【必読!!】
※カルロ12歳、ブレット13歳、WGP2inアメリカ
※「断罪のマリア」(前後編)「最善の悪意」(前後編)を踏まえてお読みください。
※カルブレ以外の公式キャラもちらほらと登場します。(セリフのある公式キャラ:エッジ、シュミット、エーリッヒ)
※タイトルは「21」さまより。
カルロの暴力事件に関して、オフィシャルの決定は次の通りだ。
当該事件は非公開とし、事件を知る者は、グランプリ関係者であるなしに関わらず何人にも事件の話をしてはならない。被害者ブレット・アスティアにはおとがめなし。加害者カルロ・セレーニ(FIMAにて身柄を確保)には三日間の自室謹慎および反省文の提出を命じる。
「オフィシャルの連中は頭がおかしいんじゃないのか! 一歩間違えば失明してたかもしれないんだぜ?」
FIMAの生ぬるい対応に、リーダーを傷物にされたエッジは怒りの声を上げた。
「いいから落ち着けよ」
そう言って憤懣やる方ないエッジをなだめるのは、被害者であるはずのブレッドで、彼はシュミットから叱責されても未だにカルロを庇い続けている。
「あれは事故みたいなものだ」
オフィシャルはラウンジに到着してすぐ、多数の目撃者を脇に置いてブレットひとりを事務局に連れて行った。FIMAの会長室で行われた事情聴取で、ブレットは事を大きくしないで欲しいと願い出ている。
『子ども同士の喧嘩に、偶然ナイフが近くにあっただけです。刃渡り5センチもないチャチなやつだ』
徹頭徹尾カルロへの非難を和らげようとするブレットの姿は、人目には奇異に映る。それにもかかわらず、FIMAがブレットの主張に迎合したのには理由があった。
NAアストロレンジャーズはN△S△のユースで構成されるチームであり、N△S△は開催国アメリカでも知名度の高い連邦機関だ。ブレットは、そのN△S△が特別目をかけているユースのひとりで、ホワイトハウスには相応の地位に立つ父親がいる。オフィシャルにとって、事を公にした後、双方からどのようなプレッシャーがかけられるかは非常に大きな悩みの種だ。下手を打てば、理事たちどころか会長の首が飛ぶ。
オフィシャルにとって好都合だったのは、ブレットの傷は極めて軽く、ナイフによって破損されたのは古ぼけた本が一冊だけだったことだ。何より、事件はレースや公式イベント外の、選手たちのプライベートな時間に発生している。未成年者への監督不行き届きを非難されるか否かのギリギリのラインで、被害者であるブレットが発した「子どもの喧嘩」というキーワードに、オフィシャルは「臭いものには蓋をする」体質を助長させ、今回の処分を決定した。
「納得いかねえよ、ブレット!」
このような経緯に、エッジが納得できようはずもない。だがその方向に自らオフィシャルを誘導したブレットは、静かな声でNo.2に言い含めた。
「頼むから、これ以上言ってくれるな。俺は事を荒立てたくないんだ」
何も知らないN△S△の上層部や父親に、カルロとのことをとやかく言われたくない。カルロの評判を落とすのは、グランプリレ―サーの間だけで十分だというブレットの想いの表れだ。
「だけど、反省文ってバカにしてるだろ。エレメンタリーのガキが窓ガラス割りましたって話じゃないんだぜ?」
「俺もカルロもエレメンタリーのガキみたいなもんだろ。俺の傷は割れた窓ガラスより安い」
「ブレット!」
カルロの肩を持つだけでなく、自分自身まで軽んじるブレットにエッジの眉が逆立つ。これ以上堂々巡りを繰り返したくないブレットは両耳を指で塞いで、自分の部屋へと逃げ込んだ。遠くから届くエッジの声を、背中で閉めた扉で無理やり遮断する。静寂に俯く顔に、絆創膏はなかった。
すでに事件から、そしてオフィシャルの処分から一週間が過ぎ、ブレットが受けた傷はきれいさっぱり塞がった。カルロは反省文を一向に提出する気配がなく、当初三日間だった謹慎は長引いている。その間に、WGPの会場はサンフランシスコからソルトレイクシティへと場所を遷していた。オフィシャルの采配によってアストロレンジャーズとロッソストラーダの移動は別日とされ、ブレットはあの日以来カルロの顔を見ていない。
『納得いかねえよ!』
何一つ納得できないのは、ブレットも同じだ。だが今の自分ではカルロに面と向かって問いただすことすらできない。例え彼の前に立ったとして、何から聞いていいのかわからなかった。
彼にしては極めて稀なことだが、考え込むことにすっかりくたびれたブレットは、ベッドに後ろ向きで倒れこんだ。ぱふん、とマットレスに背中を受け止められ、仰向けのままブレットは瞼を落す。時刻は午後4時、昼寝には遅い時間だがどうしようもなく頭が疲れていた。
また、あの夢を見るのだろう。そう思うのもつかの間、ブレットの意識は眠りの淵へと落ちて行った。
天才は無知であるという前提
雨が降っている。その中を、ブレットは一人で走っている。長い長い坂道に、先頭は見えない。
「まだか、先頭はまだか!」
絡みつく雨に腕をふりあげ、インラインローラーをつけた足で地面を蹴ってブレットは先を急ぐ。体が重く、全速力で走っているのにひどく寒い。誰もいない。エッジも、ジョーも、ミラーもハマーDも。ひとりきりのコースで、バックブレーダーが流れる雨水にタイヤをとられていた。
これが夢だと、ブレットはわかっている。カルロにナイフで切り付けられた夜から、繰り返し見ている夢だ。けれど孤独に走るこの光景が、去年のファイナルで見た箱根の山々だとブレットが気づいたのは昨夜のことたった。だからといって、夢の中身は変わらない。変わらない夢を、繰り返す。
