※アニメ時制。10月下旬~12月最終レース二日目(99話、100話)
※「罅割れた空、その向こうにファンタジー」と「ミルキーウェイブルース」の間にあたります。「ふる、る、るる」とも少しだけリンク。
※ブレットのお姉さまねつ造。
※タイトルは「21」さまより





 ブレット・アスティアはプレティーンでMITを首席卒業した天才である。彼の知性を支えるのは、抜群の記憶力だった。目に入ったもの、耳で聞いたもの、日々に経験する様々な事柄は、溶けかけたキャンディのように容易にブレットの記憶に張りつき、彼の知識を彩り、味を添える。
 見上げたハマーDの背後の看板に書かれた電話番号、エッジが隠れて閲覧していた成人向けサイトのURL、ジョーがご執心の化粧品のコマーシャルメロディ、てこずるミラーの代わりに作ってやったダイアグラムの色や形、et cetera...
 無尽蔵に蓄えられていくそれらから、ブレットは必要なものをすくいあげ、不要なものを記憶のダストボックスに放り込む。「余計なもの」たちが、いつかよってたかって自分の思考を邪魔しないように。だからブレットは、覚えることと同じくらい忘れてしまうことも得意だった。



 それが恋だと気付く前に



 頭が痛い。ここのところ毎日だ。
 こめかみに突き刺さる鈍痛に、ブレットは眉を寄せて瞼を下ろす。彼の脳が、プレティーンで合衆国有数の理工系大学を首席卒業できるシロモノであっても、痛みへの耐性はそこらを歩く凡人と変わらなかった。
 ブレットはこらえきれない痛みにソファに身を横たえる。ここはWGPが開催されている極東の国で、自身がリーダーとなって率いるアストロレンジャーズ専用のレスティングルームだ。メンバー不在の静けさの中でじっとしていれば、脳は痛みを忘れ、しばしの安息を与えてくれる。どこであろうと、ものの十秒で眠れる自分の特技をブレットはありがたがった。
 しかし、ふと感じた人の気配にブレットはあっけなく覚醒する。浮上した意識を狙い撃ちするように、あの刺すような痛みも蘇った。諦めて瞼を上げると、前髪に邪魔された視界に重力に逆らった赤い髪とヴァイオレットアイズが映る。
「エッジ」
「Good morning、……って感じじゃないか」
 ソファの前にしゃがみ、ブレットの顔を覗きこむエッジは首を傾げる。「大丈夫か」と往年の大女優を思わせる(と言ってもブレットはエリザベス・テイラー世代からは程遠い)紫の瞳が問いかけてくるので、ブレットは半ば意地でもってソファの座面から頭を起こした。血圧の変化に、またこめかみをあの痛みが襲う。
「ずっとツラそうだな、ブレット。まさか風邪じゃないだろ」
 宇宙飛行士を目指す身には、体調管理は基本中の基本だ。それをリーダーのブレットが怠るわけがないという信頼はありがたかった。実際、頭痛以外の不調は見受けられず、ひとたび訓練や課題にとりかかれば消えてしまう程度の痛みでもある。それがなぜ、こうもしつこく治らないのか。
 心因性という単語が脳裏に浮かび、ブレットは瞬時に握りつぶす。眼前ではエッジがまだこちらを見ている。まじまじ、という表現がぴったりのエッジの凝視にブレットは眉をひそめた。
「なんだ? ソファの痕でもついてるか」
 座面に押し付けていた方の頬をこすってみるけれど、エッジは首を振って否定した。
「髪セットしてないブレットが新鮮だなって。ゴーグルもなしだし、今日はどうしちゃったのさ」
「めんどくさかったんだ、どっちも」
 右のこめかみを覆う髪をくしゃりと握れば、長すぎる前髪が鼻筋をくすぐった。このだらしない姿があのブレットだと、気づけるのは大会関係者ならチームメンバーだけだろう。
 いや、もしかしたら、あとひとり。
 ブレットの素顔と特徴的な瞳の色を、知る男がいる。
「ますますらしくないぜ、リーダー」
 茶化しつつもエッジは立ち上がり、キャビネットから取り出したグラスに水差しの水を注いでくれる。No.2らしい気遣いを、ブレットは小さな礼とともに受け取りこめかみを冷やす。それだけで少し痛みが和らいだ気がした。
 エッジは仲間想いだ。ミニ四駆への情熱はさておいて、おそらくチームの誰よりもアストロレンジャーズを大事にしている。だからチームワークのためなら道化役を厭わないし、時にそのチーム愛のせいで暴走する。ダーティなチームとの試合で、仲間が傷つけられて一番憤っていたのは彼だった。そんな彼にとって、チームを象徴するリーダーの体調は気にかかってしょうがないのだろう。
 グラスを傾けるブレットは、なおも見つめてくるエッジに片眉を上げる。ゴーグルに遮られないブレットの視線と眉の動きに、エッジは促されるままに口を開いた。
「ブレットってさ、誰似?」
 エッジの尋ね方に、てらった様子はなかった。彼とはアメリカで、互いに家族写真を見せあっているし、親同士が顔を合わせたこともある仲だ。
 写真を並べた当時、両親が離婚したばかりの彼の写真は母と兄と彼自身の三人きりで、両親と姉二人がいるブレットのそれに比べるとずいぶん寂しい印象を受けた。おかげで、あの時はエッジの身内に話題が集中したのだった。
『ワンマン社長が会社に二人いるようなもんだぜ。どっちも譲らないんだから、うまくいくわけないって』
 別段引きずっている様子もなく、エッジは普段と変わらない軽さで親の結婚生活の破たんについて分析する。チーム内における彼の立ち位置は、彼が両親から学んだことなのかもしれなかった。
『そっくりだな』
 エッジの家族写真に写る三人はとてもよく似ていた。彼と彼の兄が父親ではなく、母親に引き取られたのもこのせいかと思うほどの血の濃さだ。特に生き写しのような目元は、二人で指をさして笑いあった。それに対し、ブレットは共に映る父母、姉たちにさえ似たところが少ない。
