「彩過（＋ユーリ）」
※ブレット29歳、カルロ28歳？（カルブレ結婚前、ただしカルロはMotoGPなう）
※カルロ出てきません
※超短編
※タイトルは「21」さまより。
ブレットからの三件目のメールを読み終えて、珍しいこともあるものだなとユーリは思った。
彩過
ユーリの知る限り、ブレットはかなりの段取り魔だ。何をするにしてもまず情報を入手し、比較検討した上で計画立案する。今回もイタリアはドロミテ山群のトレッキングに、バディ（相棒）であるユーリと落ちあう店を決めたのもブレットだった。ユーリは知らない名前のカフェは、十中八九フランチャイズチェーンではない。マルペンサ空港近郊で、登山プランを話し合あうのに適した店なのは間違いないだろう。その店の変更を、待ち合わせ時間の間際になってブレットが連絡してきた。
周到なブレットは、いかなる不測事態にも対応できるよう善後策を用意している。そのためプランBへの切り替え自体、ユーリは特段不思議とは思わなかった。臨機応変な司令官（コマンダー）からの指示は、おそらく的を射ているだろうから。世界中で人気者な彼のことだ、ユーリより一足先についた店でファンに囲まれそうになったのかもしれないと気楽に考えていた。何せここはイタリア第二の都市ミラノ。彼を知る人も多いだろう。
ミラノと聞いて、ユーリが真っ先に思い浮かべるのはカルロのことだ。カルロとブレットが、いわゆる「連れ合い」と呼ばれる仲であることをユーリは知っている。
その連れ合いが近郊に住む山に挑もうというのに、バディが自分で良いのか。
今回のトレッキング計画を持ち掛けられた際、ユーリはブレットにそうお伺いを立てた。だが当のブレットはそんな気遣いは無用と、理知的な顔を顰めていた。
「あいつは山に登らない」
「カルロはスポーツ万能だろ。トレッキングは嫌いなのかい？」
「トレッキングどころかアウトドア全般が嫌いなんだ。いわゆるヒキコモリさ」
「君たち、それでよく付き合ってられるな」
「ユーリ。お前までエッジやシュミットと同じことを言うのか……」
そうは言われても、ブレットと近しい人間なら誰しも同じことを考える。そのくらいブレットは活動的な男だった。常に動き、常に考え、彼がじっとしているのは寝ているときだけ。宿で陽気にしゃべっていたのに、少し会話が途切れた隙に寝てしまわれたなんてこともしょっちゅうある。休日には用事がなければ家から一歩も出ないというカルロとはまるで逆だ。
カルロが外出嫌いというのは意外だが、そんな彼とブレットがうまく関係をやりくりしていることがユーリには興味深い。人と人との関わり、愛情とは不思議で偉大なものだと思わずにいられない。しみじみとしながらユーリがプランBの店に向かおうとした矢先、再びブレットからのメールが届く。今度はプランBの店を変更したいという旨に、新しい店のアドレスが添えられていた。
さらに10分後、その店すらキャンセルされ、別の店へ行けと指示が入る。短時間に三度のプラン変更というのは、彼にしては珍しい。というよりブレットとレジャーを共にするようになって、これほど行き当たりばったりな彼に触れるのは初めてのような気がした。
メールの文面も焦っているのか、簡潔過ぎて誤字も目立つ。一体どんな事態が起これば、優秀な宇宙飛行士であるブレットをここまで追いつめる結果になるのか。いささか心配になりながら、ユーリはプランDの店へ向かう足を速めた。
そうしてようやく落ち着いた4軒目のカフェで、事情を聞かされたユーリは大口を開けて笑った。
「……ユーリ」
カフェのテーブルに突っ伏した、ブレットから恨めし気な視線を送られる。失礼、と口を覆って、それでも緩む口と目元をユーリは懸命に叱咤した。
「すまない。まさかそんな可愛い事情だとは思わなくて」
「どこが可愛いって言うんだ」
「恋人の噂話に落ち着かなくなって、店を4軒もさすらったなんて可愛さそのものじゃないか」