「ダッド!」
ブレットは父を呼んだ。孤独にこらえきれず、母を、日頃疎ましい姉たちの名すら叫んだ。口の中に大量の雨が入り込んでむせる。そうこうしているうちにブレットは、坂を上りきっていた。いつも夢はここで終わる。ようやくたどり着いた終着点が、けれど今日はなかった。変わらないはずの夢に、続きができる。
地面から足が浮き、ブレットは空中をなおも先を目指して走っていた。ビルも山々も足の下だ。対流圏を抜け、成層圏を飛び出し、地上百キロのカーマンラインを超える。いずれスペースシャトル乗って、自分が漂うはず星屑の世界にブレットは息をのんだ。そして、足元の地球をふり返る。
地球は、思っていたより小さかった。それだけ自分が宇宙の遠くに投げ出されていると言うことだ。ザ・ブルーマーブルはどんどん遠のいていき、戻ろうとブレットが手を伸ばしてもどうしようもない。
「ダッド……ママ……!」
助けて、とは声にならなかった。背後に大きな気配を感じて、ブレットは再び正面に向き直った。巨大な月が、無言でブレットの目と鼻の先に迫っている。青白い天体はコンクリートの塊のようで、けれどクレーターの模様が幾何学の謎を秘めているようで目が離せない。瞳の中で巨大な月が重なった瞬間、ブレットの中で何かの封印が解かれる。
『お前の目は、月に似てるな』
少年の声が、宇宙に響き渡る。聞いたことのある声だった。
次に瞼を上げた目には、部屋の天井が映っていた。
「……夢」
現実を確かめるように、呟く。声は夢の名残以上に、儚く響いた。時計を見ると、デジタル表示は「16:20」とあった。短い夢を終えてベッドから身を起こしたブレットは、部屋に備え付けられた洗面台へ向かう。蛇口をひねり、流れる水をすくって顔を濡らした。乾いたタオルで覆った顔を上げると、目の前の鏡に自分の姿が見える。薄い、青灰色の双眸が、蛍光灯の下で胡乱げに光っていた。
鏡の中の自分の瞳を、ブレットは好いてはいなかった。家族の誰とも違う色。死んだ魚の目のような、濁った色だと自虐さえした。その自己評価の転機はMIT入学直前に、サマービルの祖父母の元に挨拶にいったさなかに訪れた。
『お前は呪われている』
物心ついてから初めて対面した祖父が、ブレットをじっと見下ろしてこう言った。
優秀な学者であると同時に、フリーク(変人)でもあった祖父の、突然の言葉に祖母や母は仰天した。祖父のパンチの効きすぎる言動に、9歳の少年は怖がるだろうと誰もがうろたえた。だが常識の通じない祖父に、彼女たちの制止はまるで意味をなさなかった。
『お前の瞳は月と同じ色をしている。月の呪いを受けた証だ。星を見ずにはいられない、呪われた者の目だ』
祖父の禍々しい言葉を一方的に浴びせかけられ、すわ泣き出すかと思われた少年は、不思議なほどさっぱりとした笑顔を見せて家族を驚かせた。
『わかったよ、グランパ。俺たちは仲間だね!』
この目は、この色は、月を見つめ、星を解剖し、宇宙の謎を解き明かすためにあるのだと、たった9歳にして自分の運命を悟ったブレットは、同じく「呪われた」瞳を持つ祖父に謝辞を述べた。幼い孫の度胸の良さに、変わり者の天文学者は珍しい微笑を見せる。その日から祖父が天に召されるまで、二人は80歳離れた一卵性双生児とからかわれるほどの友情を築くことになった。
そんな祖父とのやりとりを、カルロは知らない。カルロどころか、家族以外誰にも打ち明けていない。極端な隔世遺伝に抱えたブレットのコンプレックスと、アンビバレントな矜持についてはなおさらだ。にもかかわらず、カルロはブレットの瞳をこう名付けた。
ムーングレイ。
月の色。夢の中で、ブレットの目鼻の先に迫った巨大な月の輝きだ。
そう告げた瞬間の、カルロの瞳は言うなればミッドナイトブルーだった。昼間はサファイアを思わせる青が、暗く沈む瞬間を、ブレットはつい最近もう一度目の当たりにしている。ナイフを振りかざすカルロから祖父の天体図鑑を守ろうとした一瞬、彼と目が合った刹那に見たカラーだ。
暗く深い夜の青には、ブレットへの強い執着が宿っていた。
「思い……出した……」
小さく呻いて、ブレットはタオルに顔をうずめる。日本での、秋の夜に、彼と至近距離で見つめ合ったひとときがよみがえる。唇を撫でるカルロの呼吸も、ブレットの名を切なげに紡いだ声の響きも。まるで五感が真空パック詰めされていたかのように、リアルで新鮮な、カルロの色彩が鮮やかに脳から溢れだしてくる。
封印を破った思い出は、ブレットの記憶のパズルにぴったりとはまる。完成した記憶は、反芻のたびにブレットのなかでじわじわとこみ上げるものを生んでいた。顔を埋めたタオルを、ブレットはぎゅっと握りしめる。
「あんな……」
あんな、目で、誰かに見つめられたのは初めてだ。あんな、切ない声の響きで、誰かに瞳の色を喩えられたことなんてなかった。
胸が熱い。顔も、体中のどこもかしこも、熱かった。鼓動が速まり、大暴れする心臓が耳に後ろについている気さえする。どきどき、どきどき。N△S△の過酷な訓練でさえ動じたことのない鋼の神経が、戸惑い、うろたえ、恥ずかしさで消え入りそうになっていた。
「どうして……」
どうして忘れてしまったんだろう。どうして忘れたままでいられたんだろう。自分の瞳を、祖父と同じく「月」と喩えたあのカルロを。今となっては、彼の隣で、平然と星空を見上げていた自分が信じられない。
「カルロ……」
小さくつぶやいただけで、胸がきゅっと締め付けられてブレットはたまらなくなった。なんだ、一体なんなんだこの感覚は。カルロは自分に何をした?
Trrrrrrr!