 ブレットの父は赤毛で、母はジョーに似たブロンドだ。二卵性双生児の姉たちは、それぞれ均等に両親の髪の色を受け継いでいる。髪の色だけでなく、目元も顎の形もブレットだけが異質だった。きっとエッジもひと目で気づいたことだろう。だが彼は、その場で指摘することを避けた。踏み込んだことを尋ねるには、時期尚早だと考えたのかもしれない。彼のそういう人間関係における嗅覚の鋭さは称賛に値するし、だからこそチームのNo.2が務まっている。どんな時でもえこひいきせず全員を平等に扱うブレットと、相手や場面の空気に合わせて態度を変えるエッジ。時にしくじることもあるけれど、二人の違いはチーム内でうまくかみ合った。
 そのエッジが真っ向からブレットの容姿の由来を尋ねるのだから、ブレットとしても真っ向から受けて立つのが友情というものだ。
「祖父似だな」
 赤みのないくすんだブロンド、厚いまぶたとつり上がった目尻、薄いブルーグレイの瞳、そして赤ん坊のような小さな顎。ブレットの顔立ちを特徴づけるそれらを持っていたのは、母方の祖父だ。顕著な隔世遺伝は、ブレットの誇りであると同時に密かなコンプレックスでもある。目の前のチームメイトには前者の部分しか伝えないけれど、スミレ色の瞳を持つ彼にはブレットの抱えるコンプレックスなどお見通しかもしれなかった。
「天文学者だっけ。写真ないの?」
「ないな。相当の写真嫌いだ」
 宇宙への関心が天体よりも物理学にあるエッジは、ブレットの祖父の知名度と一風変わった人となりを知らない。
「残念。見たかったなあ、ブレットのン十年後」
 ブレットのコンプレックスを刺激することなく、けらけらとエッジは笑う。少しだけ気分を上向かされて、ブレットの口角も自然と上がった。
 エッジを初めて両親に引き合わせた時、彼の愛嬌溢れるヴァイオレットアイズに一番興奮したのはブレットの母だ。案の定、母はハリウッドを代表する大女優の名前を持ち出して、エッジの瞳の色を絶賛した。エッジは終始苦笑いを浮かべていて、「男なのに女優に例えられても困っちゃうな」と肩をすくめていた。
『母がすまない、ちょっとばかり少女趣味なんだ』
『別にいいよ。ブレットのママさん美人だし』
 美人に気に入られたのならラッキーだと、おどけるエッジにほっとさせられたことをよく覚えている。
 思い返せばこの時も、エッジは実物のブレットの両親を前にして、ブレットとの容姿の不一致に疑問を抱いていたかもしれない。だがまたしても、彼は何も言わなかった。だから互いに聞けず、打ち明けられなかった過去を埋め合わせるように、ブレットは祖父に関する情報提供を惜しまないのだ。
「祖父の家に若いころの肖像画がある。見たら腰抜かすぜ?」
 ブレットも初めて見た時は、自分と若かりしころの祖父との瓜二つぶりに度肝を抜かされたのだ。想像したのか、エッジはなおさら笑う。チームのムードメーカーの明るい声に頭の痛みも楽になったブレットが、グラスの片づけくらいは自分でしようと立ち上がった時、エッジが続けた。
「天文学者の孫が宇宙飛行士かぁ」
 感嘆ともに投げかけられたセリフは、ブレットの記憶に波紋を立てる。二重三重に広がる波は耳慣れたエッジの声を歪め、全く別の声と重なり、ある夜の記憶を呼び覚ましていった。
 天をつく銀の髪に、濃い青の瞳。怜悧な顔立ちは彼が弄ぶナイフの切っ先のようで、冷たい芯を持つ声と相まって気安く近づくことを赦さない。容姿も色彩も放つ気配も、エッジとはまるであべこべなひとりの少年。
 イタリアの、孤高の暴れ馬。
『天文学者の孫が宇宙飛行士の卵かよ』
 そんな彼が、ブレットに向けたセリフに敵意はなかった。ブレットを容易にパーソナルスペースに受け入れた中での発言は、胸のランプに火をともすようなあたたかな粒子が混じった声音だった。
「……っ、う」
 一度引っ込んだはずの痛みが、鋭さを増してブレットの脳に突き刺さる。手にしたグラスから、うっかり手を離してしまうほどの痛みだった。
「ブレット!」
 ゴツンッ、とグラスが床に落ちる音とエッジの声が重なる。音からしてグラスは割れていない、とどうでもいい安堵が痛む頭を通り過ぎて行った。
 その場にしゃがみ込んでしまったブレットに、すかさずエッジが床に膝を並べて寄り添った。ブレットが左右のこめかみを押さえて呻くので、慌てたエッジは監督か医務室の二択を迫る。けれどブレットはそのどちらにも首を振り、エッジの手を借りてソファに引き返した。
「やっぱ医務室行こうぜ」
 おろおろと心配を重ねるエッジに、ブレットはズボンのポケットから部屋のカギを取り出して彼に託す。
「デスク、右の引き出し、上から三番目、青い箱」
 単語だけの指示に、エッジがクエスチョンマークを顔に描く。声を発するのもつらい痛みの中で、ブレットは最後のヒントを与えた。
「アスピリン」
「わ、わかった」
 著名な鎮痛剤の名称にようやくエンジンに火のついたエッジが部屋を飛び出していく。彼の足音がドアの向こうに消えるのを待って、ブレットは辛抱たまらなくなってソファの上にばったりと倒れこんだ。膝を抱え、額をクッションにうずめて、奥歯を噛みしめて痛みに耐える。
 ミシミシと頭蓋骨が軋みを上げる痛みに感覚を埋め尽くされながら、わずかに残った思考領域でブレットは冷静さを保とうとした。この痛みが薬で抑えられることはわかっているから、訓練にもレースにも支障はない。いや、グランプリが終盤に差し掛かる今、リーダーの自分がチームに支障をきたすわけにはいかなかった。
 吐くことを意識した深呼吸を繰り返す。そして言い聞かせた。
 休めば治る。必要なのは医者でも監督でもない、ちょっとした気晴らしだ。
 痛みに耐えるブレットはエッジの足音が再び聞こえてくるまで、今宵の天気に思いを馳せていた。



