蟻の王 坂水×亜久里四郎
title by 21



あるいは、予定調和。



 手を床について、尻を浮かせる。かるく背中をかたむけて首をのばせば、坂水の唇は四郎のそれにたやすくとどいた。自然公園のボットン便所で成敗したばかりの、盗撮魔のせまいテントに二人きり。坂水が埋めたのは、向かいあって座っていたわずかな距離だった。
「……殴らない、んですか」
 やわく押しつけるように触れただけで、すぐに離した口でたずねる。四郎の切れあがったまなじりが、すこし膨らんでいる。この顔は、ちょっと驚いてる顔だ。怒っていない。坂水はそう思った。
「ホモか、お前」
 四郎の開口一番はシンプルなものだった。彼の奇天烈な言動に慣れてきたところの坂水は、当然の反応がかえって四郎らしくなくておかしい。くすり、と坂水の口角があがった。
「フツーに、ボクは女の子が好きですよ」
 ミハルは天使みたいにかわいい子だと思うし、過去にはつきあった相手くらいいた。
「……すぐフラれちゃったけど」
 自分でえぐった古傷に、浮べた笑みが苦笑いに変わる。
「ならなんのマネだ」
 事と次第によっては……、いや、どんな答えでも殴られるオチは変わらない。抗弁の機会と執行猶予がついているのが奇跡なくらいだ。そうわかっているから、坂水はてらいない言葉を選んだ。
「亜久里さんがそばにいて、亜久里さんの香りがしたから。好きだって言ったじゃないスか」