突然鳴りだした電話の呼び出し音に、笑えるくらいブレットの肩が大きく跳ねた。慌てて内線専用の受話器を取れば、耳に聞こえたのはエーリッヒの声だった。
「お預かりしていた本が直りました。今からでも僕の部屋にどうぞ」
言葉こそ提案の形を取っているが、エーリッヒの声には有無を言わせない気配があった。仕方なく承諾の意を伝えて、ブレットは受話器を戻す。本が直ったことは喜ばしいが、エーリッヒの部屋に行くのは正直言って気が重い。彼の部屋は、つまりシュミットの部屋でもある。
『すべては、お前ひとりの思い上がりだったわけだ』
シュミットは、カルロとブレットの関係を真っ向から否定した。カルロの名前ひとつで動悸が起こる今、彼と顔を合わせるのは苦痛だった。
ブレットを呼び出したのは、どうやらエーリッヒの独断であったらしい。部屋に入るなり、シュミットのヴァイオレッドアイズが丸くなった。
「お前とは口をききたくないが、エーリッヒの顔は立てるべきだと思ってな」
訪問の意図を端的に、かつ嫌味いっぱいに伝えると、シュミットの秀麗な顔がしかめられる。
「私の方こそ、自分の非を認めない愚か者と会話する気はない」
「俺がいつ間違ったって言うんだ」
「まだわからないのか」
案の定、互いに喧嘩腰になる二人の間に、エーリッヒのため息が割って入る。
「二人とも、仲良くしてくださらないと部屋からたたき出しますし、本もお返ししませんよ」
強豪ドイツチームのNo.3を務めるだけあって、エーリッヒは柔和な外見に反して性格はしたたかだ。ブレットもシュミットも、自分より上背のあるエーリッヒの気迫に負けて、互いに口を閉ざしそそくさと席に着いた。
シュミットとブレットが向かい合ったところで、エーリッヒが直ったばかりの天体図鑑をテーブルに置く。ぱっと見にも傷が塞がった本の表紙に、ブレットは感嘆の溜息をこぼした。
「随分と綺麗に、直るものなんだな」
「ユーリが紙や塗料の知識に優れていたおかげです。カメラが趣味と聞きましたが、関係があるんでしょうか」
「Thanks, エーリッヒ。ユーリにも礼を言っておかないとな」
本を膝に乗せ、ブレットは表紙を見回す。無傷、とまではいかないが、糊か何かで再接着された星空は以前の美しさを残していた。数ページにわたって引き裂かれていた表紙の下も、きちんと繋ぎ合わされている。読める状態に戻っているだけで御の字だったブレットとしては、エーリッヒとユーリの確かな仕事ぶりにいくら感謝してもし足りなかった。
再び本を閉じて、ブレットは青い表紙を愛おしげに撫でる。大切なものを取り戻したブレットに、エーリッヒが「おじいさまの形見だとか?」と話を振った。
「ああ」
「カルロはそれを知っているのか」
シュミットの遠慮仮借ない声がカルロの名を紡いで、ブレットの顔が歪む。まるで返しのついた矢じりに痛い所を貫かれた気分だった。抜こうと思っても抜けない矢は、じくじくとした痛みを伝えてくる。
『俺の誕生祝いに母方の祖父が贈ってくれたものだ』
そうだ、ブレットはこの本が宝物であることをカルロに伝えている。全てを承知で、彼はナイフの刃を突き立てた。
それがどうした、だから何だ。シュミットの指摘が正確であればあるほど、ブレットの意固地は毛を逆立てる。カルロが月に喩えた瞳で、ブレットはシュミットを睨め上げた。
「それ以上言うな」
それ以上、カルロを貶めるな。
「だからお前は愚かだと言うんだ」
ブレットの眼光にもびくともしないシュミットは、大仰に両手を振ってブレットを責めて立てる。
「お前はカルロのやったことに動揺して、事象を冷静にとらえられなくなっている。その上、原因をつきとめることも拒んで思考停止。これが愚か者(フール)でなくて何だと言うんだ」
「だったら、お前にはわかるのか」
「わかるものか、私はカルロを知らないからな」
なら余計な口を挟むな。そう続けようとした言葉は、今度はシュミットの眼光によってひっこめさせられる。カルロの悪意に晒されたのも、周囲の無理解に苦しんでいるのもブレットなのに、シュミットの方が何十倍も怒りを抱えているように見える。
「お前は、カルロを知ってるんだろう?」
赤みの強いヴァイオレットアイズで、ブレットを縫いとめたシュミットは言う。その言葉に、ブレットは胸を押された。
「ことカルロに関して、そう言い切れる者は希少だ。なら、この謎を解けるのはお前だけだ」
そう。カルロに、友達はいない。ただひとりを除いては。
揺らいでいた自負が(今は恋心へと変わっているけれど)、シュミットの紡ぐ一音一音に襟を正されていく思いがした。そこでようやく、シュミットが口元にかすかな笑みを浮かべる。
「そのご自慢の頭で推理したらどうだ、シャーロック・ホームズ」
ブレットは唐突に、角砂糖が欲しいと思った。考え事が好きなブレットに、日々酷使される脳には糖分が不可欠だ。低血糖対策に幼いころは家の角砂糖を食べ尽くして、姉に「馬みたいね」とからかわれた記憶さえある。今ここでブレットが角砂糖を食べ始めようものなら、乗馬が趣味なシュミットに何を言われるかわかったものではなかった。
「ミステリーは読まない」
シュミットの誘いに、気の早い脳は先走って考え出そうとする。押し留めるように、ブレットは呟いた。はからずも拗ねたような響きに、シュミットは両肩をすくめる。
「ミステリーどころか、学術書以外は読まんだろう」
「読んでるさ」
「せいぜい荒唐無稽なSFが関の山と言うところだな。一体何が良いのやら」
正解を言い当てられてブレットは臍を噛む。なんとか目の前の男をやりこめたくて、けれどひねり出した答えは退屈なものだった。
「……想像力に、知識はひれ伏すんだ」
「なるほど。お前は知識一辺倒だから、無いものねだりをしているわけだ。カルロにもそうなのか」
それは意外な視点だった。シュミットの問いに、逆にブレットは目を見開いて瞬く。そうなのか? 自分はカルロに無いものねだりをしていただけだったのか?