 重い扉の向こうは、星空のがらんどうだった。
 今夜の天候は快晴で風もなく、防寒さえ怠らなければ過ごしやすい晩秋の夜そのものだ。サテライトワンに照会した気象情報通り、文句なしの天体観測日和でブレットは忍び慣れた欧州寮の屋上に立ち尽くしていた。
「まったく、お前は何度言えばわかる。私の部屋を不法侵入の通り道にするな!」
 窓から欧州寮内に入り込んだブレットに、シュミットの声は怒りを乗せていてもまろやかな響きがある。これがいわゆる「血統書き」の品というものか。ある男に「ぼっちゃんレーサー」と言われたことのあるブレットだったが、何事にも上には上がいるものだと、異国の友人の小言を右から左へと聞き流したのはつい五分ほど前の話だ。
「近頃姿を見ずに、静かな夜を過ごせていたというのに」
 睨んでくるのは、エッジより赤みの強いヴァイオレットアイズ。気の置けないチームメイト、そして自分とどこか似たところがあるライバルが揃ってもつ色彩に、つくづく縁があるなとブレットはひとりほくそ笑む。シュミットの瞳にも、きっと母は歓喜の声を上げるだろう。
「そうカッカするなよ、シュミット。クールにいこうぜ」
 レースでは厄介なほどに小生意気な展開を披露するドイツの旧知も、コースを出れば年相応の幼さを取り戻す。この癇癪癖は苦労するなと、彼のルームメイト兼親友をつとめるエーリッヒに目配せを送った。血統書はなくとも紳士な彼は、シュミットと違い、ブレットの不法侵入には一軍不在のころから快く共犯になってくれている。
 エーリッヒは火に油を注ぎたくないのか、褐色の肌に苦笑いを浮かべるだけでそれ以上の反応を示さなかった。シュミットの怒りどころを把握している彼の様子は、幼馴染は伊達ではないことをブレットに伝えてくる。
 そうしてシュミットの小言を背中に、たどり着いた屋上でブレットを出迎えてくれたこの満天の星空だ。しかしブレットの心はときめかなかった。真新しい双眼鏡を目元に掲げても、気持ちは高揚しない。詫びるように、ブレットは小ぶりの双眼鏡を胸元にひきよせてひとりごちる。
「使いやすいんだがな……」
 父からもらった双眼鏡を、失くしてしまったのは二か月近く前までさかのぼる。失くしたそれが二度と自分の手に帰ってくることはないと確信したとき、ブレットはすぐに父に詫びの電話を入れた。珍しく気落ちした様子を隠さない愛息に、父は寛大な心を見せて電話越しに笑う。
『あれももう古い。もっと使いやすいものを買いなさい。メイド・イン・ジャパンは素晴らしいぞ』
 代えの利くものじゃないと渋りながら電話を切れば、翌週には本国からブレット宛ての小包が届いた。父の名で送られた箱の中身は、やはり最新モデルの双眼鏡だった。六歳のころに買い与えられたものと比較するとずいぶんと軽く、一回りは小さくなっている。無駄のないシンプルなデザインはブレットの好むところで、手にもよくなじんだ。大きさの分だけ倍率は劣るが、これまでしてきたような天体観測には事足りる。むしろ初心者にはこちらのほうが使いやすいだろう。
 そこまで考えて、またしても星空に集中できない自分に行き当たる。絶好のタイミングで誰かが後ろから声をかけてくる予感がして、ブレットは背後をふり返った。予感(いや、期待か)に反して、階下に続くドアは閉ざされたまま。一瞬そこに待ち人の姿が見えた気がして、色素の薄いシルエットにまたぞろ痛みが頭に突き刺さる。
 カルロ。
 度重なる頭痛の原因を、ブレットはとうに認めている。何せ、双眼鏡を失くした翌日から始まった痛みだ。失くした日付も、時刻も場所も理由さえ、記憶しておくことはブレットにはたやすい。かれこれ二か月近く続く痛みに、今日もエッジに気を揉ませてしまったことを反省した。
 けれど、エッジには言えない。言えるわけがない。あの夜、カルロと天体観測をした夜が頭の痛みの原因だなんて、リベンジを果たしたとはいえ、チーム内で誰よりもロッソストラーダへの敵愾心を募らせる彼に打ち明けたらどうなることか。
『どちらが正しいか、次のレースが証明してくれる。そして勝つのは俺たちだ』
『俺だよ、ボウヤ』
 和やかだった天体観測を打ち消しかねない、冷たいやりとりが身震いを誘う。あの応酬を終えるや否や、ブレットはカルロに背を向けてこの場所を去った。彼に双眼鏡を預けたままだったことを思い出したのは翌朝だ。そのくらい動揺していた。気づいたその日にここに舞い戻ったが、双眼鏡はどこにも見つからない。カルロが持ち帰ったと考えるのが妥当だった。
 そこまでわかっていながら父に詫びる羽目になったのは、彼がここにいないことをブレットがいやというほどわかっているからだ。ブレットの足元を支える、欧州寮にカルロはいない。それどころか、彼は今この国を離れている。
 天体観測の夜からほぼ二週間後に行われた、ロッソストラーダ対ビクトリーズとの試合。この試合のさなか、ロッソストラーダは不正行為を白日の下にさらしオフィシャルから二か月間の出場停止処分を受ける。処分が下される直前、仕切り直されたレースでカルロが豪相手にバトルをしかけた場面にはブレットも立ち会っていた。
 以後、カルロたちロッソストラーダのメンバーの顔は見ていない。イタリアに戻っているという情報を、ブレットはデニス監督から知らされた。カルロが最後に顔を見せた相手が、因縁の相手・ビクトリーズの星馬豪であったことも人づてに聞いている。
「ゴウ・セイバか、俺じゃなくて」
 預けっぱなしの双眼鏡は、彼がブレットの前に姿を現す理由にはならないのだ。そう考えて落ちていく自分の肩が、ブレットは信じられなかった。
 だから彼がここに現れる可能性は万に一つもありえない。ありえないのに、彼の気配を期待する自分がいる。再会を待ちわびる理由が、父の双眼鏡を奪還できるからだと思いこめるほどブレットの思考は単純ではなかった。だからずっと、ブレットの足は屋上(ここ)から遠のいていたのだ。シュミットが、「静かな夜を過ごせていた」と言及するほどに。
 矛盾だ。どうしようもない、論理の破たんだ。カルロはいない。いない相手との再会を期待し、また避けている。退場することもできない舞台の上で、続きも終わりもない場面を演じているような馬鹿馬鹿しさだ。そしてなおも愚かしいのは、愚考を重ねながら、それでもブレットが恐れ続けていることだ。
 ブレットが恐れるもの、それはカルロの瞳だった。
 天体観測を通じて、カルロとブレットは何度か物理的な距離を縮めている。双眼鏡の使い方を教えたり、カノープスの特性を伝えたり。星語りによって次第に歩み寄る二人に、しかし楽しい思い出のアクセントから逸脱した瞬間が発生した。あれがパーソナルスペースを誤っただけの問題だったのか、ブレットにはよくわからない。
『星なんざ、俺にはどれも同じでさっぱりだが……』
 あの時、カルロはじっとブレットの目を覗きこんだ。呼吸が混じり合う近さに留まる、カルロの濃い青の瞳にブレットの背筋を何かが駆け上がる。カルロの目に浮かんだ光はブレットを慄かせた。彼が不在の今でも、あの眼差しの色を、形質を、意味を考えようとする度、ひどい頭痛がブレットを襲うのだ。

