに何チクった、てめえ……!」
 剣呑な眼光にドスの効いた声が絡まり、リオーネは背筋を凍り付かせる。襟首を万力のような力で締め上げられ、息も絶え絶えの中でリオーネは釈明した。
「お、俺は、何もっ」
「とぼけんじゃねえ、ネタは上がってんだ!」
「ド、ドンにお前の様子、聞かれたからっ……、お前とアメリカの奴が、痴話喧嘩してたって……。俺はっ、見たままを話しただけだっ!」
 締めつけから逃れようと、もがくリオーネの首にカルロはさらに負荷をかける。リオーネが口走った「アメリカの奴」というフレーズに、頭に血がのぼるを感じた。
「ふざけやがって……!」
 ブレットと痴話喧嘩をした覚えはないが、思い当たるとすればカルロの誕生日にステラが押し掛けてきたあの夜のやりとり以外ない。リオーネの部屋はカルロと同じ並びだ。大方ドアの影から二人の姿を盗み見ていたのだろう。会話の中身までは聞き取れなかったのか、二人が言い争っていると誤解したらしい。
 寄りにも寄って、どうしてあの場面を。
「くそっ!」
 カルロは握りこんでいた襟元を放り捨てるように手を放した。首と背中を自由にされたリオーネは、その場でしゃがみこんで咳き込む。リオーネへの怒りがおさまらないカルロは、冷え冷えとした眼差しを彼に向けた。ルキノにしたように問答無用で殴り飛ばさないだけ、むしろカルロの忍耐は成長している。
「このクソ野郎が……」
 床にうずくまるリオーネを見下して、カルロは唸る。カルロのやる方ない憤懣の根っこは、つい先ほどオーナーから呼び出されたモニタールームでのやりとりにあった。
『リオーネから聞いたぞ。近頃懇ろらしいな』
 テレビ電話の画面の奥で、オーナーの口からブレットの名が出る。その瞬間、カルロは全身の血が足の裏から抜け落ちる感覚に襲われた。




 最善の悪意




 ひょんなことから始まり、今日まで続いてきたブレットとの密かな親交を、カルロはチームメイトに気づかれまいとひた隠しにしてきた。ジュリオに「身分違い」を指摘されて以降はなおのことだ。それなのに、こともあろうにリオーネに嗅ぎ付けられるとは迂闊だった。
 これがルキノなら、真っ先にカルロに詰め寄ってくる。敵のリーダーと仲良しごっこかと嘲笑い、チームやオーナーへの裏切りだとカルロを罵ったろう。そうなれば、カルロはいつものように力で奴をねじ伏せれば事は済む。ゾーラは威勢のみでカルロに頭が上がらないから論外だ。だがリオーネはルキノほどカルロに反抗的ではない一方で、ゾーラほどバカでもない。ましてやジュリオのように、なんだかんだで最後にカルロの肩を持つようなことも決してしない。そんな日和見主義のリオーネの口の軽さは、カルロの知らないうちに、ブレットとの接触をオーナーに知られるという、最悪の展開を招いてしまった。
 近頃懇ろらしいな、というオーナーのセリフを、カルロはとっさに否定することができなかった。
『でかしたぞ、カルロ』
 スピーカーにこもる声に、カルロの心臓が凍る。モニターの奥、逆光の中で眼鏡を光らせたその姿は、ホビースポーツチームのオーナーではなく、ミラノの裏社会を仕切る「ドン」のそれだ。
『ちょうど、足掛かりがほしかったところだった』
 そう言ってドンは、カルロに裏稼業のアメリカ進出について語る。ロッソストラーダのサポートを隠れ蓑に、ドンはアメリカ社会に入り込む糸口を探っていた。そのさなかに、カルロが繋いだブレット、すなわちアメリカ政府高官の子息とのパイプは、ドンにとって極めて有効なカードになる可能性があった。
『あの少年を絡めとれ』
 ブレットを経由して、彼の父親の首根っこを掴みたいとドンは言う。カルロは、呼吸も忘れかけた。
『やり方はお前に任せよう』
 本気で骨抜きにするでも、不品行をそそのかすのでも何でも構わない。そうしてカルロが手に入れたカードの、使い道はドンが決める。カルロに拒否権があると考えるのなら、それは彼とドンの力関係を見誤っている。カルロはSiともNoとも言えずに黙り込んだが、ドンは気にしなかった。彼にとって、カルロの答えは常にSiと決まっている。
「次はないぜ、覚悟しな」
 ぜぇぜぇと喉を鳴らすリオーネを憎々しげに睨みつけ、カルロは彼を残して自室に引きこもった。閉じたドアに背中を持たれかけ、天井を仰げば耳の後ろで心臓が暴れる音が部屋中に響く。汗に全身が濡れていると言うのに、手や足の指先が異様に冷たかった。
 カルロは深呼吸を繰り返す。口の奥にたまった唾液を飲みこみ、どうにか気持ちを落ち着けようとつとめた。ふらふらとドアから離れ、ベッドに手をついたカルロの目がとらえたのは一本のナイフだ。握った柄の感触が懐かしい。もう何か月とこのナイフに触れていなかったことを思い出す。ナイフの柄の握り具合以上に、手にしっくりと馴染みだしていたのはブレットが貸し与えてくれる双眼鏡の丸みだった。
『あの少年を絡めとれ』
 ブレットを思い浮かべると、後を追うようにドンの声が再生される。その声の響きと言葉の意味に、また嫌な汗がカルロの皮膚を押し上げた。ナイフの柄をぎゅっと握る拳は震えている。
 ブレット。
「俺は……お前を……」
 ドンに売らなければいけないらしい。