『何を知ってるとか、持ってるとか、そんなことで俺は友達を選ばない』
なんて偉そうなことを言いながら、友情や好意ではなく、結局は自分には無いものを持つカルロを羨んで、自己投影していただけだったのか。
「無いものねだりのために、俺はステラを突き放したのか?」
「あの少女を手酷くフったのもカルロのためか。たかがバトルレーサーのために、くだらないことをしたものだな」
「言葉が過ぎますよ、シュミット」
これまで聞き役に徹していたエーリッヒが口を挟む。彼はまるで、事件直後のユーリのように、エーリッヒはブレットと、それからカルロの肩を持った。
「今大会が始まってから、カルロは一度もバトルをしかけたり、疑われるようなレースをしていません。精神的にも落ち着いていたように見えました」
「そこだよ、エーリッヒ」
エーリッヒの指摘を見越していたかのように、シュミットは人差し指を立てる。目の前で繰り広げられるドイツ人二人の阿吽の呼吸に、ブレットはただ話を聞いているしかなかった。
「お前の観察が正しいとして、落ち着いていたはずのカルロがここまで豹変した理由は何だ? 日本にいたころですら、人に向けたことのないナイフを振り回した理由は?」
シュミットの問題提起に、ブレットとエーリッヒは黙った。答えられないブレットに、シュミットはやれやれと肩をすくめながらそれ以上の発言を控えている。シュミットはこの間にも、ブレットの頭脳が回転を始めていることに気づいていた。超高速ギアをはめこんだマシンのごとく、ブレットのシナプスとシナプスを渡る神経伝達物質がじわじわとだが確実に速度を上げている。
カルロが豹変した理由。
カルロはどうして俺を攻撃したのか。
「違う……発想が逆だ……」
ブレットのひとりごとにエーリッヒが怪訝な顔をし、シュミットはじっと待っている。ブレットは考え続けた。逆転の発想。探すべきは、カルロがブレットにナイフを向けた理由ではない。カルロをあんな行動に駆り立てたもの、それは何で、誰かと言うことだ。彼の生殺与奪を握っている人物を、ブレットたちは知っている。
ブレットは顔を上げてシュミットを見た。薄いブルーの中にあるきらめきに、シュミットの口角が上がる。同時にブレットの口が開いた。
「ロッソストラーダの、オーナー……!」
ブレットの答えに、エーリッヒは目を見張り、シュミットは頷く。
「順当に考えればそうなる。やはりお前の目は曇っていたのだよ、ブレット。曇らせていたのはカルロだ」
日本大会におけるロッソストラーダの反則行為に、チームオーナーの意向が大きくかかわっていたことはグランプリチームの間では周知の事実だ。大会終了後、運営側も一度は調査に乗り出したものの、ロッソのメンバーは口が堅く、決定的な証拠を得られないまま全てはうやむやにされた。
「ロッソのオーナーは、あいつに何を」
「そこまでは憶測のしようもない。情報がなさすぎる。だがカルロのナイフがお前に向けられた以上、お前自身が無関係ではいられないだろうな」
かの人物の意図について、情報を持っているとすれば実行犯のカルロだけだ。
カルロ……!
もうブレットはじっとしていられなかった。天体図鑑を片手にシュミットたちの部屋を飛び出す。エーリッヒに引き留めさせもしない即断即決に、ブレットが後に残された二人のやりとりを知ることはなかった。
「行かせていいんですか。間違いなくカルロのところですよ」
一週間前と同じ轍を踏むかもしれないと、危ぶむエーリッヒにシュミットは首を振った。
「忠告は腐るほどしたさ。聞かないバカの面倒まで見きれない。二度同じミスをするなら、今度こそ奴とは絶交だ」
エーリッヒは、ブレットが走り去ったドアを見つめ、小さく息をつく。それから、今では空っぽになってしまったイスに視線を流した。
この部屋に入ってきた、ブレットの目にはまだ迷いがあった。けれど、イスから立ち上がった彼からは、瞳を覆う霧は吹き飛んでいる。カルロに傷つけられ、まともな思考もままならなかった彼はどこにもいない。断固とした意志を取り戻した彼が向かった先を思い、エーリッヒは呟く。
「嫌われ者と言うのは、孤独で礼儀を知らないだけと聞きます。カルロもそうでしょうか」
ふり返るエーリッヒに、シュミットは鼻を鳴らす。
「聞く相手を間違っているぞ、エーリッヒ」
そう、シュミットは正しい。おそらく、その答えを持っているのはブレットだ。
エーリッヒとて、日本での大会ではシュミットより長くカルロやブレットと関わっていた。そのエーリッヒの目に、カルロはまるで糸の切れたカイトのように映る。悪い風が吹けば悪に、善き風が吹けば善に、カルロの心はたやすく流されてしまう。自ら道を切り開いているように見えて、その実、周囲を吹く風に身を任せるがままなのは、過酷な生い立ちゆえなのかもしれない。生きることばかりに必死過ぎて、カルロは自己を持てなかった。
日本での戦いを終えたカルロは、善き方に流れかけていた。彼に吹いた風は、星馬兄弟やミハエルといったグランプリレーサーたちの誇り高き想いだろう。そのカルロを、またしても悪しき風が連れ去ろうとしている。このあたりで、誰かが彼の切れてしまった糸を掴んでやらなければ、カルロは二度と戻れない暗い沖まで流されかねなかった。
「ブレットなら、できるでしょうか」
カルロの糸を掴める人間がいるとしたら、それは自分の足場を決して見失わない者だけだろう。エーリッヒの知る限り、グランプリレーサーの中でそこまで確固とした自己を持っている人間の筆頭はブレットだ。ブレットには夢がある。宇宙飛行士。教師に命じられて作文に書くそれとは違う、もっと現実的な将来だ。そこにたどり着くための才覚も、自分の限界も欠点も、ブレットは正確に理解し、一歩一歩小さな大人として夢への道を歩んでいる。
「彼なら、カルロを孤独から救えるでしょうか」
明るい世界へ。人の輪の中へ。悪い風に流されるばかりのカルロを、日の当たる場所に引っ張り上げられる可能性がまだ残っているとエーリッヒは信じたい。
「私は、カルロがどうなろうと何の興味もない。相容れない世界の人間だからな」
「そう言うわりには、随分とけしかけていたように見受けましたが」