『お前の目は、月に似てるな』

 エッジなら、あんなセリフは吐かない。ブレットの素顔も瞳の色も知っているチームメイトは、(彼自身も珍しいヴァイオレットアイズを持つせいか)特に大げさなコメントを寄せることなくすべてを受け入れてくれた。彼の実は広くて深い懐に、ブレットの密かな感謝の念は絶えない。
 エッジの言動は、ブレットの神経をざわめかせない。カルロのように、ブレットの心の底をひっかくだけひっかいておいて、姿を消すなんてマネは絶対にしなかった。
『お前の目は、月に似てるな』
 リフレインはやまない。カルロの声が、言葉が、瞳の色が忘れられない。ミッドナイトブルーの奥に潜む、夜行性動物ような鋭い光が、ブレットの記憶に深々と突き刺さっている。
 目から耳から、その他もろもろを含めた感覚器官から流れ込む情報は、ブレットの記憶に容易に定着し、ちょっとやそっとのことでは剥がれたり流れ去ったりしない。自分のこの特異な能力に、ブレットが優越感を抱くことが出来た期間は短かった。何せ何でも覚えてしまうのだ。良いことも悪いことも、好きなことも嫌いなことも、そしてどんな下らないことも、ブレットの頭はいつまでもいつまでも保存してしまう。それに嫌気がさす、決定的な出来事が起きた日のこともブレットはよく覚えていた。
 七歳のころの話だ。イースターの休みに家族でクルード(推理ボードゲーム)をしていた時のこと、赤毛の姉が一枚目のカードをめくるやいなや、ブレットが犯人も動機も手段もすべて言い当ててしまったのが発端だった。
『このゲームは去年やったから、カードのしまい方を覚えてた。カードの隅っこには傷があるしね』
 七歳の少年の指摘通り、姉の開いたカードにはひっかき傷が残っていた。ブレット少年の天賦の才に理解を示していた両親や姉たちも、さすがにこれには呆れるしかなかった。
『レッティとは、もう遊べないわ』
 双子の姉のひとりが、ブレットの記憶力にお手上げ状態を宣言する。ブレットには二卵性双生児の姉がいるが、ブレットを「レッティ」と呼ぶのは赤毛の方の姉だけで、お手上げ宣言をしたのも彼女だった。彼女の言葉に、ブロンドの方の姉も続ける。
『これじゃゲームにならないわね』
『レッティはお勉強より、忘れる練習をすべきじゃないかしら』
 さすがに十二歳離れた弟に姉たちは頭ごなしに叱るような大人げない真似はしなかったけれど、姉たちの言葉はブレットに猛省を促した。顔立ちも頭の出来も似ていないコンプレックスに加えて、そのせいで家族の団らんを台無しにしたことがブレット少年を突き動かす。この頃からすでに自立心と行動力に溢れていたブレットは、父を説得して記憶術のセミナーに通わせてもらうことに決めた。もちろん覚えるためのものではない、忘れるためのセミナーだ。PTSDや対人恐怖症など、精神的なハンディキャップを抱える人々に混じって、一見どこもおかしいところのないような健康的な少年が、忘却術を熱心に身に着けようとする姿は少し異様だった。
 セミナーの甲斐あって、以来ブレットは、記憶することと同じくらい忘れることが得意になった。カードの傷も、片づけ方も、犯人も動機も手段も、ブレットはまとめて記憶のダストボックスに投げ込めるようになった。おかげで一度はしくじったクルードも、今では何度でも新鮮な気持ちで楽しめる。家族の団らんをぶち壊しにすることもなければ、姉に責められることもなくなった。
 これまでは膨大な記憶量を武器に、ある意味「力押し」をしていたブレットの思考力が、忘れることを身に着けたとたん飛躍的な向上を見せる。この年に開かれた数学のコンペティションでブレットは史上最年少一位を獲得、翌々年にはSAT(大学進学適性試験)でMIT入学に足る点数をたたき出した。
 完璧、なはずだった。そのパーフェクトな忘却術でもっても、太刀打ちできない記憶を前に、ブレットは途方に暮れている。
『お前の目は、月に似てるな』
 あの言葉が、あの声が、あの瞳が、ブレットの中の何かの引き金を引いてしまった。その何かがわからなくて、ブレットの、高度に発達したはずの頭脳が軋み始めている。だから言えない。心配してくれるエッジには悪いが、この明らかすぎる原因に口を滑らせるわけにはいかなかった。
 痛みのたびに重く傾いていく頭を支えて、ブレットは転落防止用の柵にもたれかかる。ロッソの出場停止期間が明けるのは、三週間後。その日付は、WGPのファイナルステージの幕開けを意味していた。
 新しい双眼鏡を手にひとりぼっちで立つ屋上に、冷たい風が吹き付ける。冬がもう、目の前に迫っていた。