折しもブレットとユーリがミラノ入りした今日は、とあるモータースポーツ雑誌の発売日だった。本誌には今年MotoGPに昇格したばかりながら、怒涛の連勝を重ねているカルロの特集記事が組まれている。
「開幕から待ったなしの8連勝、すごいじゃないか。次のザクセンとインディアナポリスはカルロと相性の良いコースだから、10連勝の期待も高まっているな」
ユーリはまだ記事に目を通していないが、昔取った杵柄でこの程度の分析はできる。だがユーリの真っ当な評価に、ブレットは天佑を得たかのように顔を輝かせた。
「ああ、ユーリ。世の女性ロードレースファンが、お前ほどの見識を持っていてくれれば俺も心安らかでいられるのに」
「そういう言い方は反感を招くぞ。君らしくない」
ブレットが口にした「世の女性ロードレースファン」こそが、彼の動揺の原因だった。
プランAの店に、ブレットは仕事とフライトの都合でユーリより一時間ほど早く着いた。余暇に備えて仕事も雑事も完璧に片づけていたブレットは、ユーリが姿を現すまでタブレットのクロスワードパズルで暇をつぶすがそれがいけなかった。さほど集中力を要しない問題を解いている折、ふと顔を上げたブレットは、隣のテーブルに例の雑誌が広げられていることに気づいてしまった。
見開き半ページに、カルロの顔がアップのフルカラーで載っているそれは、空港の売店でブレットも買い求め中身を確認しているから間違えようがない。表彰台で相変わらず、満面の笑みは見せていないがうっすらと口角を上げている彼の写真を、二人の女性客が頬を寄せ合うようにして見入っていた。彼女たちがカルロのファンであることは一目瞭然、相変わらず女性ウケが良いなと恋人の顔の良さを認めながら、何とはなしに彼女たちの会話に聞き耳を立ててしまったのがブレットが本日犯した二度目のミステイクだ。
「お前があの場にいてくれればな。女性ファンがいかに夢見がちな生き物がよくわかったろうに」
彼女たちはとにかくカルロを、優しくて知的で、けれど少し強引なところもある理想的な男性として見ていた。一度で良いから話しかけられてみたい、街で偶然出くわしてエスコートしてもらえたら死んでもいい、と無邪気に盛り上がっていた。
わかっている。彼女たちに罪はない。お花畑のような想像でも、彼女たちの楽しみに口を挟む権利などブレットは全く持っていない。だがしかし、現実のカルロを知るブレットは、彼女たちが作り上げた偶像のカルロにツッコミを入れずにはいられないのだ。
事実カルロは、粗野な言動に反して優しく繊細なところがある。頭の回転も速く、時にブレットの先回りをし、時に反則すれすれの手段で言うことをきかせようとすることもある。彼女たちの理想は決してカルロと対立しない。
とはいえ、そういうカルロの魅力的な側面のほとんどはブレット限定で発揮されるものであって、部外者、とりわけ女性に対してカルロは非常に厳しい。容姿を褒めるどころか、女性相手に紳士にエスコートするなど天地がひっくり返ってもありえなかった。ファンならカルロのゲイ兼ミソジニー疑惑を知っているだろうに、それでも夢を見たいのが女心と言う奴だろうか。
「彼女たちの想像話を聞いているとな、そのうち俺が殺されそうな気がしていたたまれなくなるんだ」
「それで、尻尾を巻いて店から逃げ出したというわけか。やっぱり可愛いじゃないか」
運の悪いことに、プランBの店でも似たような事態が発生した。しかも今度は女性客三人が相手だ。女という漢字を三つ並べると「うるさい」という意味の別の漢字が生まれるという。その漢字の生みの親が中国人だか日本人だかは知らないが、言いえて妙だ。自分が標的にされているわけでもないのに、女性たちの勢いにたじたじになってしまったブレットは二度目の逃亡を図る。
「姉貴たちのおかげで、女性のアレコレには耐性がある方だと思ってたんだが……」