『ボク、好きですよコレ。亜久里さんの香り』

 根古が現れる間際に、告げたことに嘘は無かった。汗のニオイの混じる、四郎の体臭は一度知るとクセになる。
「だから、キスしたくなって……」
「やっぱホモじゃねぇか」
「そう思いたければそれでいいスよ」
 とにかく、四郎にキスがしたかった。その衝動を再現するために、坂水はまた四郎に近づく。寄せた顔はさけられることも殴られることもなく、もう一度、四郎の唇にふれることができた。
 二度目のキスは、最初のものよりも時間をかける。色づいたうすい皮膚で行われるこの行為が、勘ちがいでも、気の迷いでもないと思い知らせるように、坂水は四郎の上を這う。想像していたより、ずっとやわらかい四郎の唇は、坂水のそれと重なるとふにゃりとつぶれてかわいらしい。県下最凶の名をほしいままにする男のものにしては、初々しいその部分を坂水ははんだ。それからかるく引っぱって、胸に広がるこのなごり惜しさがわずかでも四郎に伝わればいいと願いながら、そっと唇を離した。
「殴りませんね」
 坂水ごときに、唯々諾々と流される男ではないはずだと首をかしげる。それを調子づいていると受け止めたのか、四郎の眉間に深い溝が刻まれる。研きぬいた、ナイフのエッジめいた鋭い視線にぞくりとして、けれどまだ爆発には足りないと坂口は四郎の機嫌を推し測った。だから坂水は、四郎の暴力をむかえるために奥歯をかみしめることはしなかった。
「そんなに殴られてぇのか」
 本気で殴るつもりなら、とっくに坂水の体はテントをつき破っている。痛いのも怖いのも嫌いだけれど、四郎の拳はそんなちっぽけな感情さえこっぱみじんにしてくるから。
「亜久里さんになら、いくらでも」
「ホモの上にマゾかよ」
「どっちも亜久里さん限定ですよ」
 坂水の尻は膝をついた足から浮いたままで、向かいあう二人は互いの息がかかる距離にいる。もし四郎が怒りに身を任せていたら、坂水の鼻や唇は食いちぎられていたかもしれない。そういう獣じみた蛮行が、ありえないほど似合う男だと坂水は知っていた。
 そんな亜久里四郎に、坂水はキスをした。しかも、二回も。
 猛獣の檻に、手をつっこむどころの話ではない。生肉をぶらさげて、武器もなしに檻に飛び込むようなものだ。坂水は四郎とはちがう。すこしばかり格闘技に長けた、気が弱くて、誰かが前に立ってくれなければどこにも行けない、ごく普通の人間だ。少なくとも坂水は、自分の凡庸さを認めている。哀愁を帯びたその結論にいたらせてくれたのも、目の前にいる四郎に他ならない。
 そんな凡人が、四郎の前で、四郎顔負けの愚行におよんでしまった。いや、四郎とのキスに浮かされた、坂水の愚行はまだ続いている。
 床から離れた坂水の手が、四郎の黒のタンクトップの裾に当たる。太いベルトの上をたどって、指はタンクトップの下を通って四郎の腹筋の縁にたどりつく。坂水が手のひらでふれると、かたくごつごつとした丸みが六つあるのがわかる。坂水を叩きのめし、身の程を思い知らせ、そして天啓をもたらした暴力を生み出す筋肉にふれていることを実感して、坂水の口からたまらない息が漏れる。
 ふらりと、坂水の頭が揺れた。興奮と酸欠に、斜め下に落ちた頭は四郎の肩に乗った。あまえるように額をすりつけて、四郎の首筋に鼻を押し当てる。奪われた酸素を取り戻そうと、あえて坂水は鼻で息を吸った。思ったとおり、四郎のあのニオイで、坂水の鼻腔が満たされる。
 もう、やみつきだ。
 肺いっぱいにとりこんだ四郎の体臭は、毛細血管から血液を通して坂水の体の隅々に行き渡り、ついには脳を犯す。くらくらと頭も持ちあげられない酩酊感に、薬物中毒ってこんな感じかな、と坂水は恍惚に背筋を震わせながら息を吐いた。
「亜久里さん……」
「なんだよ、ヘンタイカマ野郎」
 ひどい言葉。でも、当然の罵声。坂水の口の端が、また上がる。今度はエクスタシーにぴくぴくと震えながら。
 それからおもむろに、服の下にもぐりこませた手で、四郎の体をおおうものをたくし上げた。四郎の肩に頭をあずけたまま、眼下にあらわになった絶景に目をすがめる。
「完璧……、ですよね」
 人間の体に与えられた、筋肉という名の彫刻。
 一年かけて、ジムに通った。泡を吹かされ、小便を漏らすほどのシゴキにも耐えて技を覚えて体をつくった。血色の悪さと童顔のせいで驚かれるけれど、坂水も相当に作りこんだ体をしている。
 そんな坂水でも、四郎の肉体は、見ただけで、これには敵わないと思わずにはいられない。
「ほら、美術の授業とかで、見る……、何でしたっけ? ダビデ? ミケランジェロ? みたいな」
「知らね」
「えー、教科書に、ほら、載ってるじゃないですか」
 四郎は十七歳、世間では高校生に当たる年齢だ。こういうとき、四郎が三つ四つは年下であることを坂水は思い出す。
「んなモン開いたことねーよ」
「アハハ、亜久里さんらしいや。じゃあ、お寺の仁王像とか、不動明王」
「あんなブサイクと一緒にしやがんなら、ブン殴る」
「そうですね……、ほんと、全然違う」
 男に二度もキスされて、首元にまとわりつかれたまま腹をまさぐられているというのに、坂水と会話する四郎の声に感情のブレはない。耳と、肩口に押しつけたこめかみから、響く四郎の声に坂水は聞き惚れる。
 憧れる。何もかも。逆らうことのできない、強い引力みたいだ。
 四郎の放つ、絶対的な力にひきよせられるがまま、坂水はまたキスをもとめた。今度は四郎のほうからも角度を合わせてくれる。坂水は迫る四郎の唇をしたからすくいあげた。隙間を埋めて、押しあって、ちょっと唾液をひっぱってきて、ついばみあう。
 一度離して、四郎の顎や首の形をキスでたどった。その間もずっと、坂水の頭は四郎の香りに犯されっぱなしで、しかし嗅覚は麻痺するどころかますます鋭敏に、四郎の体臭を捕まえようと貪欲なっていく。全身が、四郎を感じ取るためだけの感覚器官になってしまった気分だった。
 奪われている。
 理性を、常識を、遠慮を、恐怖さえも。
 キスをしかけたのは坂水のほうなのに、体にふれているのも坂水ばかりなのに、主導権は坂水が握ってたはずなのに、重ねた唇も手のひらも、気づけば四郎からもたらされる感覚にもっていかれそうになっている。
 ただそこにいるだけで、何もかもを奪っていく暴君に、坂水はよろこんで膝をついた。
「好きです……、亜久里さんが、好きです」
「ああ、そうかよ、ホモ野郎」
 名前すら呼んでくれない無慈悲な声に、また一歩、坂水は引き返せない淵までひきずりこまれる。そうじゃない。流されるのではなく、自分から飛び込みたかったのに。最初にキスをしかけた動機すら奪われそうになって、坂水は精一杯のキスを捧げ続ける。
「根古さんが、ボクたちのこと……誤解、したままならよかったのに……」
 饒舌だった四郎が、なぜかその言葉には何も返さない。興奮にどうしようもなくなっていた坂水の心が、その瞬間、冷や水を浴びせかけられて縮こまる。体ばかりが、燃えるように熱かった。
 坂水の懸命の求愛にも、彼は手放しで受け入れてはくれない。かといって、圧倒的な力で坂水を叩きふせることもしないのだ。
 どっちですか。
 キスをして、肌にふれて、想いを告げても、四郎本人の坂水への気持ちを求める勇気がない。返事がないのが、何よりの答えな気がして泣きたくなる。けれど同時に、殴られないこともある種の答えであるように思える。それぞれの、答えの意味はまるで逆だ。
 不安と期待に、坂水はもてあそばれる。その苦悩すら四郎から与えられたものであり、四郎による支配に他ならない。引き返すことのできない深い深い淵を落ちながら、坂水は、もっと四郎とキスがしたいと考えている。
 




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電子書籍で読んだ上に単行本まで買ってしまいました。「蟻の王」。
久しぶりにキター!!って感じ。
うちの坂水くんと四郎くんは基本的にこんな雰囲気です。

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2016/05/08(日) 蟻の王
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