 日付は少し遡る。
 ステラに潰されたカルロの誕生日祝いは、ブレットの強い要望から一日遅れで仕切り直された。場所は相変わらずのアメリカ寮の屋上。サンフランシスコの星空の下、ブレットが咳払いをひとつして、おもむろにカルロの前で歌声を披露した。彼が声に乗せたのは、信仰心のないカルロの耳にも聞いた覚えのある、「アメイジンググレース」の一節だった。

 Amazing grace how sweet the sound,
 That saved a wretch like me.

 ハッピーバースデーの歌に代えたアカペラは、夏の夜空に良く響いた。ただ、ブレットの声は歌よりも演説向きだ。お堅い印象がぬぐえない声で、しかも音符を楽譜通りになぞっていますと言わんばかりの情感のなさが、まさに「クール」を信条とするブレットらしい。神を賛美する歌詞とのギャップが、カルロにはひどくおかしく、なのに不思議と神を信じない胸に沁みた。

 I once was lost but now am found,
 Was blind but now I see...

 伸びに欠けるとはいえ、ブレットの歌い方は発声の方法を知っている人間のそれだ。一曲歌い終えたブレットにお義理の拍手と共に尋ねれば、幼いころは地元の教会で聖歌隊に加わっていたのだと教えられる。
「母が熱心なプロテスタントでな。何かと連れ回されたんだ」
 アカペラが多少なりとも恥ずかしかったのか、ブレットは照れを誤魔化すような早口だ。歌はどうも苦手だ、とらしくない言い訳を重ねる姿が新鮮に映る。それでもどうしてもカルロに歌って聴かせたかったのだと、一応の満足を得たらしいブレットは聖歌隊に話を戻した。
「歌は苦手だが、聖歌隊は好きだった。歳の近い奴らが他にもいたからな」
 10歳そこそこで大学に通う知能を持ち合わせた少年は、同年代の友達に恵まれてこなかった。幼いブレットにとって、聖歌隊での活動は神の前にあっては(学力の境すらなく)平等に過ごせる貴重な時間だった。
「おちこぼれも貧乏な奴もいたが、あいつらといるのは楽しかった」
 そんな聖歌隊もMITに通うのに合わせて辞めざるをえなくなり、N△S△に多忙を強いられる今では、当時の友人たちとはほとんど連絡が途絶えている。わずかにやりとりの残る者たちが、ブレットの宝物だった。
「N△S△やグランプリでも友人はできたが、ライバルでもあるからな。全く気を置かずに済む相手がいるって言うのは、ありがたい」
 この時、カルロの頭にはステラの顔がよぎっていた。昨日までは彼女もブレットにとって「気を置かずに済む相手」だったはずだ。彼自ら貴重と語る存在を(彼女自身にも問題があったとはいえ)ブレットはカルロのために突き放している。そう考えると、カルロの胸がチクリと痛んだ。
 そんな価値が、俺にあるのか。
 彼がカルロに披露した歌声は、チームメイトにさえ聞かせたことがないそうだ。そうまでして誕生日を祝われる値打ちが、自分にあるとは到底信じられずカルロは沈黙を抱える。
 人の機微に聡いはずのブレットは、どうしてかカルロの憂鬱な気持ちを見抜いてくれない。それどころかプレゼントだと言って、カルロに小さな紙包みまで渡してきた。プレゼントは、ナイフを手入れするためのキットだった。
「お前の好みはまだわからないから、とりあえず今回は役に立つものと思ってな」
 まだ。今回は。ブレットの何気ないセリフの一節に、カルロの心は深読みをしたがる。
 赤いプラスチックケースの中身は、目の粗さが異なる複数のヤスリとナイフの固定台、おまけにホーニングオイルまでついていた。神経が荒ぶるとき、心もとないとき、カルロは精神のバランスを保つのにナイフを磨いてきた。その事実を、ブレットはどこで知ったのか。
