蟻の王 坂水×亜久里四郎 title by 21 置き忘れた嘲笑 坂水はキスがうまい。それが四郎の率直な感想だった。 オクテそうなたたずまいのクセに、坂水のキスは四郎の感覚を甘くしびれさせる。男からキスされるなんてことをうっかり受け入れてしまう程度には、坂水とするキスは四郎にとって気持ちよかった。 「こりゃ、そうとう遊んでんな。坂水」 「そんな……。やめてくださいよ、亜久里さん」 小さく笑って、照れる坂水の姿はやはりオクテな男のそれだ。 「数えるくらいしか、したことないですって」 はにかむ坂水は肩をすくめる。その数える程度のキスの相手は、「すぐにフラれちゃった」と坂水の過去の告白に出てきた女なのだろうか。顔も知らない、坂水の昔の恋人に、四郎は贅沢な女だと心の中で毒づいた。 「亜久里さんは?」 坂水の問いかけは、無邪気だ。四郎にキスの経験をたずねられ、坂水はあっさりと白状した。たから、今度は彼が四郎に聞き返す。ただそれだけのてらいのなさに、四郎の眉が寄る。その反応に、ピンときた坂水の、生まれつきまるい目がもっとまるくなった。 「経験、ないんスか」 奇妙なことに、こういう話題で、四郎に関わる坂水のカンは外れたことがない。正解を教えてやることがほぼないので、驚異の的中率を本人は知らないけれど。 「勝ったつもりかよ」 吐き捨てた反論が、誰よりも四郎自身が経験のなさを気にしている証のようで、はからずしも墓穴を掘った苦々しさに四郎は舌をうつ。案の定、坂水は肩を揺らして笑っていた。いばれるほどの経験もないくせに、坂水ごときに余裕ぶられているのがひどくしゃくだった。 ビキビキと音が鳴りそうなほど、額に血管を浮かせ、眉間のシワを深くする四郎に、坂水は「そんな怖い顔しないで」となお笑う。 「かわいいなって、思っただけですよ」 「ぶっ殺すぞ」 「勘弁してください。でもぶっちゃけ、亜久里さんってかわいいとこありますよね。やっすいアイス好きだし、泳げないし……、どこにでもいる、素朴な17歳って感じの」 「てめぇ、坂水」 「ボクだけが、知ってることならよかったのに」 ふいに、坂水の声がトーンを変えた。せつない響きが、坂水のわりない感情を飾りたてる。ながい前髪の奥で、ひかえめな眉がきゅっとひそめられているのが四郎には見えた。 「ツイッターでバラまかれちゃいましたからね。小鉢くんをうらむ気はないけど、なんだか、もったいないや……」 小鉢がネット上に流した画像は、アカウントごとすでに削除させている。けれど、一度ネットにあげられた情報はまず完全に消すことができないと小鉢は言った。だったら、そんな画像があったこと自体を忘れてしまえと四郎は思う。六道財閥との大喧嘩に比べたら、くだらないことだった。 そんなくだらないことの、どこがもったいないのか四郎にはわからない。思ったままを口にすると、「くだらなくなんか、ないですよ」といつになくキッパリと言い切られて四郎は虚をつかれた。そのわずかな隙を、坂水は見逃さない。坂水の前では無防備な唇に、彼のそれが押しつけられる。引力にひきよせられる星のように、磁力に抗えない鉄のように、坂水の唇はしごく当たり前に、四郎のもとにたどり着いた。いつもどおりの口づけに、しかし異変を感じて、四郎の眉がぴくんとはねる。 なだめるような、キスだと思った。四郎がくだらないと思うことを、そうは思わないという坂水の胸の内を、四郎に覗かせないためのキスな気がした。坂水と唇を重ねるたびに、体の芯からほどかれるような、あの、しまりのない恍惚がとどいてこない。四郎の追及をかわし、四郎の眼差しから逃げるための、計算高い行為に腹が立つ。 