※「罅割れた空、その向こうにファンタジー」の続編
※未来時制。WGP1後~WGP2(アメリカ大会)6月頭
※タイトルは「21」さまより





 ミルキーウェイブルース




 部屋に入るなり、ジュリオは唖然とした口ぶりで言った。
「相変わらずごちゃごちゃした部屋」
 カルロの部屋は物が多い。道端に廃棄されたり、蚤の市でたたき売られているガラクタから目を惹いたものを片っ端から集めているせいだ。だが、日常使いの場所は片付いていて、床やベッド、ミニ四駆のメンテナンスに使う小さな丸テーブルだけは、ぽっかりと穴があいたようにさっぱりとしていた。
「うるせえ、文句があるなら出てけ」
「何よ、心配して来てやったのに。それだけ吠えるなら元気ね」
 ジュリオのハイトーンに、カルロは訝しむ。対するジュリオは、小悪魔的な顔立ちに笑みを浮かべて応じた。
「アンタ最近、レースで大人しいからどうしちゃったのかしらって」
「勝負にゃ勝ってんだろ」
「バトルなしでね。ひとりでぶっちぎっちゃっていい迷惑よ」
「ついて来れねえ奴のことなんざ知るか」
「グランプリじゃアンタだけ速くたって勝てやしないのよ。これじゃ、あのマグナム野郎と同じじゃない」
「あの野郎と一緒にすんじゃねえ!」
 地雷を踏まれたカルロの怒声に、ジュリオが「きゃっ」と悲鳴をあげて身をすくめる。だがカルロはカルロで、自分の分の悪さを、ジュリオの正しさを理解していた。
 日本でのWGPを終えてイタリアに帰国して以来、カルロはバトルに消極的だ。代わりにこれまで以上に速さを追求するようになった。誰よりも先にチェッカーフラッグを切るスピードは、バトルをしないことを正当化する。攻撃をしかけようにも、カルロに追いつける相手がいないのだからしょうがないという言い訳が立つ。
 ジュリオの指摘は、そんなカルロの「逃げ」を的確にとらえていた。
「アンタちょっと変わったわよね」
 加えてジュリオは、カルロが今もっとも触れられたくない部分に触れようとする。これだから、特定の誰かと長く付き合うのはいやなのだ。決してなれ合ったことはないけれど、長く行動を共にしてきたジュリオの勘は、カルロが自分自身にすら隠してきた本音を暴きかねない。
「なんだか寂しそう。ちょっと前まで『俺はひとりで生きてける』って顔してたのに」
「今だってそうだ」
「ぼうっと空眺めてるなんてしょっちゅうだし、そんなアンタ見てると、まるで……」
 遠い誰かに恋しているみたい、とジュリオが胸の内で続けた言葉は、もちろんカルロには聞こえない。
「はっきり言いやがれ」
「お断りよ。どうせ信じやしないんだから」
「ハッタリかよ」
 カルロの嘲りに、ジュリオは長い睫を伏せて視線を下に流す。そして、カルロのテーブルに置かれた黒い双眼鏡に気づいた。ディオスパーダのメンテのためだけに使われる神聖な領域に、鎮座するそれはジュリオの目にも一級品に映る。カルロの部屋を埋め尽くすガラクタたちとは一線を画す品は、犬小屋で孔雀を飼っているような違和感を生んでいた。
 そしてジュリオは「孔雀」の側面に書かれた白いペンの痕を見つける。つづられた二つのアルファベットは、カルロの変化の訳を悟らせるには十分だ。
「Bで始まる知り合いなんて、アンタに何人いたかしらね?」
 しかもこんな高そうなものを持てるなんて、と「孔雀」に伸ばされたジュリオの手を、阻んだのはほかならぬカルロだ。
「そいつに触れるな」
 そのセリフから、自らの直感に確信を得たジュリオはカルロに向き直る。そしてきっぱりと言った。
「身分違いってやつよ」
「わけわかんねえ」
「あら、ホントに自覚ないのね」
 カルロが向けた背中に(しかしその手には例の「孔雀」がしっかりと守られている)、ジュリオはため息をつく。そして、続けられた言葉にカルロは肝を冷やした。
「グランプリの予選は一か月後よ。それまでに少しはシャキっとしてよね、リーダー」
 ドアの向こうにジュリオの姿が消えても、カルロはその場に立ち尽くす。双眼鏡を握る手には、知らない内に力がこもっていた。
 予選は一か月後。さらに一月たてばアメリカでの本選が待っている。地元であるアストロレンジャーズが勝ち残っていることは間違いないだろう。
『身分違いってやつよ』
『ホントに自覚ないのね』
 自分の勝敗より、因縁の日本チームより、真っ先に双眼鏡の持ち主の姿を思い浮かべる。それでもカルロは、ジュリオの言葉を真剣に理解しようとはしなかった。