我ながら情けない、とブレットはユーリの前でテーブルに額を付ける。そんなこんなで、3軒目の店は雑誌を持った客を見つけた時点でまわれ右をして、ようやく探し当てたこのカフェで腰を落ち着けられたというわけだった。
「この店の寂れ具合が天国の門に見えた」
ブレットの何とも言えないコメントに、ユーリは店を見回す。なるほど、寂れた路地裏に看板の立つ、スイーツメニューひとつない喫煙可のカフェなら女性客はまず訪れまい。
目の前で俯せている友人に視線を戻したユーリは、何をそこまで落ち込むんだかと彼を励まそうとした。
「君がカルロのステディだってバレたわけじゃないんだし、気にしなければいい。ファンの妄想も有名人にはよくあることじゃないか。有名税ってやつだよ」
当のカルロとて、外面とブレットに向ける顔を使い分けているはずだ。むしろブレットだけが知るカルロの姿でも思い出して、優越感にでも浸っていればいい。そう諭すユーリに対して、意外にも額を上げたブレットは深刻顔だ。
「それとも、彼女たちの毒気にあてられた以外の理由があるのかい」
男同士というだけで、未だ偏見は根強い。おまけにブレットは10代のころから衆目を集めてきた。カルロも知名度なら、近頃はブレットと肩を並べつつある。ユーリの知らない、想像もつかない気苦労はあって当然だ。
頬杖をついたブレットが、視線をテーブルの下に落しながら口を開く。
「あいつが、カルロが、大勢の人に愛されるのは良い。とても良いことだ。だが想像だけのあいつが独り歩きして、あいつの生活を脅かすなら問題だろう」
これではピカロがヒーローになっただけでWGP時代と変わらない、とブレットは遠くを見る。周囲に貼られたレッテルにがんじがらめにされて、自分の本当の姿さえ見えずにいたカルロを知るだけ、ブレットの憂いは根が深かった。
バイクではなく、ミニ四駆を走らせていたころのカルロ。
カナリアイエローとサフラン色のユニフォームに身を包んだ、一級のピカロだったカルロ。
良くも悪くも、今も昔も、カルロはその容姿と生き方で周囲の関心を惹き寄せる。
「それは、君についても言えることなんじゃないか」
「俺？」
「宇宙飛行士ブレット・アスティアも、世界中の人に愛されて、偶像視されてる。実はカルロも同じように気をもんでるかもしれないぞ」
「ない。ないない、それは絶対にないぞ」
「嫌に断言するんだな」
「断言できるさ。なぜならあいつは俺のニュースを見ない。特集記事を見せてやろうとしても押しのける奴だぜ」
カルロについても自分ばかりが心配しているようで気に入らない、とブレットは憤る。カルロとのことになると、途端に感情豊かになる友人の姿にユーリは目を眇めた。
「それこそ、逆に気にしてる証拠さ。公人としての君の姿をなるべくなら見たくないんだ。カルロの知ってる君と違うから。ほらな、4軒のカフェをはしごした君とそっくり」
ユーリの説明に、ブレットは顔を顰めたまま固まる。釈然としなかったはずの表情が、徐々にこわばりを解き、だんだんと赤みを帯びていくのがおもしろかった。薄灰色の瞳が、あかさまに左右にさまよい出す。
「だ、だったら……、俺たちはどうしたらいいんだ」
ブレットはカルロのファン（とりわけ女性ファン）と関わりたくない。カルロは公人として世間に取り上げられるブレットを見たくない。そんなわがままは、誠実さに欠くのではないかと悩むブレットは生真面目で、生来の彼の善き性質が如実に表れていた。
「俺は、何もしなくて良いと思う。大事なのは人目じゃない。君たち自身が互いをどう見ているかだろ」
結婚式で牧師や神父が述べる誓いの口上ではないけれど、彼らがロードレーサーであろうと宇宙飛行士であろうと、また、パートナーの愛を求めるただのひとりの男であろうと、二人が互いを敬い、慰め、助け、変わることなく愛し続けられるかどうか。この二人に限っては、問題はその一点だけのようにユーリには思える。