「グラーツィエ……」
 ブレットの前で、カルロがナイフを取り出したことはない。彼の傍らにいる限り、カルロはナイフではなく双眼鏡を握ってきた。そのことに、カルロは随分前から気づいていて、同時に気づかないふりを懸命に強いていた。
 週に一度、あるかないかの天体観測。一度の観測にカルロが付き合うのは1時間足らず、長いときでも二時間が限度だ。たったそれだけのひとときが、毎日のようにナイフと向かい合っていた過去を上塗りしていく。
「俺も訓練でナイフを使うことがあるから、そう的外れでもないと思うが……」
 どうだ、使えそうか? とカルロのナイフ離れを知らないブレットが反応を伺ってくる。カルロの「役に立つもの」と考えたプレゼントが、今のカルロのポイントを外していると知れば彼はどう感じるだろうか。原因が自分だと気づけば、彼は何を思うだろうか。その想像は、カルロには少し恐ろしい。だから真実を何一つ告げることなく、カルロは「ああ」と頷き、キットに預けられたブレットの真心だけを壊れ物のように受け取った。
「お前のためになるなら、何よりだ」
 自分の贈り物にカルロが一応の満足を見せているらしいとわかって、ブレットは上機嫌だ。「ところで」と夜陰にムーングレイをきらめかせる、朗らかな笑顔で彼は口を開いた。
「カルロは歌は歌わないのか」
「興味ねえよ」
 まさかの話題にカルロは顔をしかめる。ちょっと考えればわかるだろうに、自分が陽気に歌を歌う姿などカルロ自身が想像しただけで背中がうすら寒くなる。だがブレットは、意外そうに月明かりの瞳を丸くした。
「なんだ。イタリア人は『アモーレ、カンターレ、マンジャーレ』なんだろ?」
「なんだそりゃ」
 アモーレ(Amore)は「愛」、カンターレ(Cantare)は「歌う」、マンジャーレ(Mangiare)は「食べる」。恋に素直で、声高らかに歌う美食家。世界の人々が共通に抱く、イタリア人のテンプレートにカルロは鼻を鳴らした。ブレット曰く、N△S△の関係者らしいイタリア人がまさにそんな風なのだそうだ。
「歌わねえ、食わねえイタリア人がいちゃ悪ぃのかよ。だいたいアモーレは名詞だろ、せめてアマーレって言いやがれ」
「ほう、勉強になるな」
 カルロが不平を満載にした即席イタリア語講座にも、ブレットは不平の部分だけを器用に聞き流して頷く。それから後はもう、天体観測も誕生日祝いもそっちのけで、二人でくだらないあれやこれやを語り合った。

 『あの少年を絡めとれ』

 夏のサンフランシスコの、星の下。自分の誕生日祝いに、不器用な歌、小さな贈り物と、傍らで笑うブレットの姿。おとぎ話の一場面かと思わせる幸せな思い出に、ドンの声が闇の帳となって覆いかぶさる。暗い部屋でひとり、ナイフを磨くカルロの手が滑った。
「…………」
 切れ味の鈍った刃先が、カルロの右手の薄皮をひきちぎる。裂けた皮膚の下からじわりと這い出る血を追いかけて、じくじくとした痛みが親指の先にに響いた。ドンに命令を下された夜、久しぶりにカルロはネイルマークに爪を引っかけて折りたたまれたブレードを引っ張り出している。手入れを怠ったブレードの側面は曇りきっていた。
『あの少年を絡めとれ』
 誕生日祝いの夜からドンに呼び出されるまでの数日間に、カルロが考えたことといえば次の天体観測はいつになるだろうか、ブレットにまた歌を歌わせるにはどうすればいいかくらいなもので、彼がドンに目を付けられることなど想像だにしなかった。そんな自分に反吐が出る。
 慣れない「幸せ」に浮かれやがって。
 幸福のコインの裏側には悪魔の横顔。そのことを忘れていた自分を、カルロは殴りつけたかった。