 「イタリアの荒馬が何の用だ?」
 ゴーグルを外した薄青い瞳が、カルロをとらえてからの第一声はこれだった。歓迎の言葉は辛辣ながら、その口元には笑みがある。カルロとブレットの星の下での再会は、およそ九か月前の秋の日と同じ時刻で、だがあの時とは場所が異なっていた。
「うちのセキュリティにどうやって忍びこんだ、カルロ」
「チョロいもんさ」
 三月に開催されたアメリカでの第二回ミニ四駆世界グランプリ。ニューヨークでの開会式と序盤のレースを終え、初夏を迎える前にはロサンゼルスに会場を移している。「天使の街」でカルロが立つのは、アメリカチームが利用する寮の屋上だ。
「ほらよ」
 カルロが突き出した右手に、握られているのは去年ブレットが忘れていった双眼鏡。白のインクでつづられた「B.A.」のイニシャルが良く見えるように渡してやれば、ゴーグルのないブレットの青灰色の瞳が見開かれた。今は六月に入ったばかりで、数えれば、双眼鏡とは九か月ぶりの再会になる。
「わざわざ、届けに?」
 意外そうな声に、カルロはイメージじゃない自分の行動をすぐに後悔した。そしてブレットの手に握られた真新しい双眼鏡に気づいて、その念をますます強くする。
 去年の秋、カルロから双眼鏡を回収し損ねたブレットは、とっくに新しいものを手に入れていた。自分で買ったのか、親にねだったのかは知らないが、ブレットにとってカルロが預かっていた双眼鏡はいくらでも代わりの利くものだった。後生大事に持っていた自分がバカみたいだと、カルロは俯く。ブレットをとりまく豊かな環境、物に対する執着心のなさ、自分との違いを見せつけられれば胸が苦しくなる。
 しかし下ろしかけたカルロの手を、双眼鏡ごとすくい上げたのは誰であろうブレットの両手だった。とっさに顔をあげれば、ブレットの輝いた笑顔が目に飛び込んでくる。
「Thanks、カルロ」
 それは感極まった響きだった。
「ありがとう、本当に」
 そうブレットは重ねて礼を言い、カルロの手から双眼鏡を取り戻す。自分のイニシャルを撫で、全体を見回し、目に当てて空を仰ぐ。その間ずっと、彼の口元はだらしなく綻んでいた。ブレットの喜びようは、カルロがこの双眼鏡に責任を持っていた九か月に報いるものだ。
「大事なもんか、そんなに」
 嬉しいものなのか、とカルロが続ける前にブレットの目がこちらを向いた。ムーン・グレイ。九か月前、自分で名付けた色がカルロの元に戻ってくる。
「これはダッドに……、いや、父から貰ったものだ。六歳のとき数学のコンペでニ位を取ったから。トップに立てなくて悔し泣きした俺を、父がその日のうちにデパートに連れていったんだ」
 当時を語るブレットの様子に、カルロは「お前はなんでも覚えているんだな」と肩をすくめる。この調子なら、自分の持ち物すべての由来を並べ立てそうだと言えば、意外にもブレットは「そんなことはないぞ」と否定してきた。
「そんなに何でもかんでも覚えてたら頭が破裂しちまう。これは父との思い出だから覚えてるんだ」
 天文学者の祖父からは生まれたその日に天体図鑑を。父からは六歳の偉業に立派な双眼鏡を。ブレットが語る思い出は、彼が特別に愛されている証拠だった。
「使ってみたか?」
 随分近くに、ブレットはいた。腕一本で足りる距離は、カルロに秋の夜長に見つめ合った記憶を思い起こさせる。一方のブレットには、九か月前の大接近を意識している様子はない。何年も前にもらった双眼鏡のことや、物心つく前に贈られた本のことは忘れないくせに、たった九か月前の出来事をブレットは忘却の彼方に追いやってしまっていた。
 いや、違うな。
 なかったことにしたいのだ、と気づいたカルロは見えない手に胸を強く押された気がした。ブレットの青灰色の瞳をムーン・グレイと例えたカルロの言葉も、呼びかけも、唇に触れた吐息も忘れて、楽しい天体観測だけをブレットは記憶に残したかったのだ。
「ああ、だが、星はよくわかんねえよ」
「ミラノじゃしょうがない、明るすぎるんだ」
 ブレットがそのつもりならそれでいい。カルロ自身、あの夜の自分の行動の不可解さを、あまり熱心に掘り返したいとは思わなかった。
『身分違いよ』
