※カルブレinドイツ(ただしずっと屋内)
※「Please kiss me more and more」の続きです。ブレット17歳、カルロ16歳の8月。ただし誕生日ネタではない。
※ブレットは15歳で宇宙デビューした際、目の障害が発覚し、ドイツで手術を受ける設定です(Please kiss me more and more参照)
※作中にある腐カプの存在を否定する描写があります(特にツガイ好きの方はご注意ください)が、これは「本時系列の作品群では、公式カプ以外の腐カプはカルブレのみ」という設定ゆえの産物であり、二次創作におけるあらゆるカップリングを否定するものではございません。カルブレオンリーサイトゆえの事情を汲んでいただければ幸いです。
※作中に登場する病院名、疾病やその治療方法などはすべて架空のものです。
※タイトルは21さまより。





 Auch im Regen 
   Siehst du mich




 ラファエルは来ない




 「カルロか」
 ノックするなり、窓もないドア越しに正体を言い当てられカルロは驚いた。個室の引き戸を開けば、クリーム色のベッドにおさまるブレットの口元だけの笑みがカルロを出迎える。カルロの好きな月色の瞳を包帯で隠してしまった姿は、WGPでのゴーグル姿とは違って、どこか浮世離れして頼りなく見えた。
 注視に耐えがたくなって、カルロは視線をずらして呟く。
「意外と普通な病室だな」
 ブレットにかけるN△S△の期待とミハエルの口添えがあることを慮って、いわゆるVIP専用の豪奢な病室を想像していたカルロはその質素さに正直拍子抜けしていた。視力を奪われてもなおカルロの意図をくみ取れるブレットは、「こんなものさ」と肩をすくめる。
 目の見えない慰めか、室内にはドイツのラジオが小さく流れていた。その音を掻き消してしまわないよう、控えめな足音でカルロはベッドに歩み寄る。
「何で俺だってわかった?」
「足音さ。一昨日にはシュミットも当てたぜ」
「手術は昨日じゃなかったか?」
「なに、ちょっとした暇つぶしさ」
 15歳7か月という早すぎる宇宙飛行士デビューと引き換えに、発覚したブレットのムーングレイの問題。その治療法のためにブレットは一年の忍耐を強いられ、ついに手術が叶ったのが昨日のこと。執刀医は、このミュンヘン聖ラファエル総合病院のドイツ人外科医師で、眼科疾病の分野ではトップクラスの実績を持つ。医師も病院も、手配したのは幼いころここの世話になっていたと言うミハエルだ。
「ドイツ連中も来てたのか」
「ああ、シュミットは相変わらずエーリッヒとツルんでる。明後日には、ミハエルも一緒に顔を出してくれるそうだ」
 WGP以来、苦手意識の強いドイツの貴族勢とは顔を合わせずに済みそうだと、カルロはほっとする。ベッド脇の椅子に腰を下ろし、デイパックを床に置いてようやくひと心地着いた。院内はエアコンがよく効いていて、旅の汗も病室までの長い廊下でひいている。
 気配を頼りに顔を向けてくるブレットに、カルロはさらに質問を重ねる。
「経過は?」
「良好。手術も問題なし。麻酔が切れたあとの吐き気がつらかったが、それだけだ。二日後に一度包帯を外してみて、異常がなければ翌日にも退院できる。ただし経過観察で二週間はこの街から出られない。おまけに宇宙線のこともあるから、帰国のフライトは来月になる」
「それまでヨーロッパ(こっち)に缶詰か、どうすんだ」
「ESA(欧州宇宙機関)で研修予定だ。だからいったんケルンに行って、最終的には南フランスだな」
 93年、ヨーロッパ各国はEUとして政治統合を果たした。結果、加盟国間での移動手続きが簡易化され、イタリアードイツ間の入出国などEU国籍のカルロならほぼフリーパス、外国人のブレットもその恩恵を受けている。
「ユーロに慣れるいい機会だ」
「せいぜい金を落してけよ、アメリカーノ」
 今年02年の初め、EU各国は一部を除き新通貨に移行、ドイツのマルクもイタリアのリラもEUROに取って代わられた。ブレットがユーロと呼び、シュミットたちがオイロと呼ぶそれを、カルロはエウロと呼ぶ。つまり今、ドイツの貴族勢とカルロの財布の中身は(額面はともかく)同じデザインの紙幣になっているのだ。
 マルクに比べれば弱い通貨だったリラが、世界のドルに次ぐ強い通貨に変身した。そのことにカルロが実感を持てたのは、ドイツに旅立った昨日の夜のことだ。