「う……あ……、うん、そうか……」
「そうだ、君に良いものをやろう」
ユーリは耳まで顔を火照らせたブレットを尻目に、荷物を紐解く。はじめはメールで送ろうかと考え、けれどブレットの反応をじかに見たくて今日までとっておいたそれは、L判の写真だった。
「昔の写真を整理していて、見つけた」
「WGP……日本とアメリカのやつか。懐かしいな」
カメラが趣味のユーリは、日本大会やアメリカ大会でも父のお古のカメラを構えては山ほどの写真を撮った。常に押し気味だった大会のスケジュールに、整理を諦めていた写真が今頃になって大量に発見されたのだ。
「君と、あとアストロレンジャーズが写っている。それから、君に見せたいとっておきはこっち」
初めに取り出した束とは別に、ユーリは白い封筒をテーブルの上に滑らせる。ブレットの手に渡った中身は、掘り出し物の1枚だった。案の定、封を開いたブレットの目が丸くなる。
「カルロ……」
それは決して、意識して撮った1枚ではなかった。ピントもぶれているし、絞りも甘い。何よりも構図がなっていない。けれど、写真の右寄りに写る銀髪の少年の表情に目が奪われる1枚だった。
「笑ってる。とても、良い表情だ」
穏やかに微笑むカルロなんて、狙ったって撮れない。特にあのころは、カルロが見せる笑みと言えば、挑発的なそれか、シニカルに他人を嘲笑うくらいのものだった。当時の彼にとって、笑みは威嚇であり、敵意を表明するために口元を飾るものだ。だが、ユーリの撮り損なった、出来の悪い1枚が捉えたものに凄む気配は見えない。
彼自身覚えがないのだろう、呆けたようなブレットにユーリは写真のある場所を指さした。
「アストロレンジャーズのユニフォームが写ってる」
カルロの前景に少しだけ映る誰かの肩と腕。ピンボケはカルロよりひどいけれど、生成り色のジャケットと青いタイトなアンダーウェアの特徴は見て取れた。着ている人物は写真では判別できない。しかし、体格から言ってカルロとあまり背丈の変わらない同性だ。性別が違うジョー、大柄なハマーD、小柄なミラーは除外される。
残された選択肢は二人。だがユーリには確信があった。
「君だ」
エッジではない。エッジでは、あの頃のカルロの傍らには立てない。エッジでは、カルロのこの表情は引き出せない。
「カルロは、君に笑いかけてる」
今のカルロも、こんな風に君に笑っているかい？ ユーリは口には出さず問う。答えがYesなら、それでもう十分じゃないかとも。周りがどう見ようと、どう語ろうと、本物はここにある。カルロのけれんみのない微笑みには、それだけの価値があった。
頷くことも忘れ、写真に見入るブレットの瞳が輝いている。銀色にもごく薄い水色にも光を放つそれを、ユーリは美しいと思った。この眼差しもカルロだけが知る特別なブレットのひとつだろうか。彼はいつから、この輝きの虜になっていたのだろうか。
おそらく、この写真に写された頃にはもう。
17年近く前のカルロの微笑みも、それに向けられるブレットの星をちりばめたような視線も、恋人たちの秘密を覗き見たようでユーリは後ろめたい。ブレットはさておき、カルロに知れたら恨まれそうだ。
そんなユーリの内心を知らず、ようやく陶酔から覚めたブレットは、打って変わって切羽詰まった顔つきで口を開いた。
「ユーリ、これ、データないのか」
「そう言うと思って、USBに入れてきたよ」
友よ！と叫んで手を握り締めてくるブレットを前に、今度こそユーリは、こんな場面をカルロに見られたらまずいなと苦笑いした。
彩過
（何よりも、鮮やかなのは）
＋＋＋＋＋＋＋＋＋＋
ユーリはブレットの登山趣味限定のバディです。時々シュミットも加わります（だってほら、ドイツ人登山趣味なひと多いからね）
ユーリは将来なにしてるのかなあ……
2015/10/17 サイト初出
※カルロ出てきません
※超短編
