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17.07.2011 旧ブログ初掲載




 陸上の生き物の進化は重力との戦いであったというが、太古の祖先から連綿と引き継がれてきた挑戦に、半身に寄りかかるソレが白旗を上げてから随分とたつ。右肩に食い込み右足に伝わる体重は半端ではなく、左手で掴んだ金具の確かさに、安堵からか、アクビーは普段の彼らしからぬ悪態をルームメイトについた。
「だから嫌だったんだ、君と飲むのは」
自力での歩行が困難なほど酩酊した狼をひきずって、アクビーは何とか室内に二人分の体をおさめ、後ろ手に扉を閉めた。とたん腕を広げた暗闇の中、手探りでライトのスイッチに触れる。鈍いルームライトに闇は霧散し、現れるのは味気ない仮初めのホームだ。
 リノリウムの床の上、池に映る月のような照明の光を踏み越えて、アクビーは同期一優秀な、だが今は自分の世話もままならないただの酔っ払いを運ぶ。目指す先は、部屋の一番奥の壁に沿って置かれた、質素な木目調の二段ベッド。木の温もりと言えば聞こえはいいが、長年の使用にところどころが手垢で斑に黒ずんでいるあたりは、単にニスを塗る経費を抑えただけと言えた。
 付き合いが悪い。耳にたこができるほど聞かされた不平に加え、今夜は後生だからと眉尻を下げられ、仕方ないなとうっかり読書をあきらめてしまったのがそもそもの間違いだったと、アクビーは頬の内側を噛んだ。
 腰掛椅子の高さに設らわれた下段に、アクビーは、実戦において眺めるのにこれほど心強いものはない、だが現在は硬くて重いばかりの木偶のぼうな背中を放り投げる。二人分の荷物も、ベッドのそばの床に投げ捨てるように置いた。
 長い負荷から一気に開放され、アクビーはようやく背筋を伸ばす。自然と上段のベッドが視界に入った。本来、ここが狼の寝床であり、狼がいるのはアクビーの場所だ。だがさすがに、180センチの筋肉隆々とした男を上段に運び入れる体力や気力は、このときのアクビーは持ち合わせていなかった。
 まさかここまで酔いつぶれるとは思わなかった。アクビーは道中にずり落ちた眼鏡を押し上げて、眼下に横たわる男を見る。酒精に首まで赤く染めたルームメイトの額に汗がにじんでいるのを見止めて、アクビーは黙ったまま、狼のそばを離れた。
 目立つ家具は、二人分のデスクと二段ベット、そして壁に埋め込まれる形で備え付けられたクローゼットだけというこの部屋には、入り口とは違う扉が二つある。二段ベッドの置かれた壁に、仲良く並んだ扉のうち、アクビーは迷うことなく右の扉を押し開いた。とたん、ブゥーンと地に響く音が耳に入る。外から帰った部屋と同じく明かりの消えた空間に、明るい部屋からの光が四角く入り込み、その中でアクビーの影法師がたたずんでいた。今度は扉を閉めることなく、アクビーは照明のスイッチを入れる。一呼吸待って、寿命がつきかけた蛍光灯が、チカチカと大きく瞬いた。完全に視界を取り戻さないままでも、アクビーは勝手知ったる空間に足を踏み入れる。蛍光灯が本来の明るさを取り戻したころには、アクビーは戸棚からグラスを取り出し、低い駆動音でうなる冷蔵庫の扉に手をかけていた。
 隣室とつながる簡易キッチンの冷蔵庫は、もちろん隣室のメンバーとの共同使用のおかげで物にあふれている。その中で昨日自分が補充しておいたミルク瓶をとりだして、アクビーは冷蔵庫を閉めた。
 アクビーは酒を飲まない。宗教上の理由もあるが、今夜の狼のような隙を他人に見せたくないというのが一番だ。故に、アクビーがアルコールと親しくなるのは、仕事上必要に迫られた場合だけ。もちろん、そのことを狼は知っていて、だからこそ、狼は今夜の酒にアルコール嫌いのルームメイトをつき合わせたのだ。つまりアクビーは、無茶な飲み方をしても最後の面倒を見てくれる存在として、狼に指名されたに過ぎない。
 求められる役割を果たすことに、不満はない。それはアクビーの最も得意とするところであり、まさにアクビーは、狼から求められた役をきちんと果たそうとしていた。キッチンから部屋に戻り、狼がいる下段のベッド脇に腰掛けて、アクビーはミルクの入ったグラスを片手に狼の顔を覗き込んで口を開く。
「おい、狼。起きてるか。起きてるなら、これを飲むんだ」
返事はない。バーを出てしばらくは、たどたどしくも会話が成立していたが、今は瞼は硬く閉ざされ、何やら吐息とも寝言ともつかない音が唇から漏れるばかりで、意識も危ういことがうかがえた。
 気付けのミルクは無駄になりそうだと、アクビーが狼からミルクへと意識を移したのはほんの一瞬のことだ。つまり、その一瞬を待っていたと言うしかないほど、狼が動いたタイミングは絶妙だった。仮にも国際捜査官として不足ない訓練と成績を示したアクビーは、いとも簡単に狼のリーチに捕らえられる。自身が重心を移動しようとしていた先とは反対側に、アクビーは遠慮仮借ない力で引き込まれていった。
 このとき、アクビーの意識は手の中のグラスにあった。正確を期せば、グラスの中のミルクが間違っても狼の眠りを妨げてはいけないと、アクビーは思慮していた。その思考のさなかでの急激な体重移動に、アクビーがとっさにとった行動は、狼の腕を払いのけるのではなく、ベッドにたたきつけられる予感に受身をとるでもなく、ただ刹那の判断でミルクをグラスごとベッドの外に放り投げることであった。