 「どうした? しけたツラして。悩み事でもあるのか?」
 そう尋ねるブレットの声は、さらりとしていた。吹きさらしの屋上に座り込んだ彼は、床に着いた左手で体を支えて空を見上げている。右手に持った双眼鏡からブルーグレイの視線を外さないのは、カルロの顔を直視しない気遣いだろう。
 ブレットの心に取り入るようドンに命じられて以来、カルロは物思いに沈む日々を送っている。彼との天体観測でさえ、問題の根っこが隣にいるせいでトランキライザー代わりにはならない。終始浮かない顔のカルロに、いい加減そ知らぬふりを決め込むのも限界にきたブレットが、気配り上手のリーダー精神を発揮させたのが今夜だった。
「てめえの方こそ、愚痴はねえのかよ」
 ブレットの見えなくも優しい追及の手から、カルロは逃れるために話の矛先を彼に返す。そして自分で尋ねておいてすぐ、ブレットの愚痴を聞いたことがないことに思い至った。案の定、双眼鏡から外れたブレットの瞳は丸い。満月を思わせる彼の双眸は、カルロの気遣いをとても意外だったと雄弁に語っていた。
「現状に、不満はないな。俺はチームメイトに恵まれている」
 もちろん彼らとてパーフェクトには程遠い。それでも、自分を含め、克服すべき課題がはっきりしているのは良いことだとブレットは語る。ブレット自身、自分の詰めの甘さを嫌と言うほどわかっているようだ。
「少なくともチーム仲は円満だ」
「ロッソ(うち)への当てつけか?」
 油断すれば出し抜かれる。リオーネの密告が良い例だと、カルロはブレットに見えない側の手でこぶしを握った。
「チームのことだけじゃない。シュミットやユーリとの意見交換は有意義だし、ゴウやビクトリーズの奴らは新鮮な刺激をくれる」
 彼の言葉から察せられるのは、カルロには真似できない交友関係の広さだ。ドイツのシュミット、ロシアのユーリ、日本の星馬豪にビクトリーズの面々、この場で口に出さないだけで彼が親しくしているレーサーは枚挙にいとまがない。この面子から頭一つ抜け出して、ブレットの歓心を買うのは至難の業だ。だがドンはそれをやれと言う。決して片手間ではこなせない「仕事」に、カルロの気はますます重くなった。
 どうすれば、この「仕事」から逃げられる。
 どうすれば、ブレットをドンの悪意から守ってやれる。
 父親の仕事に横槍を入れるために、自分自身が利用されることを彼はよもや想像もしていまい。
 頭の中で空転するばかりの問いかけは、カルロにもう一つの問いかけをする。ドンに逆らうのか。ドンを裏切るのか。どんなに粋がったところで、カルロは12歳になったばかりの寄る辺ない子どもだ。カルロを救い、カルロに生きる道と従うべき信念を与えた大人は、ナイフ一本で歯向かうにはあまりにも大きすぎる存在だった。
 一年前の、日本でのことがよみがえる。カルロとの戦いに敗れ、ドンに消え失せろと非情に告げられたルキノの悲鳴だ。
『オーナーァァッ!』
 この仕事を拒めば、あの時のルキノをカルロが再現するはめになる。ドブネズミ以下の生き地獄が、カルロを引きずり込もうと闇の中で手ぐすねをひいていた。
 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!
 あの頃にだけは戻りたくない。だが、何かを得るために手放さなければならないものがブレットだとするなら、取捨選択の天秤はとたんにその動きを鈍くする。
「カルロ?」