※タイトルは「21」さまより。
ブレットからの三件目のメールを読み終えて、珍しいこともあるものだなとユーリは思った。
彩過
ユーリの知る限り、ブレットはかなりの段取り魔だ。何をするにしてもまず情報を入手し、比較検討した上で計画立案する。今回もイタリアはドロミテ山群のトレッキングに、バディ（相棒）であるユーリと落ちあう店を決めたのもブレットだった。ユーリは知らない名前のカフェは、十中八九フランチャイズチェーンではない。マルペンサ空港近郊で、登山プランを話し合あうのに適した店なのは間違いないだろう。その店の変更を、待ち合わせ時間の間際になってブレットが連絡してきた。
周到なブレットは、いかなる不測事態にも対応できるよう善後策を用意している。そのためプランBへの切り替え自体、ユーリは特段不思議とは思わなかった。臨機応変な司令官（コマンダー）からの指示は、おそらく的を射ているだろうから。世界中で人気者な彼のことだ、ユーリより一足先についた店でファンに囲まれそうになったのかもしれないと気楽に考えていた。何せここはイタリア第二の都市ミラノ。彼を知る人も多いだろう。
ミラノと聞いて、ユーリが真っ先に思い浮かべるのはカルロのことだ。カルロとブレットが、いわゆる「連れ合い」と呼ばれる仲であることをユーリは知っている。
その連れ合いが近郊に住む山に挑もうというのに、バディが自分で良いのか。
今回のトレッキング計画を持ち掛けられた際、ユーリはブレットにそうお伺いを立てた。だが当のブレットはそんな気遣いは無用と、理知的な顔を顰めていた。
「あいつは山に登らない」
「カルロはスポーツ万能だろ。トレッキングは嫌いなのかい？」
「トレッキングどころかアウトドア全般が嫌いなんだ。いわゆるヒキコモリさ」
「君たち、それでよく付き合ってられるな」
「ユーリ。お前までエッジやシュミットと同じことを言うのか……」
そうは言われても、ブレットと近しい人間なら誰しも同じことを考える。そのくらいブレットは活動的な男だった。常に動き、常に考え、彼がじっとしているのは寝ているときだけ。宿で陽気にしゃべっていたのに、少し会話が途切れた隙に寝てしまわれたなんてこともしょっちゅうある。休日には用事がなければ家から一歩も出ないというカルロとはまるで逆だ。
カルロが外出嫌いというのは意外だが、そんな彼とブレットがうまく関係をやりくりしていることがユーリには興味深い。人と人との関わり、愛情とは不思議で偉大なものだと思わずにいられない。しみじみとしながらユーリがプランBの店に向かおうとした矢先、再びブレットからのメールが届く。今度はプランBの店を変更したいという旨に、新しい店のアドレスが添えられていた。
さらに10分後、その店すらキャンセルされ、別の店へ行けと指示が入る。短時間に三度のプラン変更というのは、彼にしては珍しい。というよりブレットとレジャーを共にするようになって、これほど行き当たりばったりな彼に触れるのは初めてのような気がした。
メールの文面も焦っているのか、簡潔過ぎて誤字も目立つ。一体どんな事態が起これば、優秀な宇宙飛行士であるブレットをここまで追いつめる結果になるのか。いささか心配になりながら、ユーリはプランDの店へ向かう足を速めた。
そうしてようやく落ち着いた4軒目のカフェで、事情を聞かされたユーリは大口を開けて笑った。
「……ユーリ」
カフェのテーブルに突っ伏した、ブレットから恨めし気な視線を送られる。失礼、と口を覆って、それでも緩む口と目元をユーリは懸命に叱咤した。
「すまない。まさかそんな可愛い事情だとは思わなくて」
「どこが可愛いって言うんだ」
「恋人の噂話に落ち着かなくなって、店を4軒もさすらったなんて可愛さそのものじゃないか」
折しもブレットとユーリがミラノ入りした今日は、とあるモータースポーツ雑誌の発売日だった。本誌には今年MotoGPに昇格したばかりながら、怒涛の連勝を重ねているカルロの特集記事が組まれている。