「心外だな」
百歩譲って、カルロに関心がないのが真実だとしても、ブレットを思いやる気持ちがシュミットを突き動かしていたのは事実だろう。わざとカルロを否定し、二人がひそかに育んでいた関係を一笑に付し、シュミットは心を鬼にしてブレットの本気を試していたに違いないのだ。
「優しいんですね」
「おい、エーリッヒ。さっきから何の話かさっぱりだぞ」
嘯くシュミットに向けてエーリッヒは微笑を濃くする。どうか、善き風の吹く岸辺にカルロがたどり着けますように。親友のお節介が功を奏せばいい、ブレットの手がカルロに届けばいいとエーリッヒは願った。
天才は無知であるという前提
(俺は、お前をわかりたい)
+++++++++++++
話の展開に困ると夢に頼るのを私はそろそろやめたほうが良いと思うの。
現代版英国探偵へのオマージュがちょこっとだけ。ちょっとしたお遊びと思って大目に見てくださるとうれしい。
そしてシュミットのキャラはこれでいいのか……(コレジャナイ感が胸に迫る)
後編に続く。
2015/07/27 サイト初出。
※カルロ12歳、ブレット13歳、WGP2inアメリカ
※「断罪のマリア」(前後編)「最善の悪意」(前後編)を踏まえてお読みください。
※カルブレ以外の公式キャラもちらほらと登場します。(セリフのある公式キャラ:エッジ、シュミット、エーリッヒ)
※タイトルは「21」さまより。
カルロの暴力事件に関して、オフィシャルの決定は次の通りだ。
当該事件は非公開とし、事件を知る者は、グランプリ関係者であるなしに関わらず何人にも事件の話をしてはならない。被害者ブレット・アスティアにはおとがめなし。加害者カルロ・セレーニ(FIMAにて身柄を確保)には三日間の自室謹慎および反省文の提出を命じる。
「オフィシャルの連中は頭がおかしいんじゃないのか! 一歩間違えば失明してたかもしれないんだぜ?」
FIMAの生ぬるい対応に、リーダーを傷物にされたエッジは怒りの声を上げた。
「いいから落ち着けよ」
そう言って憤懣やる方ないエッジをなだめるのは、被害者であるはずのブレッドで、彼はシュミットから叱責されても未だにカルロを庇い続けている。
「あれは事故みたいなものだ」
オフィシャルはラウンジに到着してすぐ、多数の目撃者を脇に置いてブレットひとりを事務局に連れて行った。FIMAの会長室で行われた事情聴取で、ブレットは事を大きくしないで欲しいと願い出ている。
『子ども同士の喧嘩に、偶然ナイフが近くにあっただけです。刃渡り5センチもないチャチなやつだ』
徹頭徹尾カルロへの非難を和らげようとするブレットの姿は、人目には奇異に映る。それにもかかわらず、FIMAがブレットの主張に迎合したのには理由があった。
NAアストロレンジャーズはN△S△のユースで構成されるチームであり、N△S△は開催国アメリカでも知名度の高い連邦機関だ。ブレットは、そのN△S△が特別目をかけているユースのひとりで、ホワイトハウスには相応の地位に立つ父親がいる。オフィシャルにとって、事を公にした後、双方からどのようなプレッシャーがかけられるかは非常に大きな悩みの種だ。下手を打てば、理事たちどころか会長の首が飛ぶ。
オフィシャルにとって好都合だったのは、ブレットの傷は極めて軽く、ナイフによって破損されたのは古ぼけた本が一冊だけだったことだ。何より、事件はレースや公式イベント外の、選手たちのプライベートな時間に発生している。未成年者への監督不行き届きを非難されるか否かのギリギリのラインで、被害者であるブレットが発した「子どもの喧嘩」というキーワードに、オフィシャルは「臭いものには蓋をする」体質を助長させ、今回の処分を決定した。
「納得いかねえよ、ブレット!」
このような経緯に、エッジが納得できようはずもない。だがその方向に自らオフィシャルを誘導したブレットは、静かな声でNo.2に言い含めた。
「頼むから、これ以上言ってくれるな。俺は事を荒立てたくないんだ」
何も知らないN△S△の上層部や父親に、カルロとのことをとやかく言われたくない。カルロの評判を落とすのは、グランプリレ―サーの間だけで十分だというブレットの想いの表れだ。
「だけど、反省文ってバカにしてるだろ。エレメンタリーのガキが窓ガラス割りましたって話じゃないんだぜ?」
「俺もカルロもエレメンタリーのガキみたいなもんだろ。俺の傷は割れた窓ガラスより安い」
「ブレット!」
カルロの肩を持つだけでなく、自分自身まで軽んじるブレットにエッジの眉が逆立つ。これ以上堂々巡りを繰り返したくないブレットは両耳を指で塞いで、自分の部屋へと逃げ込んだ。遠くから届くエッジの声を、背中で閉めた扉で無理やり遮断する。静寂に俯く顔に、絆創膏はなかった。
すでに事件から、そしてオフィシャルの処分から一週間が過ぎ、ブレットが受けた傷はきれいさっぱり塞がった。カルロは反省文を一向に提出する気配がなく、当初三日間だった謹慎は長引いている。その間に、WGPの会場はサンフランシスコからソルトレイクシティへと場所を遷していた。オフィシャルの采配によってアストロレンジャーズとロッソストラーダの移動は別日とされ、ブレットはあの日以来カルロの顔を見ていない。
『納得いかねえよ!』
何一つ納得できないのは、ブレットも同じだ。だが今の自分ではカルロに面と向かって問いただすことすらできない。例え彼の前に立ったとして、何から聞いていいのかわからなかった。
彼にしては極めて稀なことだが、考え込むことにすっかりくたびれたブレットは、ベッドに後ろ向きで倒れこんだ。ぱふん、とマットレスに背中を受け止められ、仰向けのままブレットは瞼を落す。時刻は午後4時、昼寝には遅い時間だがどうしようもなく頭が疲れていた。
また、あの夢を見るのだろう。そう思うのもつかの間、ブレットの意識は眠りの淵へと落ちて行った。
天才は無知であるという前提
雨が降っている。その中を、ブレットは一人で走っている。長い長い坂道に、先頭は見えない。
「まだか、先頭はまだか!」