 沈み込んだ思考を、星空の下に呼び戻すのはブレットの声だ。顔色が悪い、と彼はカルロに手を伸ばす。誕生日の夜に見た雨の舞台の夢がフラッシュバックして、カルロは、幼い自分とシンクロするようにブレットの手から距離を取った。顔を背け、誤魔化すように冷たい言葉を吐き捨てる。
「……クソめんどくせえリーダーなんてやりながら文句もひとつも浮かばねえとは、相変わらず能天気だな」
 カルロに拒まれ、宙ぶらりんになった手をブレットは自分にもとに引き取って話に応ずる。
「そう言われてもな、責任あるポジションに置かれるのは誇りに思うものだろう。雑事は増えるが、今のところ、こうして好きなものに囲まれた時間も持ててる」
 文句をつける先がないんだと、双眼鏡を掲げる彼は白い歯を見せる。ブレットの言う「好きなもの」に、まるでカルロ自身まで含まれているようで落ち着かない。ブレットの一挙手一投足に心が浮つくだけ、ドンの仕事の重みがカルロの中で増していく。
『あの少年を絡めとれ』
 ドンの命令は、カルロが持つブレットへの理(わり)ない感情をたくみに利用しようとしていた。それは、ドンとカルロの力関係と同じくらい、カルロに強力な強制力を発揮する。
 カルロがブレットに向けるある種の感情、友情とは色も形も何もかも違っているそれに、カルロが気づいたのは一日遅れの誕生日祝いでのことだった。
『イタリア人は「アモーレ、カンターレ、マンジャーレ」なんだろ?』
 ブレットが口にした、ありがちなイタリア人のテンプレート。アモーレ(愛)と紡ぐ彼の唇の動きが、嫌にカルロの目についた。
 その夜から、カルロの夢に同じ場面が繰り返し現れる。雨の夢とは違う、美しい星空が広がる光景は、誕生日の夜に見たあの空だ。あの日、あの夜、あの屋上にいなかったはずのカルロの傍らでブレットが微笑んでいて、星を指さし何事か熱心に語りかけてくる。ブレットの瞳に映っているのはカルロだけで、彼が微笑む先もカルロひとりだ。完成された絵画の中に、ステラは影すら存在していなかった。
 憧れの世界に、またしても目覚めたカルロは涙していた。ブレット絡むだけでとたんにだらしなくなる自分の涙腺に、カルロは自分の中の想いを誤魔化せなくなる。ブレットの名前だけが記されたリストに、ついに名前の付けられる瞬間が訪れた。
 これは、友情じゃない。もっと、醜くて、激しい、独占欲のなれの果てだ。
ステラの、ブレットの「ステディ」だと、一時でもカルロが信じた彼女の位置に、カルロは立ちたい。ドンの命令を受けたのは、そのすぐ後のことだった。
「ステラの、ああいう部分に心当たりがなかったわけじゃない」
 ブレットにフラれて以後、ステラはカルロやグランプリレーサーの前から忽然と姿を消した。ブレットが、彼女がMITのプロジェクトチームから外れてボストンに戻ったことを教えてくれたのは、それから数日が経ってからだ。
 ステラはアストロレンジャーズをまんまと丸め込み、カルロをこっぴどく罵倒した。彼女の持つ「自分だけはすべてを赦されている」という万能感を、ブレットは薄々気づいていた。だからこそ見て見ぬふりをしてきたツケを、カルロに払わせたことをブレットは悔いている。
「それでもな、親元を離れて、周りはいくつも歳の離れた大人ばかりで……、そんな大学時代をステラは楽しいものに変えてくれた。それは事実なんだ」
 10歳の天才少年と12歳の天才少女。大人に囲まれ、子どもであることより小さな大人であることを求められていた二人の間に、性別や二歳の歳の差はとるに足りないことだった。