坂水のくせに。 かみついて、歯を立ててやれ。怒りは四郎を残虐にする。唇のうすい皮膚を食い破り、血をにじませる傷口に舌先をつっこんで、ぐりぐりとえぐってやれ。坂水の血の味を、四郎はまだ知らなかった。 報復のための想像に、はからずも四郎は興奮をあおられる。しかし、それもながくは続かない。押し当てられているだけだった坂水の唇が、四郎の肉をやわく食んだ。とたんに、あの坂水の、彼からよこされるキス特有の、だらしのない心地よさが四郎の口全体に広がる。喉がゆるんで呼吸を忘れ、舌の根元から、じわりと唾液があふれ出てくる。 口内に広がる唾液とともに、さざ波のようにそれは打ち寄せた。坂水の刺激は、四郎の五感と思考をほだして、嗜虐的な悪だくみを遠い沖に流してしまう。さらわれていく悪意の波と、寄せてくる甘くせつない何かに、四郎の意識は坂水とのキスに引きずりこまれる。 ああ、気持ちいいな。 こうしていつも、坂水を半殺しにする気力を四郎は殺されきたのだ。あの、泣く子も黙る亜久里四郎が、泣き虫でヘタレの坂水に殺される。そんなことが、彼と交わすキスの他にありえるだろうか。 余韻をもって、離れていく坂水の唇を四郎は目で追う。四郎のものよりまるみを帯びた、肉厚の唇は、見てくれに反して芯を持っていてかたい。かたいそれが四郎のものをやわく押しつぶす。その感触が遠のくのが惜しい。四郎の胸の内を代弁するかのように、坂水の口からうっとりと、重い吐息がこぼれ落ちる。熱くしめった彼の息が、四郎の顔をなでた。 「まあ、いいか」 坂水はつぶやいた。うっすらと微笑む童顔に、先ほどまでのせつなさの翳りは見えなかった。 「亜久里さんの、ファーストキスはもらえたし」 「そういう言い方はヤメロ」 「亜久里さんの香りも、たぶん知ってるのは、まだボクだけだし」 ファーストキスだの、香りだの、坂水の言いようは、いちいちみだりがわしい。四郎の体臭を坂水が知ったうんぬんは、ただのことのなりゆきであって、根古が誤解したから話が面倒くさくなった。キスにいたっては、男同士が互いの顔のある部分をくっつけているだけのこと。キスだなんだと騒いだところで、しょせんは皮膚と皮膚との接触だ。インネンづけるきっかけに肩を当てたり、正拳突きの拳がぶつかりあうのと、そう変わらない。坂水からのキスを受け取るまで、四郎はそう思っていた。 初めて彼が四郎にふれたとき、唇から伝わった稲光は四郎の全身を走りぬけた。脳天や肩先から放電された衝撃は、手ぜまな小鉢のテントを吹き飛ばす。そんなイメージに襲われた四郎に、キスを終えた坂水を殴り飛ばす余裕はなかった。 『殴らないんですね』 何度か、坂水は似たような言葉をくり返した。それでも、四郎は拳をふるわなかった。その結果が、今につながる。 大げさなファーストキスの感想を、四郎が坂水に伝えることは、きっとない。だから坂水はいつも不安そうだ。四郎が坂水のキスを受け入れる理由がわからなくて、問答無用で半死半生の目に遭わされないことが不思議で。 殴るより気持ちいいからに決まってる。四郎のこの上なくシンプルな理屈に、気づかない坂水はバカだ。 そんなバカな男からの、殴るより四郎を胸をすっとさせるキスは、たいていすこし斜め上から降ってくる。その角度と、ふれる間際に発せられる穏やかな気配に、目の前にいる坂水が自分よりも長身で、年上だということを四郎は実感した。 「もし、亜久里さんが、ボクを、殴らないのは」 二十歳を過ぎた男が、十七歳のガキを敬うことを四郎は不自然だとは思わない。坂水自身が、どう思っているかは知らない。 