 ファイナル二日目の箱根越えは、メンバーを割り振った当初から多くを懸念されていたステージだった。複雑なテクニカルコースに、悪路、さらに天候の変わりやすい山越えを含んでいる。順位以上に、とっさのトラブルに弱いミラーとハマーDをいかにサポートするかがアストロレンジャーズの課題と言えた。
「パワーブースターを使え」
 案の定、雲とアイスバーンにうろたえる二人に、ブレットはなるべく明快な指示を与えて気持ちを立て直させる。
 ハマーたちのフォローに思考をフル回転させながら、一方でブレットはカルロの動向を気にせずにはいられなかった。チーム戦であるWGPのファイナルで、ロッソストラーダはひとり欠けた四人で挑んでいる。さらにこの過酷な第二ステージに、ロッソのレーサーはカルロひとりだけ。万一彼がリタイアしようものなら、ロッソストラーダのレースはそこで終わる。彼がそんなヘマをするわけがない。そう頭ではわかっていながら、まるで自分がチームメイトにでもなったかのように、カルロのレース運びはブレットの意識に干渉し続けていた。
 ファイナル前日にイタリアから舞い戻った彼は相変わらずのヒールぶりで、メンバーがひとり欠けてさらに磨きがかかったようにすら思う。ブレットの瞳を月に似ていると呟いた彼とのギャップに、ブレットは練習会場でまたぞろ頭痛を感じていた。
 一度、ゴーグル越しに目が合った。痛みに顔をしかめていた真っ最中だったが、ゴーグルのおかげで無表情にしか見えなかっただろう。そのすぐ後に、ファイターによるファイナルステージの説明が始まり、ブレットはカルロのことを意識から追い出した。すると頭痛はすぐに消えた。そのことがかえって、頭痛の原因はカルロ自身以外にありえないのだとブレットに知らしめる。
「リーダー、交代しようか」
 第二ステージのグリーンシグナルが点灯してから、ハマーたちのオペレーションに缶詰のブレットにエッジが声をかける。ピット作業の準備をしているジョーには聞こえないように、エッジは声を抑えて耳打ちしてきた。
「頭痛は?」
 あのレスティングルームでの一件以来、エッジはブレットの体調を常に気にかけている。分厚いゴーグルに阻まれてスミレ色の瞳は見えないけれど、エッジの気遣いにブレットは口角を上げて首を振った。
「ならいいけどさ。無理するなよ、リーダー。No.2(俺)がいるってこと忘れんな」
「お前は俺がいないと有能だからな」
「それ褒めてんの?」
 適度な緊張のゆるみに笑いあう。エッジに対して嘘はなかった。体調のコントロールはできている。念には念を入れ、事前にアスピリンも服用していた。問題ない、このままいけると、ブレットは自身に判断を降す。
 だが、問題がなかったのはここまでだった。急なカーブが続く下り坂で、カルロがノンブレーキ走法を披露したころからブレットに異変が訪れる。ジョーが「クレイジー」と評した走りを前に、ブレットは心のざわつきを抑え込むのに苦労していた。
 リアステアリング機能の駆使、カルロの走りはその言葉によって一応の説明がつく。だが言うは易し行うは難しで、たった一台のファイナルでこの走りを見せられる度胸は並大抵のものではないだろう。ディオスパーダに並走して、蛇行するダウンヒルを全力疾走していくカルロの横顔は誇らしげだ。
 全身で風を切るその姿は、俺を見ろと声高らかに宣言している。そうしてすべての人々の目を釘付けにしながら、彼は彼にしか見えないものを追いかけていた。いや、振り切ろうとしていたのかもしれない。
 あいつの敵は、誰だ。
 レーサーか、コースか、それとも彼自身か。その、いずれでもない気がして、彼が逃れようと、突き破ろうとしている「何か」についてブレットは口走る。
「あいつは、『死神』と一緒に走ってるのかもな……」
 後がない。いつだって、カルロが発する棘は、がけっぷちのタイトロープを連想させる。
『お前の目は、月に似てるな』
 そんな男が、なぜあんな優しいセリフを吐いたのか。彼の中に潜むセンチメンタルな部分に、すでに感応してしまっているブレットは疑問を抱かずにはいられない。どうしてこんな走りをするのか。どうしてピカロを演じるのか。どうして、どうして、と問い続ける。旺盛すぎる知的好奇心とは、少し違う場所から浮かび上がる問いかけだった。
 彼が望んで? 本当に? 誰かに命じられて? 一体誰に?
『俺が欲しいのは勝利だけだ』
 なぜ従う? 天に唾を吐くお前が、どうして?
 ブレットは画面に映る彼に内なる叫び声を叩きつけたかった。