絡みつく雨に腕をふりあげ、インラインローラーをつけた足で地面を蹴ってブレットは先を急ぐ。体が重く、全速力で走っているのにひどく寒い。誰もいない。エッジも、ジョーも、ミラーもハマーDも。ひとりきりのコースで、バックブレーダーが流れる雨水にタイヤをとられていた。
これが夢だと、ブレットはわかっている。カルロにナイフで切り付けられた夜から、繰り返し見ている夢だ。けれど孤独に走るこの光景が、去年のファイナルで見た箱根の山々だとブレットが気づいたのは昨夜のことたった。だからといって、夢の中身は変わらない。変わらない夢を、繰り返す。
「ダッド!」
ブレットは父を呼んだ。孤独にこらえきれず、母を、日頃疎ましい姉たちの名すら叫んだ。口の中に大量の雨が入り込んでむせる。そうこうしているうちにブレットは、坂を上りきっていた。いつも夢はここで終わる。ようやくたどり着いた終着点が、けれど今日はなかった。変わらないはずの夢に、続きができる。
地面から足が浮き、ブレットは空中をなおも先を目指して走っていた。ビルも山々も足の下だ。対流圏を抜け、成層圏を飛び出し、地上百キロのカーマンラインを超える。いずれスペースシャトル乗って、自分が漂うはず星屑の世界にブレットは息をのんだ。そして、足元の地球をふり返る。
地球は、思っていたより小さかった。それだけ自分が宇宙の遠くに投げ出されていると言うことだ。ザ・ブルーマーブルはどんどん遠のいていき、戻ろうとブレットが手を伸ばしてもどうしようもない。
「ダッド……ママ……!」
助けて、とは声にならなかった。背後に大きな気配を感じて、ブレットは再び正面に向き直った。巨大な月が、無言でブレットの目と鼻の先に迫っている。青白い天体はコンクリートの塊のようで、けれどクレーターの模様が幾何学の謎を秘めているようで目が離せない。瞳の中で巨大な月が重なった瞬間、ブレットの中で何かの封印が解かれる。
『お前の目は、月に似てるな』
少年の声が、宇宙に響き渡る。聞いたことのある声だった。
次に瞼を上げた目には、部屋の天井が映っていた。
「……夢」
現実を確かめるように、呟く。声は夢の名残以上に、儚く響いた。時計を見ると、デジタル表示は「16:20」とあった。短い夢を終えてベッドから身を起こしたブレットは、部屋に備え付けられた洗面台へ向かう。蛇口をひねり、流れる水をすくって顔を濡らした。乾いたタオルで覆った顔を上げると、目の前の鏡に自分の姿が見える。薄い、青灰色の双眸が、蛍光灯の下で胡乱げに光っていた。
鏡の中の自分の瞳を、ブレットは好いてはいなかった。家族の誰とも違う色。死んだ魚の目のような、濁った色だと自虐さえした。その自己評価の転機はMIT入学直前に、サマービルの祖父母の元に挨拶にいったさなかに訪れた。
『お前は呪われている』
物心ついてから初めて対面した祖父が、ブレットをじっと見下ろしてこう言った。
優秀な学者であると同時に、フリーク(変人)でもあった祖父の、突然の言葉に祖母や母は仰天した。祖父のパンチの効きすぎる言動に、9歳の少年は怖がるだろうと誰もがうろたえた。だが常識の通じない祖父に、彼女たちの制止はまるで意味をなさなかった。
『お前の瞳は月と同じ色をしている。月の呪いを受けた証だ。星を見ずにはいられない、呪われた者の目だ』
祖父の禍々しい言葉を一方的に浴びせかけられ、すわ泣き出すかと思われた少年は、不思議なほどさっぱりとした笑顔を見せて家族を驚かせた。
『わかったよ、グランパ。俺たちは仲間だね!』
この目は、この色は、月を見つめ、星を解剖し、宇宙の謎を解き明かすためにあるのだと、たった9歳にして自分の運命を悟ったブレットは、同じく「呪われた」瞳を持つ祖父に謝辞を述べた。幼い孫の度胸の良さに、変わり者の天文学者は珍しい微笑を見せる。その日から祖父が天に召されるまで、二人は80歳離れた一卵性双生児とからかわれるほどの友情を築くことになった。
そんな祖父とのやりとりを、カルロは知らない。カルロどころか、家族以外誰にも打ち明けていない。極端な隔世遺伝に抱えたブレットのコンプレックスと、アンビバレントな矜持についてはなおさらだ。にもかかわらず、カルロはブレットの瞳をこう名付けた。
ムーングレイ。
月の色。夢の中で、ブレットの目鼻の先に迫った巨大な月の輝きだ。
そう告げた瞬間の、カルロの瞳は言うなればミッドナイトブルーだった。昼間はサファイアを思わせる青が、暗く沈む瞬間を、ブレットはつい最近もう一度目の当たりにしている。ナイフを振りかざすカルロから祖父の天体図鑑を守ろうとした一瞬、彼と目が合った刹那に見たカラーだ。
暗く深い夜の青には、ブレットへの強い執着が宿っていた。
「思い……出した……」
小さく呻いて、ブレットはタオルに顔をうずめる。日本での、秋の夜に、彼と至近距離で見つめ合ったひとときがよみがえる。唇を撫でるカルロの呼吸も、ブレットの名を切なげに紡いだ声の響きも。まるで五感が真空パック詰めされていたかのように、リアルで新鮮な、カルロの色彩が鮮やかに脳から溢れだしてくる。
封印を破った思い出は、ブレットの記憶のパズルにぴったりとはまる。完成した記憶は、反芻のたびにブレットのなかでじわじわとこみ上げるものを生んでいた。顔を埋めたタオルを、ブレットはぎゅっと握りしめる。
「あんな……」
あんな、目で、誰かに見つめられたのは初めてだ。あんな、切ない声の響きで、誰かに瞳の色を喩えられたことなんてなかった。
胸が熱い。顔も、体中のどこもかしこも、熱かった。鼓動が速まり、大暴れする心臓が耳に後ろについている気さえする。どきどき、どきどき。N△S△の過酷な訓練でさえ動じたことのない鋼の神経が、戸惑い、うろたえ、恥ずかしさで消え入りそうになっていた。
「どうして……」
どうして忘れてしまったんだろう。どうして忘れたままでいられたんだろう。自分の瞳を、祖父と同じく「月」と喩えたあのカルロを。今となっては、彼の隣で、平然と星空を見上げていた自分が信じられない。
「カルロ……」
小さくつぶやいただけで、胸がきゅっと締め付けられてブレットはたまらなくなった。なんだ、一体なんなんだこの感覚は。カルロは自分に何をした?
Trrrrrrr!