 ジュリオの声が、不意に耳元で湧いた。なぜか起こる胸の痛みを持て余しながら、それでもカルロは口角を上げる。
「夏は」
「え」
「もっと賑やかなんだろ、星が」
 秋の星空は夏に比べると寂しい、九か月前、ブレットはカルロに双眼鏡を押し付けてそう言った。季節によって見える星の数が違うのだと、あの時カルロは初めて知った。
「ああ、その通りだ」
 ブレットの顔が喜色に染まる。ブレットはカルロに、自分の新しい方の双眼鏡を差し出してきた。
「倍率は低いがこっちの方がピントは合わせやすい。使い方は同じだ」
 秋の空の下で教わったことを思い出して、カルロは初夏の空の下で双眼鏡をかかげる。カルロの準備が整うのを見届けて、ブレットの解説が始まった。
「夏の大三角形は外せないな」
 まずは頭の真上を、と言われてカルロは顎をあげる。なるべく背をそらせて夏の夜空を仰ぐと、一際輝く星が目に入った。
「こと座のベガだ。次は天の川……、ヴィア・ラッテアの東側に明るい星が見つかるはずだ。それがわし座のアルタイル」
 ミラノではまったく見当もつかなかったというのに、ブレットの言葉に従うと面白いように星が見つかる。
「アルタイルのほぼ真上、ヴィア・ラッテアに溺れるようにして浮かんでるのがデネブ、白鳥座のケツだな」
「こいつが夏の大三角か」
「ああ。デネブは他の二つより暗いんだが、デネブを含んだ白鳥座の十字は『北十字星』とも呼ばれていて、キリスト教じゃイエスが磔になった十字架に見たてられる。ほぼ全身がヴィア・ラッテアに浸かっているのも特徴的だな」
 ベガの近くにはりゅう座があり、ベガ、北極星、北斗七星に囲まれながら比較的大きな星座を成している。北極星の近くにあるため一年中見られるが、夏が最も見えやすいとブレットは言った。ベガをまたいで隣にいるヘラクレス座は、竜座の元となった竜を退治した英雄で、ベガ自身にも琴の名手オルフェウスにまつわる悲恋の物語がある。
「宇宙飛行士ってのは、どいつもこいつも星マニアなのか」
 よどみなく夏の夜空の解説を展開するブレットに、カルロは呆れと少しの賞賛を混ぜて問いかける。宇宙飛行士を目指すアストロレンジャーズのメンバーとは、いつもこんな非現実な話で盛り上がっているのだろうか。
「それがそうでもないんだ」
 ブレットが言うには、彼が星座に詳しいのは天文学者の祖父の影響で、一時親元を離れて同居していたころに仕込まれたものだった。偏屈で知られた祖父も星の話をねだるブレットの前では口数が増えると、彼の祖母が語っていたという。
 一方で、同じ夢を持つアストロレンジャーズでも、例えば二番手につけるエッジは星座にはまるで関心がない。
「あいつなら、女子を口説くのに使いそうなのにな。意外だろ?」
 頷けるほど、カルロはブレットの仲間を知らない。そもそもこうして話しているブレットのことすら、カルロはどれ程知っていると言うのか。
 ミニ四駆世界グランプリのアメリカ代表、NAアストロレンジャーズのリーダーで、N△S△お抱えの宇宙飛行士訓練生。出身は首都のワシントンD.C.で、おそらく衣食住どころか勉強にも困ったことのないお坊ちゃん育ちだ。この歳ですでにどこかの大学を卒業している、という話を持ち込んできたのは耳年増のリオーネだったか。
 優秀な天文学者の祖父は母方だから、その娘であるブレットの母親もそれ相応な家庭環境と教育の中で育ってきたのだろう。父親も六歳の子どもに立派な双眼鏡を買い与え、宇宙飛行士になる夢を後押しできる余裕がある人物なのは間違いなかった。
 立派な親族、愛と物に満たされた環境。ブレットの身なり、言葉、その端々から引き出されるのは、絵に描いたように「幸福な家庭」の姿だ。カルロはそれを、(きっとブレットほど恵まれたものではなかっただろうが)四歳にして両親の離婚という形で失っている。
「そういえば、カルロの親や家族は何をしてるんだ?」
 絶妙のタイミングでよこされた問いかけは、実に様々な意味を含んでいた。一見して、ただカルロの身内の職業を尋ねているだけに聞こえる。だが聞くものによれば、プレティーンの子どもに対する親の責任を問いただしていると受け取る可能性もあった。現にカルロは、ブレットの問いかけの真意を後者と見た。