 だってお前は、お前は――――

『何がロマンだ。ロマンじゃ腹は膨れねえ』
 なら、お前の望みは何だって言うんだ、と胸ぐらをつかんで問い詰めてやりたい。勝利への執念だけで、こんな無茶をすると言うのか。勝利の向こうに、何かが待っているんじゃないのか。ブレットにとって、勝利とはそういうものだ。だがカルロ自身がそれを否定する。俺が欲しいのは勝利だけだと、彼自身が嘯きながら走るのだ。死神の鎌を、その細い首筋にぴったりとはりつかせたまま。
 大画面に映るカルロの横顔を見つめ続けていれば、大きな痛みがブレットの脳髄を貫いた。ファイナルで最初に訪れたこの痛みは、ジョーとエッジが傍らにいたおかげで気合で耐え抜いた。しかし、カルロのタイヤがバーストした瞬間に次の激痛がブレットを襲う。皮肉なことに、ブレットの意識を繋ぎとめたのはビクトリーズに肉薄され動揺したハマーDだ。
「落ち着け、ハマーD!」
 この言葉の半分は、自分に向けていたようなものだ。落ち着け、ただの痛みだ。ハマーたちがこの状況で、自分に何かあればアストロレンジャーズのレースこそ終わりかねない。自分がチームの精神的支柱であることを、ブレットは十分すぎるほどに理解していた。
「……っ」
 ピットからハマーDたちを送り出し、ジョーとエッジに指示を出し終えたあと、ブレットはトランスポーターの影に隠れて車体に額をこすりつける。苦痛にゆがむ顔を隠してくれるゴーグルを、むしり取りたいほどに痛い。頭が割れそうに、えぐられるように痛かった。この痛みは、確実にカルロの動きと呼応している。
 そして、箱根の山に冷たい雨が降り出した。雨はことさら、ブレットにカルロを意識させる。篠突く雨が降り続く校庭を前に、傘もなく立ち尽くす背中を見たのは夏のころだ。彼はきっと雨が嫌いで、あの夏の日から変わらないまま嫌いな雨に濡れつづけている。そして今のブレットは、彼に差し出す傘すら持っていなかった。
 だから、止めておけばよかったのだ。雨の中、最後尾を走るカルロをサテライトワンに追尾させてみようだなんて。だいたい、ゲームメイク以外の目的で人工衛星を使うなんて職権乱用もいいところだった。どんなに理屈を並べ立てたとしても、カルロを捕えるように指示したのはアストロレンジャーズのリーダーではない。
 レースはアイゼンヴォルフがトップを独走、そこにハマーたちをかわしたビクトリーズが猛追をしかけている。ウェットを嫌うカルロは最下位だ。雨の中、もがくように走るカルロの姿に頭痛は増していく一方で、それでもブレットはゴーグルの奥で目を凝らす。カルロが月と例えた瞳で、彼を映し続ける。
「どうやらトップ争いは、TRFビクトリーズの星馬烈くんとアイゼンヴォルフのミハエルくんに絞られたようだ!」
 実況の声にディオスパーダが急加速を始める。そのことに誰よりも先に気づいたのは、職権乱用を冒していたブレットだった。これでサテライトワンの無断使用は帳消しだが、この時のブレットにとってそんなことはどうでも良かった。雨に消えかけていたカルロの闘志が、再び燃え盛るのが見える。いや、蘇るどころかさらに勢いを増して、前を走るすべてのマシンを飲み込もうとしていた。
 サテライトワンの映像を前に、ブレットは叫んだ。
「ハマーD、後ろだ!」
『遅い!』
 ハマーの無線の奥から、響くのはカルロの唸り声。ブレットたちとは別世界を走る、鋭い獣の咆哮だ。
 ハマーたちを、ビクトリーズを、ごぼう抜きにしていく姿をブレットはサテライトワンと共に追った。カルロが腕を振り上げる度、体にまとわりつく雨粒を振り払う度、ブレットの視界の中でカルロの像が揺れる。ひとりが二人に、二人が三人に、分裂していくカルロの影は、ブレットの記憶をひっちゃかめっちゃかにかきまわしていった。
 死神を連れて走るカルロ。天体観測を楽しむカルロ。傘のないカルロ。ブレットの瞳を覗きこんだカルロ。
 『お前の目は、月に似てるな』
 エッジのそれとは似ても似つかない濃い青の瞳は、ブレットの心臓を鷲掴み、頭の芯に楔を打ち込んだ。
「くっ……、ぁ……!」
 これまでにないほどの、激しい痛みがブレットの脳天に突き刺さる。痛みの先端は頭蓋骨の奥まで沈み込み、脳髄を真っ二つに引き裂こうとしていた。
「ブレット?」
 呻くブレットの傍らから、訝しむエッジの声が遠く聞こえる。頭が割れる、そう叫びだしそうなる間際、雨の中を猛然と駆け抜ける細い背にブレットは目を凝らした。雨が降っている。カルロには傘がない。冷たい雨は止みそうもなくて、暗い道を走り続けている。痛い。脳の芯に穴が開きそうなほど。それでも、ブレットの瞳は画面を凝視し続ける。
 カルロ。
 濡れた地面を蹴り上げる度に、左右に揺れる背中。その奥に何かがいた。
 死神? 
 違う。あれは。カルロの背に見える、あれは、小さな、


 こども――――?


