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07.09.2011 旧ブログ初掲載




 真向かいの席に腰を下ろした人物を知覚するや否や、アクビーの心臓は硬くなった。かろうじて皮膚の内側に押しとどめた緊張を悟られまいと、ことさら億劫そうに顔を上げる。国際警察本部内にある職員用ラウンジは、潜みなれたマフィアのアジトとは色が違う。運悪く出くわすとしても、気の合わない上司がせいぜいのこの場所で、果たして、小さな丸テーブルを向かいには狼がいた。
 目が合っても挨拶ひとつない狼の瞳は金茶。着座の許可も請わない眼差しには、怒りとも苛立ちとも取れる色がこもっていて、それらがまっすぐに自分に向けられていることに、アクビーは取り組んでいた携帯電話の操作を放棄する。首から提げたストラップの先を内ポケットにしまい、組んだ足の上で両手の指を絡ませる。イスの背もたれに身体を預け、何の用だと告げる代わりに右の眉をあげて見せた。
 アクビーの無言の催促に、遠慮なく狼の口は開かれた。
「アンタ、何考えてやがる」
浅く腰掛けたイスの上で、左膝に右足首を乗せた狼は、藪から棒に問う。ズボンのポケットに入れられた両手は、そうでもしなければ今にも暴れだしそうだと訴えていた。
「・・・・・・世界平和?」
問答無用で殴られる可能性を承知で、アクビーはあえて、狼の機嫌を測るために嘯いてみせる。狼の眉間から額に伸びた皺が、ビキリとたてた音が聞こえた気がした。それでも狼は、ぎりぎりのところで話し合う気があるのだろう、唸る、としか形容できない声を出した。
「アンタさっき、保険課に入ったろ。何してたか言ってみろよ」
意外な内容に、アクビーの眉がぴくりと揺れかける。それを何とか押さえつけ、アクビーはつとめて冷静に返した。
「私個人のことだ。君に話す義務はない」
「明日から"潜る"んだろ」
「仕事のことならなおさら言えない。君も承知のはずだ」
地響きがした、すぐ近くで。白いソーサーの上で、空のコーヒーカップがカタカタと踊っている。その隣には、黒い腕と大きな拳。2人の周囲が波紋のようにざわめき、そして遠ざかっていく。アクビーはようやく、この地響きが、限界値を超えた狼の手がテーブルに叩きつけられた音だったと、理解した。
 これでも、狼は加減した方だ。彼が本気の力なら、テーブルは使い物にならなくなっていた。コーヒーカップもただでは済まなかったろうと、無意識に現実から逃げるアクビーの思考を、狼の低い声が呼び戻す。これまでより格段に、明瞭に、怒りを前面に押し出した声だった。
「殉職ん時の保険金上げたって?受け取り先を世話んなった教会に変えたって?てめえ、死にてぇのか」
「その話は誰から?」
「窓口のやつだよ。ちょっと締め上げたら簡単にゲロった」
「・・・・・・ここの個人情報管理はどうなってるんだ」
他人のプライバシーを溝に捨てる狼の暴挙以上に、アクビーが嘆くべきは国際警察内部規範のお粗末さだ。それが一職員とはいえ、その命の対価に関わることであればなおのこと。狼の気迫が、腐っても国際警察の組織人が示した毅然とした態度を貫くほどのものだったことには、アクビーは敢えて目をつむる。肌の下で息を殺していた緊張が、ざわりとアクビーに鳥肌を立たせる。狼の自分に向けられる激しい関心を認めてしまえば、きっとこうして平静にイスに座ってなどいられないから。
 沈黙は金、雄弁は銀。
 その本意は優劣にではなく、時を知ることの大切さを説くのだと、教えてくれたのは故国にいる老神父だった。ならば今は、雄弁の時。薄皮一枚隔てた奥でわめき散らす、心の声を耳ざといオオカミに悟られないためにも。
「はっきり言って、君に話す義理は無い。だが、私の行動を好き勝手に解釈されるのは、詮索される以上に不愉快だ。だから説明してやろう。保険金の受け取りを教会にしたのは、以前の受取人だった神父がかなりのご高齢になられたからだ。何も急な話じゃない。ましてや死にたいなど・・・」
そこでトーンを落としたのは、続けるには言葉に嘘が多すぎるからだ。死にたいわけではない。そこに嘘は無い。だが、生きていることに、疑問が口を挟む余地がないわけではなかった。
 そしてアクビー・ヒックスという人間の生死に、根源的な問いをもたらすものは、手を伸ばせば触れられる距離に入る男が深く関わっている。
 種の保存本能に高度な感情形成がもたらしたバイアスが恋愛だというのなら、自分が今、目の前の男のために押さえ込まなければならない想いはバイアスの極みだった。友情や畏敬、親愛、そんな様々な美しくもけれんみのない言葉では括れない感情を抱いた自分が、漫然と生きることは辛いことだとどうして思わずにいられるだろう。
 だからこそ、保険金を吊り上げた。
 悪魔に吹き込まれた欲望を捨てられない自分の、生きていく意味と死ぬ意味をはっきりとさせるために。
「第一、よく考えてみろ。保険金は保険期間が長いほど増額される。私が生きていればそれだけ、私の命の対価は増えるんだ」
「そういう言い方が気に入らねぇっつってんだろうが」
「何をどう言おうと、私の自由だ。そもそも、君に気に入られるために言葉を選んでいるわけじゃない」
普段から平行線をたどる主張に、にらみ合いになることは珍しくない。けれど、今日この時に至って、精悍な顔にはめ込まれた金茶の輝きには、常には無い凄みがあった。太陽をうちに閉じ込めた光に、砕け散る氷が似合いの自分の瞳が敵わないことをアクビーは知っている。強く、正しく、神に永遠を約束されたかのような、何もかもを超えていく狼の瞳の輝きに、アクビーは場違いな恍惚にさえ浸れるのだから。
 その太陽が、翳る。光を遮る雲はおそらく、アクビー自身。
 けぶる眼光に合わせて顰められた眉の下、発せられた声は力なかった。
「アンタ、変わったか?」
憂いの影を漂わせた言葉は、まっすぐにアクビーに続いていて、変化を強いたのが他ならぬ狼自身だと本人が気づくはずもない。気づかないゆえに成立している関係と、受ける側にしてみれば支離滅裂な優しさに、アクビーの心は両極に引き裂かれそうになる。
 たわいもない齟齬に、笑顔を凍らせ、軌跡の残らない涙を流すのは、いつもアクビーの役目だった。そして疲れきり、あいまいに死んでいくような恋を、アクビーはいつもどおり冷静な表情に差した苦笑の色に隠す。今回もまた。
「人は変わるものだ。良くも、悪くも」
「哲学は嫌いだ」
そこで、二人の会話は途絶えた。