 俺の親は、何をしている? 今、どこにいる? 兄弟は? いるのか? なら彼らはどこへ?
 俺をひとり置いて、みんなどこへ行ってしまった?

 頭の中に飛来するこれらの問いに、カルロが答えられることはひとつしかない。
「いねえよ」
 ことさら意識しなくとも、出た声は硬かった。ブレットの、月に似た瞳が丸くなり、ますます満月のようになる。
「いない?」
「ああ、それがどうした」
 親がいないこと、ひとりで生きていかねばならないことは、カルロにとって特別ではない。ロッソストラーダのメンバーに限らず、同じ境遇の子どもをカルロは山のように目にしてきた。そして、自らが「犬のクソ以下」と呼ぶ彼らの中から、カルロは懸命に這い上がってここにいる。
 そんな話はきっと、目の前の「お上品な」彼には耳に毒だろう。カルロの語る世の中の影に、彼の顔はこわばり、カルロを見る眼差しに新たな色が加わることは自明の理だ。
 怖がり、後悔し、悲しみに暮れ、憐れみと共に慰められる。そんなお涙頂戴はうんざりだった。
「続けろよ」
「え……」
「星の話」
 わかってもらおうなんて思わない。わかった気になられるのは、胸糞悪くてたまらない。自分でも抑えきれない感情をぶつけるのは嫌だった。楽しい天体観測が、終わってしまうのは嫌だった。
 ブレットは、あの夜の二人の接近を忘れた。なら、カルロも自分の暗い生い立ちは忘れていたい。今年で十三歳と十二歳になる子ども同士の、遊びの時間に留まっていたかった。
「クソつまんねえ俺の話より、てめえの星語りの方がマシだ」
「カルロ……」
 名前を呼ぶブレットの声は、慎重だ。カルロが引いて見せた境界線を確かめ、この線は本当は踏み込んでいいものなのか、それとも冗談でも触れてはいけないレッドラインなのかを読み取ろうとしている。エリート意識は人一倍のくせに、根っからの親切心を手放さないままのブレット。彼がそうしていられるのは、そうあるべく育てられたからだ。ブレットは家族から、世界から愛されていて、彼自身そのことを疑ったことがない。疑うような境遇に立たされたことがない。
 なんでこうも、違うのだろう。同じ時代に、同じ人間に生まれたのに。
 国が違うから? 親が違うから? 物心ついたころには背負わされていた理不尽を、ぶつける相手は見つからない。ぶつける相手を、ブレットにしたくない。
「話せ、ほら、続きだ」
 ブレットの中にある冷静さと好奇心。前者を援護射撃するように、カルロはもう一度きっぱりと線を引いた。そして今度こそ、ブレットはカルロの言葉に従ってくれる。ムーン・グレイの瞳をカルロから夏の星空に移して、彼は星語りを再開した。
「ベガとアルタイルとベネブだが、日本や中国には別の悲恋話がある」
 どちらもグランプリ参加国で、とりわけ日本は去年世話になった国だからと、ブレットはなるべくカルロにも通じる世界観で話を紡ごうとする。要点だけを拾った説明は、天帝が結婚させた二つの星の話だった。
「天帝を怒らせたオリヒメとヒコボシはタナバタ、七月七日の夜しか会うことができなくなったんだ。このオリヒメがベガで、ヒコボシがアルタイル、そして二人を引き逢わせるカササギがベネブだって言われてる」
「それのどこが悲恋なんだ? 働かざるもの食うべからず。遊びまくってたんなら当然のペナルティじゃねえか」
「身も蓋もないことを言うな、お前」
「ロマンいっぱいの宇宙飛行士くんには、さぞご不満だろうよ」
 すっかり影を払拭したカルロの悪態に、ブレットも緊張をほぐしつつある。指で襟足を少し気にしてから、ブレットはいたずらっ子の目でカルロを見やった。
「確かに、天文学的に考えると、この話はちっとも悲恋じゃない」
「ほう?」
「星の寿命は質量にもよるが、百億年くらいと言われている。年一回会えるってことは、オリヒメとヒコボシは生まれてから死ぬまで百億回会えるってことだ。これを百年寿命の人間に例えると、百で割って年一億回、365で割って一日に27万3972回……」
「計算はいい、結論を言え、結論を」
「二人は1秒間に3.17回会う」
「べったりじゃねえか!」
「ああ、これなら百年の恋も必ず冷める」