「ブレット!」
 エッジの姿が横倒しに見える。いや、自分の体が傾いているのだと気づいたときには半身が地面にたたきつけられていた。ジョーの悲鳴がブレットの鼓膜をつんざく。その声も床ばかりの視界も、すぐにブレットの意識からフェードアウトした。そして世界が真っ暗になる。
「ジョー、デニス監督呼んで来い!」
 失神は、どうやら一瞬のことだった。指示を飛ばすエッジの腕を掴んで、意識が戻ったことを知らせる。ゴーグル越しに、こちらを覗きこむエッジとジョーの顔が見えた。彼らも同じゴーグルをしているのに、ブレットを案ずる様子がはっきりとわかる。
「大丈夫だ……」
「監督だ、ジョー!」
 ブレットを支えようとするジョーに、再び監督を呼びに行かせるエッジを止める。デニスはトランスポーターを運転中だ。ここで車を止めれば、ゴール間際の攻防に間に合わなくなる。
「問題ない」
「どこが! ずっと痛かったんだろ、頭!」
 デニスを呼ばれたくない一心のブレットに、エッジが声を荒げる。リーダーの指示には従順な、No.2の珍しい様子にジョーも戸惑いを隠せていない。
 だめだ、そんなことでは。とブレットは胸の内で仲間を叱る。俺たちはいずれ宇宙に行く。何が起こるかわからない、何が起こってもおかしくない宇宙空間で、パーフェクトに行動してこその宇宙飛行士。クールになれよと、ブレットは仲間を説得するための言葉を紡いだ。
「俺のことよりハマーたちだ。ゴールで待とう」
「病院に行くべきだわ」
 行かなければ、あの場所に。見届けなければ、この戦いの結末を。その願いには、投げかけられるあらゆる気遣いが邪魔だった。だから全てを振り払ってブレットは立ち上がる。ふらつく様子は見せなかった。
「俺が、問題ないと言ってるんだ」
 エッジとジョーを睥睨し、発した高圧的な声音は二人に有無を言わせない。アストロレンジャーズは、ブレットをリーダーに仰いでこそまとまっているチームだ。だが、トップに立つブレットが、これほどまで仲間たちを上から押さえつけるような物言いをしたことはない。
 初めてブレットから受ける理不尽な圧力に、エッジとジョーは当然怯んだ。その隙を、ブレットは見逃さない。
「今ので、治った。本当に、心配はいらない。ありがとう、二人とも」
 うってかわった静かな声で、一言ずつ音を噛みしめる。プレッシャーを一気に解かれた二人は、さきほどまでの剣幕をどこかに置き忘れた。
「信じていいんだな?」
「ああ」
「『ずっと』って、いつからだったの?」
 今更なジョーの質問に、ブレットは曖昧に笑ってお茶を濁す。どうやらエッジは、ブレットの頭痛のことを誰にも口外しなかったらしい。義理堅いNo.2の肩をねぎらうように叩いて、ブレットはサテライトワンの追跡映像を流すディスプレイを見やった。ミハエルと烈の攻防、足を引きずる藤吉、最後尾のハマーたち、そしてぐんぐんとトップとの差をつめていくカルロと、画面は次々に切り替わっていく。
「すぐにゴールだ。見届けるぞ」
 エッジたちに告げた言葉に、嘘はなかった。酔いを起こしそうな画面の変化を追っていても、頭は痛みをカケラも感じていない。あれほど混乱を極めた思考が、今は嘘のようにクリアだった。



 第二ステージの軍配は、無敗神話を誇ったミハエルでも新型ソニックを駆る烈でもなく、最下位からの驚異的な追い上げを見せたカルロに上がった。
 カルロの勝利の雄叫びを、雨にたたずむブレットはどこか遠い所から耳にしていた。ミハエルの敗北、新型ソニックのポテンシャル、そしてピカロであるはずのカルロが成した正々堂々の勝利。ブレットが頼る冷静な思考回路は、ゴール前に並べられた事実を淡々と受けれ、平等に分析し評価する。ハマーDたちのタイムは、一番最後の情報として付け加えられた。
「大丈夫か、リーダー」
 雨に打たれ続けるブレットを、同じく濡れ鼠のエッジが気遣う。頭痛のことを案じているのだと察して、ブレットはノープロブレムと頷いて見せた。
「明日のレース、面白くなりそうだ」
 口角を上げ、不敵に笑うのは「普段通り」を演出するため。けれど、分析ついでに抱いた闘争心は本物だった。初日に稼いだ四分のアドバンテージを失っての最下位スタートなど、得体のしれない頭痛が去ったのなら物の数ではない。止まない雨に反して、ブレットの頭は晴れ渡っていた。
 ブレットは、ゴールの先で威風堂々とディオスパーダを掲げるカルロを眺めた。雨に濡れそぼった、ディオスパーダの紅は美しく輝いている。夏の南の一等星・アンタレスにも似た光に抱くのは、手ごわいレーサーへの評価を新たにする高揚感。そうだ。レースに必要なのは冷静な判断力と、その下で燃やす闘争心だけでいい。
 ブレットは、明日のポールポジションを得た勝利者に背を向けた。
「ハマーとミラーには何も言うな」
 頭痛のこと、一瞬とはいえ気を失ったこと、どちらも何も口にするなとブレットはエッジに釘を刺す。このレースでは度重なる醜態をさらしてしまったハマーたちの、精神状態を思えばエッジとて頷かざるを得ない。だが次の指示には、彼は少なからず驚いた様子を見せた。
「監督にもだ」
「だけど」
 それでも最後には、エッジはブレットの指示に従う。極端な話、監督がいなくてもアストロレンジャーズはファイナルを戦えるけれど、ブレットがいなければチームはあっさりと瓦解するだろうことをNo.2の彼はよくわかっていた。
「……OK、リーダー」
 そしてエッジが口をつぐめば、ジョーがそれに倣うこともブレットは把握している。デニスに直接問いただされるようなことがない限り、エッジもジョーもブレットの意思を尊重してくれるに違いなかった。そしてもう二度と頭痛で意識を失うようなヘマましないと、ブレットはエッジのヴァイオレットアイズに約束する。
「もう、痛みなんて忘れたさ」
 MIT卒の天才少年は、記憶術にたけているが忘れることもまた大得意だ。いらないと判断されたものはたちまち記憶のダストボックスに移動させられる。使うことのないそれらは、残していたところでブレットの思考を邪魔するシロモノばかりだ。