「開幕から待ったなしの8連勝、すごいじゃないか。次のザクセンとインディアナポリスはカルロと相性の良いコースだから、10連勝の期待も高まっているな」
ユーリはまだ記事に目を通していないが、昔取った杵柄でこの程度の分析はできる。だがユーリの真っ当な評価に、ブレットは天佑を得たかのように顔を輝かせた。
「ああ、ユーリ。世の女性ロードレースファンが、お前ほどの見識を持っていてくれれば俺も心安らかでいられるのに」
「そういう言い方は反感を招くぞ。君らしくない」
ブレットが口にした「世の女性ロードレースファン」こそが、彼の動揺の原因だった。
プランAの店に、ブレットは仕事とフライトの都合でユーリより一時間ほど早く着いた。余暇に備えて仕事も雑事も完璧に片づけていたブレットは、ユーリが姿を現すまでタブレットのクロスワードパズルで暇をつぶすがそれがいけなかった。さほど集中力を要しない問題を解いている折、ふと顔を上げたブレットは、隣のテーブルに例の雑誌が広げられていることに気づいてしまった。
見開き半ページに、カルロの顔がアップのフルカラーで載っているそれは、空港の売店でブレットも買い求め中身を確認しているから間違えようがない。表彰台で相変わらず、満面の笑みは見せていないがうっすらと口角を上げている彼の写真を、二人の女性客が頬を寄せ合うようにして見入っていた。彼女たちがカルロのファンであることは一目瞭然、相変わらず女性ウケが良いなと恋人の顔の良さを認めながら、何とはなしに彼女たちの会話に聞き耳を立ててしまったのがブレットが本日犯した二度目のミステイクだ。
「お前があの場にいてくれればな。女性ファンがいかに夢見がちな生き物がよくわかったろうに」
彼女たちはとにかくカルロを、優しくて知的で、けれど少し強引なところもある理想的な男性として見ていた。一度で良いから話しかけられてみたい、街で偶然出くわしてエスコートしてもらえたら死んでもいい、と無邪気に盛り上がっていた。
わかっている。彼女たちに罪はない。お花畑のような想像でも、彼女たちの楽しみに口を挟む権利などブレットは全く持っていない。だがしかし、現実のカルロを知るブレットは、彼女たちが作り上げた偶像のカルロにツッコミを入れずにはいられないのだ。
事実カルロは、粗野な言動に反して優しく繊細なところがある。頭の回転も速く、時にブレットの先回りをし、時に反則すれすれの手段で言うことをきかせようとすることもある。彼女たちの理想は決してカルロと対立しない。
とはいえ、そういうカルロの魅力的な側面のほとんどはブレット限定で発揮されるものであって、部外者、とりわけ女性に対してカルロは非常に厳しい。容姿を褒めるどころか、女性相手に紳士にエスコートするなど天地がひっくり返ってもありえなかった。ファンならカルロのゲイ兼ミソジニー疑惑を知っているだろうに、それでも夢を見たいのが女心と言う奴だろうか。
「彼女たちの想像話を聞いているとな、そのうち俺が殺されそうな気がしていたたまれなくなるんだ」
「それで、尻尾を巻いて店から逃げ出したというわけか。やっぱり可愛いじゃないか」
運の悪いことに、プランBの店でも似たような事態が発生した。しかも今度は女性客三人が相手だ。女という漢字を三つ並べると「うるさい」という意味の別の漢字が生まれるという。その漢字の生みの親が中国人だか日本人だかは知らないが、言いえて妙だ。自分が標的にされているわけでもないのに、女性たちの勢いにたじたじになってしまったブレットは二度目の逃亡を図る。
「姉貴たちのおかげで、女性のアレコレには耐性がある方だと思ってたんだが……」
我ながら情けない、とブレットはユーリの前でテーブルに額を付ける。そんなこんなで、3軒目の店は雑誌を持った客を見つけた時点でまわれ右をして、ようやく探し当てたこのカフェで腰を落ち着けられたというわけだった。