 倦怠期からの円満離婚、それが天帝の作戦なのかもしれないとブレットが真顔で続けてくるものだから、うっかり想像したカルロは片眉を上げた。
「ロマンチックからは程遠いぜ」
「ロマンじゃ腹は膨れないってお前が言うから、現実的な話をしてやったんだろ」
『何がロマンだ。ロマンじゃ腹は膨れねえ』
 半年以上前の秋の空の下で、星空のロマンを語るブレットにカルロはそう吐き捨ていた。ささいなやりとりを覚えているのは、それがブレットにとって「大切な思い出」にカテゴライズされるからか。あの夜の会話なら一言一句思い出せそうな自分自身のことを棚に上げて、カルロの胸が独特な動揺に満たされていく。
「ああ、そうだ」
 どんな顔をしていいのかわからないカルロを尻目に、ブレットは思い出し笑いに肩を震わせた。
「タナバタ伝説をビクトリーズから聞かされた時、この話をしたら大ブーイングを食らったんだ」
 教えたがりのブレットの、余計な解説が音になって蘇る気がした。夢がないと文句を言う日本チームの顔が目に浮かぶ。
 思わずカルロは、声をあげて笑っていた。
「ははっ、違いねぇ」
 日頃彼が見せるのは、相手を見下す冷笑か威勢を示す高笑いばかりだ。それとはまるで異なるカルロの笑顔に、ブレットは驚いた。そして、カルロの笑顔にブレットが満足感のようなものを抱いていたことを、もちろんカルロが知ることはない。
 秋に続いた星座基礎講座。ブレットがカルロのために重ねる説明は、ちょっと星をかじった人間には基本中の基本だろう。それを飽きもせずに口にする彼は、人に教えると言う行為が好きなのだ。自分の知識をひけらかすのとは違う。相手が理解を示し、新しい知識を糧にする瞬間を見たがる。そんなブレットだ、一年前のWGPでアディオダンツァの対抗策をわざわざ敵であるビクトリーズに教えに行ったという噂も、あながちただの噂ではなかったのかもしれない。
 今もこうして話ながら、ブレットはカルロの反応をうかがっている。カルロがどこまで理解し、どこでついて来れなくなるのかを見極めようとしている。カルロが少しでも怪訝そうな反応を示せば、彼はたちまち「優しい解説」に切り替えるのだ。ブレットはそういう器用な真似ができる人間だった。
「カルロ」
 名を呼ばれる。いつしかその響きには親しみがこもっていた。
「お前とこうして話せて、俺がどれだけ嬉しいかわかるか」
 思いがけない告白に、カルロが濃い青の瞳を見開く。対するブレットは、分厚い瞼を乗せた眼差しを眇めて、両の口角を上げていた。
「去年は一度きりだったが、今年はもっと話せそうだ」
 チームの垣根を越えたささやかな天体観測の機会を、これからも持ちたいと願うブレットに、カルロは「なんでそう思うんだ」と問いかける。ブレットは少し考えるように視線を流したのち、ムーン・グレイの光を再びカルロに当てた。
「お前がバトルをやめたから……、かもな」
 バトルを仕掛けていたころのカルロは、表向きのナンパな態度を隠れ蓑に常に神経をとがらせていた。コースの外に去っても、カルロの周囲にはピリピリとした空気がはりつめていて、とても気安く話しかけられるような雰囲気ではなかった。そんな攻撃的な気配が、今大会でバトルを止めたと同時に消え失せる。レースでの激しさ、勝利への執念は変わらない。厳しい相手であることは間違いないけれど、去年のような近寄りがたさは感じないと、ブレットは自分の分析を述べた。
「去年の箱根で見せた、お前のは走りはすごかった。あれがまた見れるかと思うとワクワクする」
「ワクワク? お前が?」
「俺がアンドロイドじゃないのは、とっくに立証済みだろ」
 一年前の秋、カルロがかけた「N△S△最新鋭のアンドロイド」の疑惑は、ブレットが持つ最も印象的な部位によって晴らされている。月面色の瞳。ムーン・グレイが放つ誘惑は、またぞろカルロの「月が欲しい」という衝動を呼び起こすのだ。
『身分違いよ』
 耳にこだましたジュリオの声がなければ、カルロは去年と同じ過ちを繰り返していただろう。何が間違っていて何が正しいのか、その区別もわからなかったけれど、二人を隔てるこの距離を不用意に縮めるのは得策ではないことだけは確かだった。
 カルロが抗う誘惑を、その瞳に乗せたブレットは何も知ることなく微笑みを崩さない。
「何かあれば、俺に言えよ」