突然鳴りだした電話の呼び出し音に、笑えるくらいブレットの肩が大きく跳ねた。慌てて内線専用の受話器を取れば、耳に聞こえたのはエーリッヒの声だった。
「お預かりしていた本が直りました。今からでも僕の部屋にどうぞ」
言葉こそ提案の形を取っているが、エーリッヒの声には有無を言わせない気配があった。仕方なく承諾の意を伝えて、ブレットは受話器を戻す。本が直ったことは喜ばしいが、エーリッヒの部屋に行くのは正直言って気が重い。彼の部屋は、つまりシュミットの部屋でもある。
『すべては、お前ひとりの思い上がりだったわけだ』
シュミットは、カルロとブレットの関係を真っ向から否定した。カルロの名前ひとつで動悸が起こる今、彼と顔を合わせるのは苦痛だった。
ブレットを呼び出したのは、どうやらエーリッヒの独断であったらしい。部屋に入るなり、シュミットのヴァイオレッドアイズが丸くなった。
「お前とは口をききたくないが、エーリッヒの顔は立てるべきだと思ってな」
訪問の意図を端的に、かつ嫌味いっぱいに伝えると、シュミットの秀麗な顔がしかめられる。
「私の方こそ、自分の非を認めない愚か者と会話する気はない」
「俺がいつ間違ったって言うんだ」
「まだわからないのか」
案の定、互いに喧嘩腰になる二人の間に、エーリッヒのため息が割って入る。
「二人とも、仲良くしてくださらないと部屋からたたき出しますし、本もお返ししませんよ」
強豪ドイツチームのNo.3を務めるだけあって、エーリッヒは柔和な外見に反して性格はしたたかだ。ブレットもシュミットも、自分より上背のあるエーリッヒの気迫に負けて、互いに口を閉ざしそそくさと席に着いた。
シュミットとブレットが向かい合ったところで、エーリッヒが直ったばかりの天体図鑑をテーブルに置く。ぱっと見にも傷が塞がった本の表紙に、ブレットは感嘆の溜息をこぼした。
「随分と綺麗に、直るものなんだな」
「ユーリが紙や塗料の知識に優れていたおかげです。カメラが趣味と聞きましたが、関係があるんでしょうか」
「Thanks, エーリッヒ。ユーリにも礼を言っておかないとな」
本を膝に乗せ、ブレットは表紙を見回す。無傷、とまではいかないが、糊か何かで再接着された星空は以前の美しさを残していた。数ページにわたって引き裂かれていた表紙の下も、きちんと繋ぎ合わされている。読める状態に戻っているだけで御の字だったブレットとしては、エーリッヒとユーリの確かな仕事ぶりにいくら感謝してもし足りなかった。
再び本を閉じて、ブレットは青い表紙を愛おしげに撫でる。大切なものを取り戻したブレットに、エーリッヒが「おじいさまの形見だとか?」と話を振った。
「ああ」
「カルロはそれを知っているのか」
シュミットの遠慮仮借ない声がカルロの名を紡いで、ブレットの顔が歪む。まるで返しのついた矢じりに痛い所を貫かれた気分だった。抜こうと思っても抜けない矢は、じくじくとした痛みを伝えてくる。
『俺の誕生祝いに母方の祖父が贈ってくれたものだ』
そうだ、ブレットはこの本が宝物であることをカルロに伝えている。全てを承知で、彼はナイフの刃を突き立てた。
それがどうした、だから何だ。シュミットの指摘が正確であればあるほど、ブレットの意固地は毛を逆立てる。カルロが月に喩えた瞳で、ブレットはシュミットを睨め上げた。
「それ以上言うな」
それ以上、カルロを貶めるな。
「だからお前は愚かだと言うんだ」
ブレットの眼光にもびくともしないシュミットは、大仰に両手を振ってブレットを責めて立てる。
「お前はカルロのやったことに動揺して、事象を冷静にとらえられなくなっている。その上、原因をつきとめることも拒んで思考停止。これが愚か者(フール)でなくて何だと言うんだ」
「だったら、お前にはわかるのか」
「わかるものか、私はカルロを知らないからな」
なら余計な口を挟むな。そう続けようとした言葉は、今度はシュミットの眼光によってひっこめさせられる。カルロの悪意に晒されたのも、周囲の無理解に苦しんでいるのもブレットなのに、シュミットの方が何十倍も怒りを抱えているように見える。
「お前は、カルロを知ってるんだろう?」
赤みの強いヴァイオレットアイズで、ブレットを縫いとめたシュミットは言う。その言葉に、ブレットは胸を押された。
「ことカルロに関して、そう言い切れる者は希少だ。なら、この謎を解けるのはお前だけだ」
そう。カルロに、友達はいない。ただひとりを除いては。
揺らいでいた自負が(今は恋心へと変わっているけれど)、シュミットの紡ぐ一音一音に襟を正されていく思いがした。そこでようやく、シュミットが口元にかすかな笑みを浮かべる。
「そのご自慢の頭で推理したらどうだ、シャーロック・ホームズ」
ブレットは唐突に、角砂糖が欲しいと思った。考え事が好きなブレットに、日々酷使される脳には糖分が不可欠だ。低血糖対策に幼いころは家の角砂糖を食べ尽くして、姉に「馬みたいね」とからかわれた記憶さえある。今ここでブレットが角砂糖を食べ始めようものなら、乗馬が趣味なシュミットに何を言われるかわかったものではなかった。
「ミステリーは読まない」
シュミットの誘いに、気の早い脳は先走って考え出そうとする。押し留めるように、ブレットは呟いた。はからずも拗ねたような響きに、シュミットは両肩をすくめる。
「ミステリーどころか、学術書以外は読まんだろう」
「読んでるさ」
「せいぜい荒唐無稽なSFが関の山と言うところだな。一体何が良いのやら」
正解を言い当てられてブレットは臍を噛む。なんとか目の前の男をやりこめたくて、けれどひねり出した答えは退屈なものだった。
「……想像力に、知識はひれ伏すんだ」
「なるほど。お前は知識一辺倒だから、無いものねだりをしているわけだ。カルロにもそうなのか」
それは意外な視点だった。シュミットの問いに、逆にブレットは目を見開いて瞬く。そうなのか? 自分はカルロに無いものねだりをしていただけだったのか?