「この店の寂れ具合が天国の門に見えた」
ブレットの何とも言えないコメントに、ユーリは店を見回す。なるほど、寂れた路地裏に看板の立つ、スイーツメニューひとつない喫煙可のカフェなら女性客はまず訪れまい。
目の前で俯せている友人に視線を戻したユーリは、何をそこまで落ち込むんだかと彼を励まそうとした。
「君がカルロのステディだってバレたわけじゃないんだし、気にしなければいい。ファンの妄想も有名人にはよくあることじゃないか。有名税ってやつだよ」
当のカルロとて、外面とブレットに向ける顔を使い分けているはずだ。むしろブレットだけが知るカルロの姿でも思い出して、優越感にでも浸っていればいい。そう諭すユーリに対して、意外にも額を上げたブレットは深刻顔だ。
「それとも、彼女たちの毒気にあてられた以外の理由があるのかい」
男同士というだけで、未だ偏見は根強い。おまけにブレットは10代のころから衆目を集めてきた。カルロも知名度なら、近頃はブレットと肩を並べつつある。ユーリの知らない、想像もつかない気苦労はあって当然だ。
頬杖をついたブレットが、視線をテーブルの下に落しながら口を開く。
「あいつが、カルロが、大勢の人に愛されるのは良い。とても良いことだ。だが想像だけのあいつが独り歩きして、あいつの生活を脅かすなら問題だろう」
これではピカロがヒーローになっただけでWGP時代と変わらない、とブレットは遠くを見る。周囲に貼られたレッテルにがんじがらめにされて、自分の本当の姿さえ見えずにいたカルロを知るだけ、ブレットの憂いは根が深かった。
バイクではなく、ミニ四駆を走らせていたころのカルロ。
カナリアイエローとサフラン色のユニフォームに身を包んだ、一級のピカロだったカルロ。
良くも悪くも、今も昔も、カルロはその容姿と生き方で周囲の関心を惹き寄せる。
「それは、君についても言えることなんじゃないか」
「俺？」
「宇宙飛行士ブレット・アスティアも、世界中の人に愛されて、偶像視されてる。実はカルロも同じように気をもんでるかもしれないぞ」
「ない。ないない、それは絶対にないぞ」
「嫌に断言するんだな」
「断言できるさ。なぜならあいつは俺のニュースを見ない。特集記事を見せてやろうとしても押しのける奴だぜ」
カルロについても自分ばかりが心配しているようで気に入らない、とブレットは憤る。カルロとのことになると、途端に感情豊かになる友人の姿にユーリは目を眇めた。
「それこそ、逆に気にしてる証拠さ。公人としての君の姿をなるべくなら見たくないんだ。カルロの知ってる君と違うから。ほらな、4軒のカフェをはしごした君とそっくり」
ユーリの説明に、ブレットは顔を顰めたまま固まる。釈然としなかったはずの表情が、徐々にこわばりを解き、だんだんと赤みを帯びていくのがおもしろかった。薄灰色の瞳が、あかさまに左右にさまよい出す。
「だ、だったら……、俺たちはどうしたらいいんだ」
ブレットはカルロのファン（とりわけ女性ファン）と関わりたくない。カルロは公人として世間に取り上げられるブレットを見たくない。そんなわがままは、誠実さに欠くのではないかと悩むブレットは生真面目で、生来の彼の善き性質が如実に表れていた。
「俺は、何もしなくて良いと思う。大事なのは人目じゃない。君たち自身が互いをどう見ているかだろ」
結婚式で牧師や神父が述べる誓いの口上ではないけれど、彼らがロードレーサーであろうと宇宙飛行士であろうと、また、パートナーの愛を求めるただのひとりの男であろうと、二人が互いを敬い、慰め、助け、変わることなく愛し続けられるかどうか。この二人に限っては、問題はその一点だけのようにユーリには思える。
「う……あ……、うん、そうか……」
「そうだ、君に良いものをやろう」