 画面が見づらい。
 キーボードで指がすべる。
 アクビーは、一向にはかどらない作業を放棄して、愛用する携帯電話をテーブルの上に置いた。その向かいのイスに、座っていた人物はもういない。
 果てしなく続くかと思われた二人の沈黙を、破ったのは狼の部下だった。無礼を詫び、隙の無い所作で部下がした耳打ちに、狼の双眸に強い光が戻る。狼は口の中で舌を打つと、アクビーに挨拶も無く席を立ち去っていった。
 狼の背中が人ごみと壁の向こうに消えるのを待って、アクビーは大きく息を吐いた。いつの間にか、全身ががっちりと固まって、節々に痛みさえ感じる。背筋を駆け上がる悪寒は、体から吹き出ていた冷や汗のせいだ。ここのところ、狼を目の前にしたアクビーはよくこうなった。
 たちの悪いマフィアに取り囲まれようと、澄んだ冬空のような冷静さを維持できる自分が、狼に心を見透かされそうになると心臓を氷の手で掴まれたような気になる。そのまま握りつぶしてくれた方が、よほど人道的だろうと思うほど、その冷ややかさはアクビーの心神をすり減らしていった。
 狼の言葉は正しい。
 自分は、変わった。
 頻繁に、自分の死を思い描く。
 原因は狼への思慕ひとつには限られない。先ほどまで携帯電話を弄っていた右手を、アクビーは見た。死の感触を伝える手は、持ち主の意図に反して小刻みに震えている。指と指の間に、赤と白のツートンカラーの相棒が覗いていた。人間よりもはるかに、アクビーの信頼を勝ち得てきた存在は、今ではもう遠く感じられる。
 画面が見づらい。キーボードで指がすべる。
 文字を打ってデータを作成して、パスワードをかけて保存する。目を閉じていてもできた作業が、今のアクビーには恐ろしく困難だった。仕事に支障が出るのも時間の問題だ。それまでに、アクビーには片付けるべきことがある。
 リミットが刻む半透明な靴音が、すぐ背後から聞こえてくる。その焦りも、アクビーの周囲で死臭を放ちつつあった。
 死にたくはないのに、自分の死に様が脳裏に浮かぶ。自殺願望とは距離を置いた想像には、いつも狼がいた。それが、何よりもアクビーを慄かせる。自分の死に寄り添う、狼が怖い。死ぬ間際に、自分が何かを口走りそうで怖い。
 死ぬなら、狼のはるか手の届かないところで。
 口に出すのもおぞましい、この胸の内が、彼の記憶に残ることが無いような場所で。
 アクビーは近頃、そんなことばかりを思い描く。




逆転検事(BL) 2016/05/08(日)
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