過去作品倉庫とは

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13.07.2011 ブログ初掲載




 間に合った。狼がそう思えたのは、ほんのつかの間のことだった。
 身の丈の倍はありそうな扉を押し開けて、十字架のもとに捧げられた哀悼と慈悲と祝福の空間に足を踏み入れる。先ごろ殉職した国際捜査官アクビー・ヒックスの葬儀に、彼の死が確認されて以後の数日間、仕事に忙殺されていた狼が顔を出せたのは僥倖だった。小国とはいえ王室を動かした結果、短期間で山と積み上がった書類をかきわけてまで、狼が東の果て日本から北の果てボルジニアまで足を運んだのは、ひとえに今日この時この場所にいなければならない理由があったからだ。
 ボルジニア共和国の片田舎の小さな教会は、こちらがよくイメージするようなアーチ状ではなかったが、高い平らな天井の下では、やはり神の子が磔刑に処せられている。目的の人物は、まさに神の子の足下で、ミルクチョコレートをまぶしたような光沢ある茶色い棺に横たわっていた。
 狼はそっと箱の中に体を傾ける。白い布にかたどられた天国行きの揺りかごにいたのは、やはり彼に違いなかった。
「アクビー」
息をする自然さで、狼は友の名を呼んだ。控え目な微笑が似合う唇は、微動だにしなかった。ああ、君か、とは返してくれない場所は、エンバーミングの恩恵にあずかって狼の記憶よりもずっと生気に溢れている。
 一度だけ、仕事上やむを得ず、狼はこの唇に触れたことがある。その時の彼は仕事人としての態度を崩さなかったけれど、狼は彼の瞳の青に現れたかすかな影を覚えていた。
 殺菌処理のおかげで、狼の前に並んでいた弔問者たちは、キスをしたり、頬を寄せたり、手を重ねたりと、思い思いに温もりを失った彼に自分の体温を与えることができる。信心深さゆえに、酒も遠ざけていた唇に煙草をくわえさせようとして遺族にとがめられた客もいた。その客が彼の額に唇を落として狼に順番を譲ったとしても、記憶に残る青の影が、狼に彼に触れることをためらわせる。かつての、あの感情の伴わない行為のために、なぜか、背中をあずけたことも肩を叩きあったこともあるはずの自分がどこに触れても、今となっては彼は喜ばない気がした。
 まっすぐに心に残る未練をふりきって、狼は彼の胸に視線を下げる。淡い紺の左胸のポケットに指を引っかけて、遺族から託されたものを差し込んだ。
 彼の死に際して、日本の警察が押収した品は少ない。財布、旅券、携帯電話、小さなロザリオ、そしてレンズの割れた眼鏡。証拠品として価値のある携帯電話以外の遺品を遺族に返還することが、狼のそもそもの目的だ。土に還る前にロザリオくらいは家族の手で棺に入れてやらなければと遺品を差し出した狼に、遺族は逆に狼にもひとつ選んでほしいと言ってきた。友人を代表してと頭を下げられてしまえば、狼に逃げ道はない。ロザリオは先の理由があるから、狼は、伊達だからなくても困らないだろうと思いつつも、レンズの欠けた眼鏡を選んだ。
 少し膨らんだ胸ポケットに、そっと手を当てる。服の上から、折りたたんだ眼鏡が壊れてしまわない程度の力をかけただけでは、鼓動も体温も、体の硬さすら伝わらなかった。そのままの姿勢で、狼は肩越しに背後を見やる。彼の人柄か、それともボルジニア人の気質か、最後の別れを求める人がまだ多く続いていた。次を譲るためにも、分断された生と死の境界線を自分に納得させるためにも、告げなければならない別れの言葉を探して、狼はまた迷う。閉じてもいない目の裏に、また、青の影がちらついた。
 彼は殊、自分の事に関して、多くを語らなかった。生い立ちも、敬虔なカトリシアンでありながら狼と同じ組織に籍をおく理由も、狼は詳しく聞かされたことはない。ただ彼の言葉の端々に潜む、アクビー・ヒックスという男の断片を察するのが精一杯だった。むしろ、白く整った顔に慎み深い微笑みを浮かべて、狼の語り口に相槌を打つのが常だったろう。
 死を悟って、貨物室の床にたたきつけられるまでの間に、彼は何を思ったのか。歳はひとつしか違わない。やり遂げられなかった仕事以外にも、悔いはあっただろう。だが、彼が望む言葉を、狼は知らない。
 間に合ったなんて、嘘だ。胸に置かれた狼の手が戦慄き、服の下に埋もれた壊れた眼鏡の輪郭をつかむ。狼の元に報せが入ったとき、司法解剖どころか、事件そのものが終わっていた。自分がいたなら死なせはしなかった、そんな啖呵は天に吐いた唾だと、狼は動かない同僚を眼下に思い知る。
 射撃の腕を磨く一方で、主とマリアに尽くした彼。
 気配には聡いくせに、背後から覗き込んだだけで椅子から転げ落ちた彼。
 死に化粧を施された彼と、狼の記憶に居座る彼がムジュンする。整えられた唇から、節度ある声が発せられることはなく、狼の問いに答えはない。棺から離れる間際、こう囁くのが狼の精一杯の別れ方だった。
「また、後でな」
彼の本音を問いただす機会があるとすれば、そのときだろうと、狼は狼らしい傲慢さで友の死を割り切ることを選んだ。教会を出るころには、きっと、狼は彼の青に淀んだ影を忘れてしまっている。




逆転検事(BL) 2016/05/08(日)
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