 写真に写っていたエッジの家族、保存。
 エッジを初めて見た時の母の反応とエッジのコメント、興味深い。
 双眼鏡とアスピリンの置き場所、チェック。
 シュミットの小言とエーリッヒの表情、……一応保存。

 見上げたハマーDの背後の看板の電話番号、使わない。
 エッジが隠れて閲覧していた成人向けサイトのURL、削除。
 ジョーがご執心の化粧品のコマーシャルメロディ、耳ざわり。
 てこずるミラーの代わりに作ってやったダイアグラムの色や形、さようなら。

 判断は一瞬ですむ。いらない。使わない。忘れてしまえ。Delete。それで完了。ブレットの瞳を月に例えたあの声も、その月に飢えた欲を隠さなかった瞳の輝きも、日々ブレットの体と思考を通り過ぎるガラクタのような情報とひとまとめにして、捨ててしまえばいい。これでオールグリーン、頭も気持ちもすっきりだ。
 忘れるという価値教えてくれたのは、クルードの犯人をブレットに当てられた姉の言葉だ。
『レッティはお勉強より、忘れる練習をすべきじゃないかしら』
 ブレットの姉は使う言葉を間違えた。彼女は、幼いブレットにこういうべきだったのだ。「忘れた『フリ』を覚えなさい」と。そうすれば少なくとも、ブレット少年が忘却術をこれほどまで完璧に磨き上げることはなかっただろう。しかし、時間はもう巻き戻せない。ナンバーもURLもメロディもダイアグラムも、クルードの犯人も、そして月色の瞳を閉じ込めたあのミッドナイトブルーの輝きでさえ、ブレットは簡単に忘れられるようになってしまった。
 痛みのあまりすべての情報をシャットダウンした一瞬に、ブレットの脳は忘却のプロセスを完了した。余計なものを捨てたブレットは、信頼に足るリーダーらしく次を見定めて指示を下す。
「引き上げるぞ。ハマーとミラーをねぎらってやってくれ」
 自分は一体に何に頭を痛めていたのか。痛みを失くしたブレットには、何の想像もついていない。そして、曖昧なままの記憶の残り香は、たちまち押し寄せる新たな情報の波にかき消された。




 それが恋だと気付く前に
 (俺は、忘れてしまうことにした)





++++++++++
BBCの現代版英国探偵なんか見てると、頭の良すぎる人は忘れるのも上手くないと大変なんだろうなと。
ブレットは英国探偵ほど意識的かつ偏った記憶の使い方はしてないとは思いますが、何せあの歳でMIT首席卒なので何かしらの記憶術は心得ているのでしょう。

クルードのエピソードは、アメリカの推理ドラマ「MONK」の主人公から拝借。彼は彼で、現代版英国探偵とは違った意味で変人です。
ブレットの甥っ子(オリキャラ話で失敬!)の名前も、このドラマの登場人物からお借りしました。

エッジってブレットがいると頼りないのに、別行動だとしっかりしてますよね。ついつい甘えちゃうのかなぁ。ファイナルではちゃっかり四位につけてるあたり、有能なんだと夢見てます^^
この話書くために100話何度か見直しましたが、ハマーDまじ落ち着け!

ブレットにとって、
エッジ→一番話が合う仲間。お互い趣味と実益をかねてN△S△に入っただろうし。でもプライベートは別行動が多そう。
シュミット→一番レベルが合う(思考が似てる?)ライバル。同族意識があるから、対抗心が煽られるのかなと。
というイメージで書いてます。ブレットの「親友」になれるとしたら誰なんだろうな。ハマーかな? ユーリはちょっと違うかな?

「ミルキーウェイブルース」でカルロはあの大接近をブレットが「なかったことにしたいのだ」と受け止めていましたが、本当は「忘れてしまった」んだよ、という説明のお話。初恋に脳の処理がおいつかず、オーバーヒートしちゃったブレットなのでした。カルロ視点の話を縫うような設定なので、やや苦しいです。が、やはりカルブレ好きとしては100話は外せないものでして。
カルブレ要素が薄くて反省。忘れてしまったブレットがこの後どうなるのか、ちゃんと別SSでフォローしたいとおもいます。はい。
2015/04/20 サイト初出。

2015/04/20(月) レツゴ:チョコレートナイフ(カルブレ)
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