「だからこそ怖い。去年あいつがいたオックスフォードなら俺も知り合いがいる。どこにいても目立つ奴だから、素行のひとつやふたつ確認は取れるんだ」
 だけどできない、怖いとブレットは繰り返す。
「そこであいつが、ステラが、お前の言う通りの振る舞いをしていたのなら、俺への優しさまで偽物だったかもしれなくなるだろ?」
 それはさすがに凹む、とブレットは眉をひそめて俯いた。主人との美しい思い出を振り返る、捨てられた子犬。まさにそんな喩えが似合いの横顔に、カルロは彼にここまで想われるあの女を妬ましいと思う。妬ましくて、憎らしくて、一刻も早く忘れてほしい一心でカルロはブレットの弱い部分に迎合した。
「嫌なら、そのままでいいじゃねえか。寝てる犬をわざわざ起こすことはねえ」
 MIT時代のステラは、間違いなくブレットの親友だった。だが二年の別離の間に、勘違いをこじらせた彼女は変わってしまった。たったそれだけのことだとカルロは強引な幕引きを図る。顔を上げたブレットは、カルロの言葉を噛みしめるように何度も頷いた。
「そうだな。世の中には、暴き立てないほうが良いことも、きっとあるんだろうな……」
 ブレットが納得ともに口にしたセリフは、カルロの秘めた想いに突き刺さる。一年前(気づいてみればもうすぐ一年が経つ)、ブレットとの初めての天体観測の夜が思い出された。日本の秋の夜空に、秋の大四辺形とアンドロメダ銀河を探したあの日。すでにあの頃から、カルロはブレットに囚われていた。
『お前の目は、月に似てるな』
 ブレットの瞳に捧げた、自分の声が記憶の海に浮かび上がる。ムーングレイと、カルロ自ら名付けた光を美しいと思った。星を愛する宇宙少年からの月明かりを、欲しいと願った。ブレットはなかったことにしたいらしい記憶を、残念ながらカルロは忘れられそうにない。
 あの衝動をどう名づけ、どう手懐けるべきか、カルロが判じかねているさなかに「友達」の二文字をブレットは与えてくれた。
 ブレットは賢い。ブレットは世界に愛されている。そんな彼の言葉は、きっとカルロが発するそれよりも正しい形で世界に収まるはずだ。だからカルロは、一度はブレットがくれた「友達」の二文字に自分の心をあてはめようとした。国が違っても、育った環境が違っても、ブレットの大きな心の中に自分の居場所がわずかでもあればいいと、柄にもなく謙虚に願ったのだ。
 だがすべては徒労だった。「友達」の二文字に、カルロの心はおさまりきらない。満足には程遠い現状が、カルロにステラと自分を挿げ替えた夢を見させた。暴き立ててはいけない想いが、「友達」の名札をむしり取って、違う名を付けてくれと叫んでいる。俺を受け入れるだけじゃなくて、お前の心を俺にくれと喉が裂けんばかりに悲鳴を上げている。
『あの少年を絡めとれ』
 オーナーの思惑は、カルロの願いと対立しない。カルロがブレットの心を手に入れることさえできれば、オーナーは彼の父親への交渉カードと引き換えにカルロを高く評価するだろう。その道を、しかしカルロは進めない。自分の中にあると気づいたばかりの「良心」が邪魔をする。ブレットからカルロに向けられる友情に対して、これは重大な裏切りだと、恋心の真向いから叫んでいる。
 どうすればいい。
 なら、どうすればいい!
 自分はドンに歯向かえるのか。できるはずがない。カルロがそう確信するのには理由があった。それはドンに一度だけ見せられた、組織の誓いの儀式のせいだ。ロッソストラーダが作られる以前から、ドンはカルロを買っている。いずれお前もこの儀式をするのだからと、ドンはカルロに立ち会いを強制したのだ。