『何を知ってるとか、持ってるとか、そんなことで俺は友達を選ばない』
なんて偉そうなことを言いながら、友情や好意ではなく、結局は自分には無いものを持つカルロを羨んで、自己投影していただけだったのか。
「無いものねだりのために、俺はステラを突き放したのか?」
「あの少女を手酷くフったのもカルロのためか。たかがバトルレーサーのために、くだらないことをしたものだな」
「言葉が過ぎますよ、シュミット」
これまで聞き役に徹していたエーリッヒが口を挟む。彼はまるで、事件直後のユーリのように、エーリッヒはブレットと、それからカルロの肩を持った。
「今大会が始まってから、カルロは一度もバトルをしかけたり、疑われるようなレースをしていません。精神的にも落ち着いていたように見えました」
「そこだよ、エーリッヒ」
エーリッヒの指摘を見越していたかのように、シュミットは人差し指を立てる。目の前で繰り広げられるドイツ人二人の阿吽の呼吸に、ブレットはただ話を聞いているしかなかった。
「お前の観察が正しいとして、落ち着いていたはずのカルロがここまで豹変した理由は何だ? 日本にいたころですら、人に向けたことのないナイフを振り回した理由は?」
シュミットの問題提起に、ブレットとエーリッヒは黙った。答えられないブレットに、シュミットはやれやれと肩をすくめながらそれ以上の発言を控えている。シュミットはこの間にも、ブレットの頭脳が回転を始めていることに気づいていた。超高速ギアをはめこんだマシンのごとく、ブレットのシナプスとシナプスを渡る神経伝達物質がじわじわとだが確実に速度を上げている。
カルロが豹変した理由。
カルロはどうして俺を攻撃したのか。
「違う……発想が逆だ……」
ブレットのひとりごとにエーリッヒが怪訝な顔をし、シュミットはじっと待っている。ブレットは考え続けた。逆転の発想。探すべきは、カルロがブレットにナイフを向けた理由ではない。カルロをあんな行動に駆り立てたもの、それは何で、誰かと言うことだ。彼の生殺与奪を握っている人物を、ブレットたちは知っている。
ブレットは顔を上げてシュミットを見た。薄いブルーの中にあるきらめきに、シュミットの口角が上がる。同時にブレットの口が開いた。
「ロッソストラーダの、オーナー……!」
ブレットの答えに、エーリッヒは目を見張り、シュミットは頷く。
「順当に考えればそうなる。やはりお前の目は曇っていたのだよ、ブレット。曇らせていたのはカルロだ」
日本大会におけるロッソストラーダの反則行為に、チームオーナーの意向が大きくかかわっていたことはグランプリチームの間では周知の事実だ。大会終了後、運営側も一度は調査に乗り出したものの、ロッソのメンバーは口が堅く、決定的な証拠を得られないまま全てはうやむやにされた。
「ロッソのオーナーは、あいつに何を」
「そこまでは憶測のしようもない。情報がなさすぎる。だがカルロのナイフがお前に向けられた以上、お前自身が無関係ではいられないだろうな」
かの人物の意図について、情報を持っているとすれば実行犯のカルロだけだ。
カルロ……!
もうブレットはじっとしていられなかった。天体図鑑を片手にシュミットたちの部屋を飛び出す。エーリッヒに引き留めさせもしない即断即決に、ブレットが後に残された二人のやりとりを知ることはなかった。
「行かせていいんですか。間違いなくカルロのところですよ」
一週間前と同じ轍を踏むかもしれないと、危ぶむエーリッヒにシュミットは首を振った。
「忠告は腐るほどしたさ。聞かないバカの面倒まで見きれない。二度同じミスをするなら、今度こそ奴とは絶交だ」
エーリッヒは、ブレットが走り去ったドアを見つめ、小さく息をつく。それから、今では空っぽになってしまったイスに視線を流した。
この部屋に入ってきた、ブレットの目にはまだ迷いがあった。けれど、イスから立ち上がった彼からは、瞳を覆う霧は吹き飛んでいる。カルロに傷つけられ、まともな思考もままならなかった彼はどこにもいない。断固とした意志を取り戻した彼が向かった先を思い、エーリッヒは呟く。
「嫌われ者と言うのは、孤独で礼儀を知らないだけと聞きます。カルロもそうでしょうか」
ふり返るエーリッヒに、シュミットは鼻を鳴らす。
「聞く相手を間違っているぞ、エーリッヒ」
そう、シュミットは正しい。おそらく、その答えを持っているのはブレットだ。
エーリッヒとて、日本での大会ではシュミットより長くカルロやブレットと関わっていた。そのエーリッヒの目に、カルロはまるで糸の切れたカイトのように映る。悪い風が吹けば悪に、善き風が吹けば善に、カルロの心はたやすく流されてしまう。自ら道を切り開いているように見えて、その実、周囲を吹く風に身を任せるがままなのは、過酷な生い立ちゆえなのかもしれない。生きることばかりに必死過ぎて、カルロは自己を持てなかった。
日本での戦いを終えたカルロは、善き方に流れかけていた。彼に吹いた風は、星馬兄弟やミハエルといったグランプリレーサーたちの誇り高き想いだろう。そのカルロを、またしても悪しき風が連れ去ろうとしている。このあたりで、誰かが彼の切れてしまった糸を掴んでやらなければ、カルロは二度と戻れない暗い沖まで流されかねなかった。
「ブレットなら、できるでしょうか」
カルロの糸を掴める人間がいるとしたら、それは自分の足場を決して見失わない者だけだろう。エーリッヒの知る限り、グランプリレーサーの中でそこまで確固とした自己を持っている人間の筆頭はブレットだ。ブレットには夢がある。宇宙飛行士。教師に命じられて作文に書くそれとは違う、もっと現実的な将来だ。そこにたどり着くための才覚も、自分の限界も欠点も、ブレットは正確に理解し、一歩一歩小さな大人として夢への道を歩んでいる。
「彼なら、カルロを孤独から救えるでしょうか」
明るい世界へ。人の輪の中へ。悪い風に流されるばかりのカルロを、日の当たる場所に引っ張り上げられる可能性がまだ残っているとエーリッヒは信じたい。
「私は、カルロがどうなろうと何の興味もない。相容れない世界の人間だからな」
「そう言うわりには、随分とけしかけていたように見受けましたが」
「心外だな」
百歩譲って、カルロに関心がないのが真実だとしても、ブレットを思いやる気持ちがシュミットを突き動かしていたのは事実だろう。わざとカルロを否定し、二人がひそかに育んでいた関係を一笑に付し、シュミットは心を鬼にしてブレットの本気を試していたに違いないのだ。
「優しいんですね」
「おい、エーリッヒ。さっきから何の話かさっぱりだぞ」
嘯くシュミットに向けてエーリッヒは微笑を濃くする。どうか、善き風の吹く岸辺にカルロがたどり着けますように。親友のお節介が功を奏せばいい、ブレットの手がカルロに届けばいいとエーリッヒは願った。
天才は無知であるという前提
(俺は、お前をわかりたい)
+++++++++++++
話の展開に困ると夢に頼るのを私はそろそろやめたほうが良いと思うの。
現代版英国探偵へのオマージュがちょこっとだけ。ちょっとしたお遊びと思って大目に見てくださるとうれしい。
そしてシュミットのキャラはこれでいいのか……(コレジャナイ感が胸に迫る)
後編に続く。
2015/07/27 サイト初出。
2015/07/27(月)
レツゴ:ステラ事件(カルブレ)【完結】
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