 頬に硬いベッドマットがぶつかり、耳では衣擦れの音が騒がしい中、やはり重力にしたがってグラスがリノリウムの床に落ち、ミルクが高く軽い音をたてて飛び散るのがわかった。しかし、アクビーの聴神経は、ベッド脇の床よりはるか至近距離から注がれた音にのみ注がれることになる。
 狼もろともベッドになだれ込む間際、引く波と寄せる波が合わさるように自然と寄り添った耳と口の間で響いたのは、女の名前。狼の低い声でかたどられた音の連なりに、アクビーは胸に、氷の手で心臓を鷲掴まれたような凍えを感じた。
 女の名前を、アクビーは、狼の恋人のものだと認識していた。そして今夜、それが過去になったことも本人の口から知らされている。
 今日、狼は恋人にふられた。表向きは狼の忙しすぎる仕事が原因だが、こと、男女の仲について講釈する知識も経験もアクビーは持ち合わせていない。アクビーがわかるのは、狼は彼なりにその女性を大切にしていたことと、今日の結果に対する彼の消沈ぶりは、こちらが見ていられなかったほどだということだ。
 並んで横たわったまま、狼はアクビーに顔を向け、あの動きの俊敏さが嘘のような、安らかな寝息を立てている。酔余の夢に彼女と会ったのか、行くなとすがったのか、その腕の先に運悪く自分がいたということか。アクビーは頬の内側の肉を、さきほどよりずっと強く噛んだ。
 だから嫌だったんだ、この男と酒を飲むのは。
 豪放磊落な狼の心の、弱くて、やわらかい部分が覗けてしまうから。
 狼は今宵、酒におぼれたかった。飲んで飲まれて、酔いつぶれた先で幸福な夢を見るのが彼の望みだ。そして、目的を果たした後の始末を引き受けることを、彼はアクビーに求めた。決して、弱味をみせるためじゃない。万人に通じる醜い感情でさえ、他者を魅了するアクセサリーに変えてしまう彼にとって、こんな可愛らしい醜態は弱味にさえならない。
 狼の声が、耳によみがえる。
『アンタ、きれーだなぁ』
グラスを重ねたバーで、真っ直ぐ歩けなくなった帰り道で、何度もそう聞かされた聴覚は、アクビーの意思に反して、クリアな音質を脳内に再現する。忘れてしまいたい言葉まで、どこまでも澄明に。
『なんで女つくらねぇんだよ。イエスさまだって、恋愛くらい許してくれんだろ」
傲慢な言葉だった。目の前の相手の性癖が、自分と相容れない世界にあることなど、露ほども考えたことのない言葉だった。交わるには遠すぎる距離をつきつけてくる、残酷で、凶暴で、その言葉によって抉られる心の存在など、頭掠めたこともない無邪気なルームメイトに覚えた苛立ちに、アクビーはつい口を滑らせる。
『私の恋は・・・、いつも、難しいんだ』
狼の双眸が丸く見開かれる。光の加減で金にも茶色にも見える瞳には、自分を語らない同期に対する、純粋な好奇の色が浮かんでいた。
『人妻が好みとか?』
わかりやすい冗談で、アクビーの反応をうかがうトリックだ。わかっていて、アクビーは口をつぐんだ。ストレートに受け取ってくれればいい。相手が婚姻を解消するだけで赦されるのであれば、不倫のほうがはるかに救いの道が広い。それから先はもう、矢継ぎ早に繰り出される狼の問いに沈黙を通した。
 アクビーを抱え込む腕に、もう力はなかった。肩や腰に乗せられただけの手足なら、抜け出すのはたやすいというのに、アクビーの体はぴくりとも動かない。じっとしているだけならまだしも、アクビーは自分の体の一部に変化を感じ取っていた。次第に熱を持つそこに気づいたアクビーは、慄いた。体が求めるものの意味に、アクビーは恐怖で震える腕を叱咤して、ズボンのポケットを探る。
 離れるべきなのに、寄り添おうとする体。
 傍にいても辛いだけなのに、ここにいたいと叫ぶ心。
 ムジュンするそれらに追い立てられるようにして、アクビーの指先はようやく触れたロザリオにすがりつく。この、害悪しか生まない感情を消し去れるのは、祈る先におわす偉大な存在だけだ。
 アクビーは、人形でありたかった。神に与えられた役割を、ただ忠実に果たすだけの人形になることが、罪深いわが身の処し方だと信じている。だがいつしか、狼に求められる役割も果たしたくなった。そして今、忌避すべき感情はそれ以上のことを欲している。
「・・・だから・・・、嫌、だったんだ・・・」
 君に近づきすぎることが。
 生まれからして正しい存在に自分が心を奪われることは、見えすぎるほど目に見えていた。自明の結果を回避し切れなかったのは愚かと言うしかなく、ロザリオを潰れるほど握り締め、血がにじむほど祈りを重ねながら、アクビーは、狼の腕という煉獄から抜け出せないままだ。
 明々と照らされたリノリウムの床、転がったグラスの縁を、白い滴がしたたり落ちる。髪に触れる狼の呼吸に、アクビーの胸に逆巻く感情もまた、心の器から溢れ出ようとしていた。




逆転検事(BL) 2016/05/08(日)
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