「ボクとのキスを、気持ちいいって、思って、くれてるからなら……」 年下の男に、ついばむようなキスをくり返す男は、キスの合間に言葉を紡ぐ。まるで自分が発する一音一音を四郎の唇にすりこむように、坂水の想いは四郎に向けてあふれてくる。 「それはきっと、亜久里さんとボクの……、相性がいいからなんです」 ほれたはれたの戯言を、告げられやしないかと身構えていた四郎は、坂水の口にした「相性」という単語に胸を押された。目の前では、坂水の大人しそうな笑みが四郎の機嫌をうかがっている。四郎に踏みつぶされた中途半端な不良たちの媚びへつらいとちがって、坂水のまるい瞳は四郎の導火線の長さを正確に読み取ろうとしている。 「愛だの恋だのより、ずっとわかりやすいでしょ?」 四郎の機嫌を、上々と判断したらしい坂水のカンは見事に当たっている。坂水と四郎の、相性。キスの相性。たしかに悪くない言い回しだ。 四郎が答えずにいると、坂水の腕が四郎の体に回された。四郎よりながい腕に囲われ、そのままぎゅっと抱き締められた。肩に坂水の顎が乗る。重なる胸板はどちらもかたい。 「本当に、そうならいいんだけど……」 四郎を抱きかかえた、坂水の声は震えている。腕の拘束はすぐにゆるみ、坂水の顔が四郎の前に晒される。年のわりには幼くみえる、坂水の表情は今にも泣き出しそうにゆがんでいた。泣き虫坂水が現れた、と四郎は思った。 血の気のうすいベビーフェイスに、弱気な声まで加わった坂水は、四郎にとっては情けないバカの一言に尽きる。それでもこんな彼にすがられて、母性とやらをくすぐられる女が一人や二人はいるのだろう。自覚がないだけタチが悪いが、坂水にとって、または四郎にとってか、幸か不幸か、女ではない四郎に、坂水の泣き虫ぶりにほだされる感性は備わっていなかった。 泣き顔なんかにそそられない。気弱さに手を差しのべたりしない。それはそれとして、坂水がしゃべるたびにキスが中断されることに四郎は焦れていた。四郎のあごをたどり、四郎の耳を撫でまわす坂水の唇が煩わしい。そんな欲を吹きつけるように息を吐くな。ふれる場所が違うだろう。四郎の不満をよそに、坂水は鼻をグズグズと言わせながら、口では荒い呼吸を四郎にこすりつけている。 「ねぇ、亜久里さん」 このバカ水。 「そうだって、言ってください」 ねだる坂水の息も、押しつけられる体も熱い。四郎を欲しがる熱が限界まで高まっているのに、坂水は四郎にとってくだらないことにこだわって先に進もうとしない。 理由なんざ、いるか。 ここに四郎がいて、坂水がいて、二人のキスは最高に相性がイイと知っている。唇を重ねる条件なら、それだけで十分だ。 そのことに気づけない坂水を、バカヤロウと四郎は口には出さず罵った。頼りない年上の男のおかげで、とうとう四郎まで、じりじりと満たされない劣情に追い詰められていく。それでも四郎は坂水に、正解を教えてやろうとは思わない。 ++++++++++++ この四郎くんはツンデレになるのかしら。四郎くんは女性経験どうなんだろ。15歳のときは、枕田くんの股間を誤解してたけど。 そして二十歳すぎてバーガー屋のバイトで、ジム通いって、坂水くんはフリーターなのか、それとも大学生なのか。3巻の裏表紙には「引きこもり」ってありましたね。 そんな未来ある(?)若者に、「闇に落ちる」「月」としての将来を託そうとする根古さんはたいがいひどいと思います(笑) |
2016/05/09(月)
蟻の王
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