 何か、とは何だろう。月が欲しい、ともう一度希えばいいのか。お前は応えてくれるのか。しかし、ブレットの意図はそんな妖しさとは無縁だった。
「バトルを止めたことで、ロッソで孤立してるんじゃないのか。一度バトルで味をしめたレーサーはそう簡単にはやめられないと聞く。リーダー同士のよしみだ、愚痴なら聞くぜ」
 N△S△の期待、精神面で弱いところのあるチームメイト、開催国代表の重責、そんな諸々を背負って、誰よりも愚痴りたいだろうブレットに気遣われては立つ瀬がない。何より、自分の不純さをつきつけられてカルロはバツの悪さにそっぽを向いた。
「敵の情けなんざ受けるかよ」
「遠慮するな。記憶力には自信があるが、俺は忘れるのも得意だ」
 ブレットの懸念が的を射ているのも分が悪かった。カルロがバトルから手を引いて以来、チーム内ではゴタゴタが続いている。三月に大会が始まったにもかかわらず、こうしてブレットと話す機会を得るのに今日までかかってしまったのはそのせいだった。ブレットとの天体観測は今後、未だに吠え続けるルキノたちからの格好の隠れ家なるのかもしれない。
「うるせえよ、星の話はもうネタ切れか」
 話の矛先を無理やりそらそうとするカルロに、ブレットは小さく笑う。そしてカルロの誤魔化しに乗って、ブレットは蠍座の心臓の話を紡ぎだした。
 ブレットの指先が、ひときわ赤く輝く南の星を指す。蠍座の心臓・アンタレス、「真紅の惑星『火星』に対抗する者」の意味を持つと彼は言った。
「ディオスパーダの紅(あか)に似てるな」
「ディオスパーダは『神の剣』だ。蠍じゃねえ」
「蠍座の蠍は、大地の女神・ガイアがオリオンを殺すために遣わした。神様が使う武器ってことなら、あながち外れじゃない」
 ガイアに命じられた蠍は、オリオンに忍び寄り毒針を差し込む。海の神・ポセイドンの息子であったオリオンも、蠍の毒には敵わずにその場で息絶えた。蠍はその功績で星座となり、オリオンもまた星座として空に昇る。蠍座が空に昇るとオリオン座は地平の向こうに隠れ、蠍座が空から姿を消さない限りオリオン座は現れないのは、そんな因縁のせいだ。ブレットが季節をまたいだ壮大なストーリーを嬉々として語る声を、カルロは耳に心地よく聞いていた。
「時間か……」
 ブレットの体から突然のアラーム音が鳴ったのは、夏の蠍座と冬のオリオン座の不思議な関わり合いを語り終えたその時だ。アラームの音源はアンドロイド疑惑が再浮上したブレット自身、ではなく、事前にタイマー設定されていた彼の腕時計だった。
「今夜はここまでだな」
 突然のタイムアップにカルロは眉をしかめる。カルロの疑問の合図をきちんと覚えていたブレットは、少し照れくさそうに明後日の方向を見上げて秘密を打ち明けた。
「実は今日が誕生日でな、チームのメンバーが祝ってくれる」
「逆じゃねえのか」
 欧米では普通、誕生日を祝う用意は本人の役目だ。本人が祝いの席を準備して、周囲に幸せを分け与える。もっともなカルロの指摘に、ブレットは「日本式だ」と説明した。
「日本じゃ本人のために周りがあれこれやるらしい。去年それでやって、エッジが味を占めた。おかげで準備が整うまで寮を追い出されたってわけだ」
 双眼鏡を持ってくるのがやっとだったと肩をすくめるブレットを見つつ、カルロは今日の日付を頭の片隅から引っ張り出す。
 六月二日。
「うちの建国記念日だな」
 きっとブレットは知らないだろう。だから話した。教えたがりの彼に、逆に教えてやれることもある。
「イタリアも誕生日ってわけか」
 ちょっとした偶然がおもしろいのか、ブレットは目を丸くする。やはり、アンドロイドには見えなかった。
 ブレットが紡いだ誕生日というワードが、カルロの中に眠っていた記憶を呼び起こす。そう、カルロは欧米式の誕生日の祝い方を知っていた。それは過去に誰かが、カルロの誕生日を祝ってくれたからに他ならない。
 その誰かなんて、決まっている。
 封印が解かれたように、カルロの世界にまだ幸せがあったころの情景が胸に溢れだす。両親がいた時代。ささやかなケーキ、明るい食卓、自分ひとりのためだけに注がれる優しい眼差し。あたたかな笑みとともに伝えられた言葉が、カルロの口をついて出た。