ユーリは耳まで顔を火照らせたブレットを尻目に、荷物を紐解く。はじめはメールで送ろうかと考え、けれどブレットの反応をじかに見たくて今日までとっておいたそれは、L判の写真だった。
「昔の写真を整理していて、見つけた」
「WGP……日本とアメリカのやつか。懐かしいな」
カメラが趣味のユーリは、日本大会やアメリカ大会でも父のお古のカメラを構えては山ほどの写真を撮った。常に押し気味だった大会のスケジュールに、整理を諦めていた写真が今頃になって大量に発見されたのだ。
「君と、あとアストロレンジャーズが写っている。それから、君に見せたいとっておきはこっち」
初めに取り出した束とは別に、ユーリは白い封筒をテーブルの上に滑らせる。ブレットの手に渡った中身は、掘り出し物の1枚だった。案の定、封を開いたブレットの目が丸くなる。
「カルロ……」
それは決して、意識して撮った1枚ではなかった。ピントもぶれているし、絞りも甘い。何よりも構図がなっていない。けれど、写真の右寄りに写る銀髪の少年の表情に目が奪われる1枚だった。
「笑ってる。とても、良い表情だ」
穏やかに微笑むカルロなんて、狙ったって撮れない。特にあのころは、カルロが見せる笑みと言えば、挑発的なそれか、シニカルに他人を嘲笑うくらいのものだった。当時の彼にとって、笑みは威嚇であり、敵意を表明するために口元を飾るものだ。だが、ユーリの撮り損なった、出来の悪い1枚が捉えたものに凄む気配は見えない。
彼自身覚えがないのだろう、呆けたようなブレットにユーリは写真のある場所を指さした。
「アストロレンジャーズのユニフォームが写ってる」
カルロの前景に少しだけ映る誰かの肩と腕。ピンボケはカルロよりひどいけれど、生成り色のジャケットと青いタイトなアンダーウェアの特徴は見て取れた。着ている人物は写真では判別できない。しかし、体格から言ってカルロとあまり背丈の変わらない同性だ。性別が違うジョー、大柄なハマーD、小柄なミラーは除外される。
残された選択肢は二人。だがユーリには確信があった。
「君だ」
エッジではない。エッジでは、あの頃のカルロの傍らには立てない。エッジでは、カルロのこの表情は引き出せない。
「カルロは、君に笑いかけてる」
今のカルロも、こんな風に君に笑っているかい？ ユーリは口には出さず問う。答えがYesなら、それでもう十分じゃないかとも。周りがどう見ようと、どう語ろうと、本物はここにある。カルロのけれんみのない微笑みには、それだけの価値があった。
頷くことも忘れ、写真に見入るブレットの瞳が輝いている。銀色にもごく薄い水色にも光を放つそれを、ユーリは美しいと思った。この眼差しもカルロだけが知る特別なブレットのひとつだろうか。彼はいつから、この輝きの虜になっていたのだろうか。
おそらく、この写真に写された頃にはもう。
17年近く前のカルロの微笑みも、それに向けられるブレットの星をちりばめたような視線も、恋人たちの秘密を覗き見たようでユーリは後ろめたい。ブレットはさておき、カルロに知れたら恨まれそうだ。
そんなユーリの内心を知らず、ようやく陶酔から覚めたブレットは、打って変わって切羽詰まった顔つきで口を開いた。
「ユーリ、これ、データないのか」
「そう言うと思って、USBに入れてきたよ」
友よ！と叫んで手を握り締めてくるブレットを前に、今度こそユーリは、こんな場面をカルロに見られたらまずいなと苦笑いした。
彩過
（何よりも、鮮やかなのは）
＋＋＋＋＋＋＋＋＋＋
ユーリはブレットの登山趣味限定のバディです。時々シュミットも加わります（だってほら、ドイツ人登山趣味なひと多いからね）
ユーリは将来なにしてるのかなあ……
2015/10/17 サイト初出
2015/10/17(土)
レツゴ：チョコレートナイフ（カルブレ）
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