 明りのない部屋にはドンとカルロ、そして儀式の主役である若い男がひとり。男は顔にべっとりとワセリンのようなものを塗りたくっている。ドンが男の前に立ち、一本のマッチに火をつけた。火のついたマッチは、ドンの手によって男の顔に運ばれ、火はマッチの先から男の顔に燃え移る。火は瞬く間に炎となって男の顔を包み込んだ。暗かった部屋が、男の顔に浮かぶ炎に照らし出される。
 男の顔が燃えている間、ドンは呪文のような言葉をつぶやいている。顔を燃やしながら、男は動かなかった。炎に溶けた何かが、男の頭から流れ落ちぼたぼたと床に音を立てる。そしてドンが全ての文言を言い終えた時、ようやく濡れたタオルが男の顔にかぶせられた。炎は一瞬で消え、部屋は以前よりも濃い闇に沈む。
 顔をぬぐった男の顔は火傷もなく、眉毛と睫に焦げた気配が残るだけだった。これで男は、表社会を生きてきた「顔」を焼かれ、全く別の、新しい人間に生まれ変わったのだとドンは言う。
『よく覚えておけ、カルロ。これが炎の掟だ。組織を裏切った時、この男は本当に顔を焼かれることになる。生きたままでな』
 それはカルロに、組織への帰属意識を植え付ける意図があってなされたのだろう。ドンの思惑通り、眼前で繰り広げられた常軌を逸した炎の掟は、恐怖と言う名の足かせをカルロに嵌める。顔を焼かれてもドンに傅く若い男の存在が、ドンをますます巨大に、まがまがしいものに見せていた。
 この大人に、見捨てられては生きていけない。これだけの力を持ったドンに、背を向けて生きていける場所などどこにもない。カルロはその利口さ故に思い知った。
「なあ、カルロ。聞いてくれるか」
 またしても、ブレットの声がカルロをこの世の表に引きずり出す。ブレットの持つ響きは、カルロをほんのひとときでもドンの呪縛から解き放つことが出来た。それなのに、他ならぬブレットの醜聞をドンは望んでいて、カルロは彼を守る力を持たなかった。
「正直なところ、俺はあまり友達がいない」
 カルロの絶望など何も知らないブレットは、全幅の信頼も露わに懐を開いてくる。お前、うちのドンに狙われてるぜ。そう言ってやれない自分を、カルロは心底軽蔑した。
 幼いころから天才児ともてはやされてきたブレットは、媚びへつらう人間を振り払ってここまで来た。早すぎた大学でもN△S△においても、知人はそれこそ星の数ほどいても、友人と気兼ねなく呼び合える相手は少ない。自ら望んだこととはいえ、学業に追われるように生きてきたブレットは、ミニ四駆に出会うまで遊ぶことを知らなすぎた。
 事情は違えど、友達にも遊びにも縁遠かったのはカルロも同じだ。そんな二人が、WGPで出会って気づけば星空の下で語り合っている。
「俺は毎日、宇宙に出ることばかり考えてる。一日だって早いほうが良い。嘘じゃない」
 そんなことは知っていると、カルロが口を挟む前に、だけどな、とブレットは逆接の言葉を繋ぐ。
「このWGPが、いつまでも終わらなければいいとも思う。それくらい毎日が楽しくて、楽しくてしょうがないんだ」
 勉強も将来もそっちのけで、ただ目の前にあるコースで速さを競う。時間も忘れて、熱中しあえる仲間がいる。レースは遊びではないけれど、一度コースを後にすれば、こうして腹を割って話せる相手がすぐそばにいる。
「お前も、そうなら良いんだがな」
 そう、こちらの顔色を窺うように、上目づかいで微笑むブレットが、カルロはとても眩しく、手の届かないほど遠くに見えた。