 カルロが寮生活をするトリエステからブレットが入院しているミュンヘンまで、飛行機なら一時間ほど、価格にして550ユーロほどでたどり着くことが出来る。だがその金額は、士官学校で学ぶ傍らアルバイトで稼いでいるカルロには高すぎた。探せばより安いチケットもあるのだろうが、いかんせん手が届く桁ではない。
 空路を早々に諦めたカルロが選べるのは陸路しかなった。イタリアの国内列車やICE(ドイツ高速列車)を乗り継いで、10時間近い時間と睡眠不足、そしてエコノミークラス症候群も顔負けな全身の痛みとこわばりを引き換えに、カルロはここにいる。出費は飛行機の十分の一だ。
「昨日来れなくて悪かったな」
「いいさ。どうせ直前検査や準備で忙しかったんだ。むしろ今日で正解だったんじゃないか。昨日の見舞客とはろくに話せなかったから」
 何てことないと、目隠しをされたまま気丈にふるまうブレットに、かえってカルロの口が重くなる。陽の当たらない下水道、夜の裏通りの片隅。暗闇の恐怖なら、カルロにも身に覚えがありすぎる。それだけに、落ち着き払ったブレットの精神力には脱帽するしかなかった。
「なにはともあれお前に会えてよかった。ここまで大変だったろ」
 カルロが飛行機ではなく列車を使ったことを見透かして、ブレットは顔を向ける。包帯に彼の視線が阻まれて、見えているはずのカルロの方が焦燥を煽られた。
 闇は孤独だ。味もそっけもない病室という箱の中で、ぽつんと一人ベッドから身を起こしているブレットは傍から見ていても寒々しい雰囲気がある。病室の壁は白く、四方上下から押し迫ってきそうな膨張色もカルロは苦手だった。
 触りたい。
 ひとりぼっちで、小さな箱に圧縮されてしまいそうなブレットを前に、カルロは強烈な欲求に襲われる。元より会うたびに飢えているのだ。けれど相手は病人で、術後間もない身で、おまけに目が不自由ときている。衝動に突き動かされるままに無体を働くには、場所も相手もカルロには分が悪すぎて、暴れたがる腕の持っていき場がない。しかたなくベッドの縁に手を置いて、固めのシーツの織り目をたどる。その手の動きは、おちつかない気配を隠さなかった。
「カルロ」
 名を呼ばれて、カルロはせわしない手を止めた。代わりにシーツの上を別のものが滑って、カルロの手に近づき重ねられる。ブレットの手のひらの温度が、じわりとカルロの手の甲に染み込んでいった。指の股に彼の指が入り込み、寄り添う親指にカルロは反射的に自分の親指で応じる。同じ形の手が握り合う形は不格好だった。それでも、互いの力の強さが胸を打つ。
 体を傾けた、ブレットの気配がすぐ傍にあった。
「お前の声が聞けてうれしい。傍にいる気配がするのも」
 電話とはまるで違うと、顔のすぐそばではにかむブレットにカルロの理性の針が限界値にふれる。振りほどいた手で病院着をまとった肩を引き、逆の手で包帯に邪魔されない顎を掴み寄せる。小さなおとがいの骨が指の力に軋むのも構わず、その上に鎮座する唇に食らいついた。
「んっ……」
 強引で不意打ちのキスに、視界ゼロのブレットはしかし臨機応変に対応した。両手でカルロの頬や銀のうなじを捉え、こちらも離すまいとホールドしてくる。これまで重ねたキスの回数は伊達ではなくて、それだけに相手の感触をもっともっとと欲しがる衝動に歯止めが効かない。互いの鼻頭が頬に埋まってできる距離が邪魔だ。少しでも深く重なり合える角度を二人は唇を擦らせながら探った。
 ブレットが頭をがっちりと固定してくるおかげで、顎にやった手を離してカルロは彼の背中に強く這わせる。別の手も腰に回して、ベッドから力ずくで引き寄せた。ほとんどブレットの上体がベッドからはみ出す形で、頭から胸板までをぴったりと寄り添わせる。鼻息さえ混じり合わせて、ようやくいつもの形に落ち着いた二人は舐りあうキスの感触を味わうことに専念した。
「う、ん……ふっ、うっ……」
 二枚の舌は絡み合い、擦れあい、互いの口腔を繋ぐ橋と化していて境目もあいまいだ。カルロが舌を引けば、ブレットのそれが離れたくないと追いかける。あっさり迎え入れた肉塊を甘噛みすると、罠にかかったブレットが背筋をぶるりと震わせた。
 逃がさないように歯で挟み込んで、根元から引き抜く勢いで吸い上げれてやれば、ちゅるちゅると流れ込んでくるブレットの唾液に、媚薬でも飲んだかのようにカルロのうなじが燃え、理性が焼き尽くされる。
「ふっ、ふぅ、う……、んんっ」
 ブレットの舌の愛し方は、彼のペニスを可愛がる要領と同じだ。熱く擦って、ちょっといじめて、強くすすり上げる。それだけでブレットは月面色の瞳を涙の海に落し、そのしずくを切れががった眦から下界にこぼす。清楚なカグヤ姫が流す淫靡な涙はカルロのお気に入りで、舌でなめとってやれば、ブレットは目元を赤く染めた瞳をいっそう蕩かせてカルロを見上げるからもうたまらない。何度マナー違反を指摘されようと、キスのさなかに彼を見つめずにはいられないのはそのせいだ。