「Tanti auguri」

 口調はひどく、そっけなかったはずだ。
 イタリア語で"tanti"はたくさん、"auguri"はおめでとうだ。最後に"a te"と付け加えれば、ブレットの母国語で言う"Happy Birthday to you"に相当するシンプルな言葉。使い古された甘いフレーズを、知っている自分にカルロは驚く。驚きすぎて、青い目をぱちくりさせて、カルロは助けを求めるようにブレットを見た。
 そしてカルロは、さらに驚かされる。眼前に広がる、ブレットのはにかんだ微笑みのせいだった。
「Thanks……」
 やはりN△S△は不気味の谷を越えられない。星屑を散らばせた、笑顔の奥に彼の過去が見えそうな、けれんみのないブレットの表情を機械が作り出せるはずがないからだ。
 礼まで言われて、カルロはうろたえた。威嚇や牽制以外で、自分の言葉が他人に作用する様をカルロは初めて目の当たりにした。それもプラスの方向に。誰かの気持ちをあたたかくする力が、自分の言葉にあったことが信じられなかった。
 あのブレットを、星でも宇宙でもない自分が喜ばせた事実に胸が震える。
 雨に体を冷やされても走り続けた道の途中で、突然傘を差し出されて毛布に全身をくるまれたかのような多幸感が、カルロの胸いっぱいに押し寄せてくる。
「今年は、パーフェクトな誕生日になりそうだ。ありがとう、カルロ」
 カルロが紡いだ言葉の力を、ブレットはしっかりと受け止めて感謝を重ねる。祝う立場でありながら、思いもかけない幸福感でいっぱいになっているカルロは何も言えない。
 そんなカルロを尻目にブレットは軽く手を挙げてから、仲間の元へと歩き出した。このすぐ後に、彼は大切な仲間たちから山のような祝いの言葉を浴びせかけられるのだろう。だが、そうであっても、カルロが述べた小さな祝福の言葉をブレットは覚えていてくれる。そんな奇妙な確信があった。
『あら、ホントに自覚ないのね』
 ジュリオの言葉がまた胸に響く。
 ブレットの背が階下に通じるドアに消えると、今夜も双眼鏡を返し忘れたことに気づいた。力なく、けれどまんざらではない笑みがカルロの口元に浮かぶ。今度は、そう遠くないうちに返せるだろうか。「今年はもっと話せそうだ」と笑ったブレットの言葉が現実になればいい。
 ひとり残された屋上、手の中の双眼鏡。九か月前の秋の夜と同じシチュエーションでありながら、カルロは寒さを感じなかった。むしろ頭の芯がぼうっとあたたかい。初夏の熱気だけが理由ではないだろう。
 夜空を見上げて、カルロは星を追う。ベガ、アルタイル、デネブ。夏の大三角形をなぞり、ヴィア・ラッテアをたどる。星の川をまたいだタナバタ伝説。一秒間に三回の逢瀬とは愛に素直なイタリア人もびっくりなほど情熱的だ。オリヒメとヒコボシの橋渡しをするカササギも、さぞや大変なことだろう。そして南の紅星のアンタレス。カルロの愛機に似ているとブレットが言うのなら、この星だけはいつでも探し出せるようになっておきたい。
『綺麗だろ』
 秋に星空の美しさを教えてくれた声が、よみがえった。ゆるく弧を描いたカルロの唇から、小さなメロディがこぼれだす。
「Tanti auguri a te,Tanti auguri a te……」
 誕生日を祝福する定番のメロディは、言葉は違えどブレットが知るものと同じだろう。この歌が歌えると言うことは、誰かがカルロにこの歌を歌ってくれたと言うことだ。ずっと忘れていた記憶、捨てるくらいならなんで産んだんだという呪詛に封じられてきた、思い出。ブレットが忘れないものとカテゴライズするのと同じ、特別な記憶たち。
 呪っても呪っても、確かに胸が熱くなる。愛された記憶がひとかけらでもある限り、自分が少しマシな人間に思えた。
 この夜から二か月と少し後に、カルロの生まれた日が迫っている。