 シュッ、シュッ、と金属が擦り上げられる音が続く。明かりもつけない部屋のベッドで、カルロは窓から差し込む月明かりだけをたよりにナイフを磨き続けてきた。砥石がブレードの上を滑るたびに、刃が鋭利になる手ごたえを感じる。余計な凹凸と共にブレットとの思い出までもが、そぎ落とされていくような気がした。
 自分の気持ちとドンから命令に始末をつけるため、カルロは一晩中ナイフを磨き続けていた。儀式めいた行為に、ブレットから贈られた砥石は使えない。彼の真心のつまったキットは、あの夜から封すら開けられずに引き出しにしまわれたままだ。代わりに、使いすぎてほとんど用の成さない古い砥石で、カルロは根気よくナイフの刃を研ぎ続ける。効率の悪さに腕が痺れても、カルロは譲らなかった。
「こんなもんか……」
 磨き始めて何時間が経っただろう。月明かりの角度も随分と変わってしまっている。グリップを握る手首をひねれば、ブレードの側面が月光をはじき、カルロの顔をクリアに映す。
 かつての輝きを取り戻した武器を手に、カルロは固めたばかりの決意を反芻した。

 ピカロ(悪役)は、ピカロらしく。

「悪いな、ブレット」
 俺は、こんな方法しか知らないんだ。
 翌日から、カルロは行動を開始した。まずはこれまで立ち寄りもしなかった、グランプリレーサーがたむろするラウンジの片隅に陣取り、機会を待った。
 FIMAの施設のロビー(ステラがブレットと再会した部屋)とは違い、国の違うレーサーたちの交遊を前提に用意されたラウンジは飲食も歓談も自由で、本棚が立ち並ぶ一角があるかと思えば、世界各国のボードゲームを揃えたプレイスペースまで完備されている。カルロはそこで何をするわけでも、ましてや他のレーサーたちと馴れ合うこともない。ただそこにいて、ナイフを弄びながら、レーサーたちの動向を観察していた。
 このラウンジに、ロッソストラーダの残りのメンバーは決して寄りつかない。だが、ブレットは頻繁に顔を出していた。
 この部屋でブレットがなすことと言えば、プレイスペースでボードゲームに興じたり、他のチームのリーダーと歓談したりと様々だ。とりわけシュミットが同席していればチェスを好んだ。時には二人で連れだって、ラウンジのバルコニーから見えるコートでテニスの試合をこなす。
 チェスでは思考力で勝るブレットが一枚上手で、テニスは運動神経の差なのかシュミットに一日の長がある。とはいえ、知力体力ともに実力伯仲の二人が織りなす白熱した試合には、常に多くのギャラリーが集った。好都合なシチュエーションに、カルロは引きあがろうとする口角をひっこめるのに苦労する。
 そして今日もまた、ブレットはラウンジに顔を出し、ラウンジの隅々にまで視線を走らせる。そこにカルロを見つけると、ブレットはゴーグルのない目元を和らげて手を上げた。
「カルロ、おはよう」
「おう」
 ブレットは、ラウンジに現れるようになったカルロを歓迎した。輪に加わるわけでなくとも、彼が他人と関わる空間にいることを素直に喜んでいる。カルロの思惑を何一つ知らない彼を、カルロは心の中で嘲笑い、何の役にも立たない謝罪の言葉を口の中で転がす。
 悪いな、ブレット。
 真っ暗な部屋で、磨き上げたばかりのナイフに告げたセリフが、ブレットに届くことはなかった。




 最善の悪意
 (俺を信じた、お前が悪い)






+++++++++++
カ ル ブ レ です!!(重要)
カルロはブレットの「彼女」になりたいんじゃないんですよ、誰よりもブレットの近くで対等に立ってたいんですよ。その象徴が「ステラ」だっただけで、まだ発展途上ではありますがカルロはまごうことなき「攻」です! ブレットは最高に男前な「受」ですので、あしからず。(こんなこと書かなくて伝わる筆力が欲しい。切実に)

【時系列の整理】
ステラの一件(8月7日)

一日遅れの誕生日祝い(8月8日)

カルロ、ステラと自分を挿げ替えた夢を見る(恋の自覚)(8月9日以降)

リオーネの告げ口とドンからの命令(当該SS冒頭)

天体観測でブレットに心配される(8月中旬)

ナイフ磨き完了。ラウンジに居座る。
(時系列書かなきゃわからないほど話が入り組んでいる=書き手自身の中で整理されていない。ってことな気がするので大いに反省しております)

カルロが見た組織の誓いは、シチリアマフィアの血の掟をベースにしたオリジナルです。マフィア=シチリア発祥の非合法組織、ということで北イタリアのドンの組織はまたちょっと別物なんでしょうなあ(適当)

ブレットがカルロに上げたプレゼントはランスキーのナイフシャープナーのキットを参考にしていますが、結構高い。ベーシックなやつでも7000円以上してました。ブレットが用意したのは、さすがにもうちょっと安いと思うけど……(つか、友達未満?な相手(ローティーン)からこの金額のプレゼント貰ったら普通引くよね)

ブレットの中の人が別ジャンルで出しているキャラソンを拝聴して、下手じゃないけど声は歌向きじゃないなという感想を抱きましたね。そこをあえて歌わせるのが、萌えます。
当初はデスペラードを歌わせてました。が、まだそういうカルロの心の中に踏み込むような歌は早いかなと、アメージンググレースに変えた経緯があります。
プロテスタントは聖歌じゃなくて讃美歌なのかな。てことは聖歌隊じゃなくて讃美歌隊なのかな。わかりやすさ優先で聖歌隊にしておきました。

というわけで、後編に続きます。次はブレットサイドで、シュミットが少々出張る予定。しかしあくまでもカルブレです。

2015/07/17 サイト初出。

2015/07/17(金) レツゴ:ステラ事件(カルブレ)【完結】
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