 ミルキーウェイブルース
 (Tanti auguri a Brett, Tanti auguri a te...)





++++++++++++++
初めての意識的な続き物です。
ロサンゼルスは北緯34度で日本の東京とほぼ同じ緯度なので、
見える星はそんなに違わない……はず。

書いておいてなんですが、カルロはこんなセンチメンタルな子なんだろうか。
親に捨てられたこととか、どん底から這い上がってきたこととか、案外ケロッと受け止めてそうな気もするんですがね。
彼が怒りを抱いている対象は、もっと別のところにあるような気がして……。
WGP2だし、アニメのカルロよりははるかに丸くなってるだろうけど、うちのカルロさんは随分とナイーブらしい。
うーん、まだまだ模索中。

イタリア語で「誕生日おめでとう」
"Buon Compleanno!(ブォン コンプレアンノ)"もありますが、ハッピーバースデーの歌が"Tanti auguri a te!(タンティ アウグーリ ア テ)"なので今回はこちらを採用しました。
"a te"は英語の"to you"に相当するらしく、"Tanti auguri a Brett!"で「お誕生日おめでとう、ブレット!」になるはずです、たぶんw
検索すれば歌も聴けます^^

ブレットにとっては、ダッドからもらった双眼鏡とカルロからの祝いの言葉、二つの思いがけないプレゼントをもらった大切な日になるといい。
(パーフェクト厨なリーダーなのに、当方ではまだちゃんとパーフェクトって言わせてなかった気がして慌ててつけくわえたのは内緒です(滝汗))
あ、これ、ブレットの誕生日にupすればよかった……(アチャー

アメリカ大会の夏休みがいつごろか、なんて考えてはいけません。
(アメリカの学校の夏季休暇は6月~8月ごろ。カルブレ誕生日全滅じゃねぇか!!!)

2015.03.26. サイト初出。
2015.04.10. 修正。最後の「タナバタ」がなぜか「ナタバタ」になってました(Iさん教えてくれてありがとう!笑)。カルロが間違って覚えたんですよ、きっと。後日ブレットに指摘されて恥ずかしさに崩れ落ちればいい、そんなSS書きたいぉ。

2015/04/10(金) レツゴ:チョコレートナイフ(カルブレ)
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