 カルロの征服欲を何よりも満たすはずのその眼差しは、けれど今はコットンの布に覆われている。無粋なことこの上ないメッシュ生地をカルロは彼の顔から引きはがしたくてたまらなくて、出来ないもどかしさを唇の愛撫にぶつける。唇がわずかに離れる一瞬に、あえかに漏れる喘ぎ声すら飲み乾しながら。
「ぁ……、んっ、う……」
 疑似的なオーラルセックスでブレットを責め続け、カルロは椅子から立ち上がった。唇はブレットが意地でも離さないから、のけぞる背中を支えて彼をベッドに横たえる。枕に乱れるブロンドは、病院の安っぽい室内灯にも美しいのに、官能的なムーングレイの不在が物足りなかった。
 シーツの縁に膝をかけ、彼の体を覆い隠すように身をのりあげれば、カルロの劣情を燃やしていた唾液が今度は舌の橋を伝ってブレットに流れ込む。カルロの分を上乗せした耽美な体液は、ブレットの喉の奥にたちまち吸い込まれていった。ベッドに片肘をついたカルロは、病院着に隠された肌を暴き始める。
 ブレットの表面は、唇以外の場所でも驚くほどよくカルロの肌に吸い付く。手のひらや胸板で愛撫してやるだけで、汗ばんだ肌同士が溶け合いそうなほどよくなじむのだ。
 行為の最中、ブレットはしばしばカルロにこう尋ねる。
『なあ、俺、どうなってる? 今、どうなってる?』
 下からの突き上げに揺すぶられながら、快感の波にたゆたって喘ぐ彼の気持ちがカルロはわからないでもない。それくらい二人の境目は曖昧で、平時の温度差が嘘のように体温は高い点で混じり合う。
 均整の取れた肢体をいいように弄びながら、カルロは「大丈夫だ」と告げる。どれだけ深く繋がっても何度貪っても、ブレットの体はその輪郭を保ち、頑ななまでにブレットでありつづける。鎖骨や肩のあたりから首筋と言わず頬と言わず真っ赤に火照る肌、ペニスから溢れる先走りで濡れた腹筋、カルロの肩に担がれて揺れる足首の固さまで、決して彼個人から崩れ落ちたりしていなかった。
 そうしてブレットの恥態をカルロが事細かに描写する度、彼は小さく笑うのだ。
『なんだ、残念』
 今なら、お前と一つになれそうなのに。
 愉快げな中にも照れを含んだ、どこか残念そうな冷めた微笑を、カルロはことのほか愛している。
「ぅん……んふ、ん……あ……」
 重力の力を援軍にキスを深くするばかりのカルロに、頭を抱えていたブレットの手が抵抗を示す。彼が音を上げるにはまだ早いタイミングだが、見えないことでいつもと勝手が違うのかもしれない。大人しく頭が持ち上げられると、必然的に唇が離れ、透明な糸がブレットに向けて落ちながら切れた。
 息が、酸素が足りないことに気づくのは、いつもキスを止めた後だ。キスの最中はキスが息でキスが酸素で、呼吸なんて忘れるほど夢中になる。窒息だって本望だ。だが、ブレットはそうは考えなかったのだろう。彼の中に残る理性のしぶとさが、カルロには憎くてたまらない。
 揃って肩で息をしていると、ブレットが鼻先をさまよわす。呼ばれた気がしたカルロも鼻で応え、二人は鼻頭をくっつけあった。
「母が、ドイツ(こっち)に、ずっと付き添ってて……」
 たまたま席を外しているがいつ戻ってきてもおかしくないと告げられ、カルロは思わず舌打ちをする。最後までいたさなくても、病室のベッドでこの状況はそれだけで十分言い訳には困るだろう。わかりやすいカルロの不機嫌にブレットが肩を震わせて笑うから、余裕のなさを指摘されたようでカルロは鼻白んだ。
「てめぇだってヤりてぇんだろ」
「ああ、先月会ってて助かったな」
 7月にカルロは半ば強引に渡米させられている。邪魔の入らないブレットのひとり暮らしの住まいで、時間と体力が赦す限りセックスに明け暮れた。おかげでこうして今、(下手をすれば半年以上お見限りになる二人にしては)人間の皮をかぶっていられる。
 病室で目隠しというレアなシチュエーションを前にしながら、新境地を開拓しそこねたとカルロが愚痴れば、目隠しの方なら退院してもできるとブレットは普段通りの度胸の良さで応じた。
「見えないと他の感覚が冴えるんだ。いつもより感じるかも」
 カルロの髪を優しく撫でながら、目鼻の距離で甘く囁くのだからたちが悪い。
「煽るな、バカ」
 軽く額をはたいて、人間でいるためにカルロは身を起こしてベッドを降りた。べたついた口元を服の袖で拭いあって、いつでも離れられるように腕だけ回して抱き合う。目が見えなくて、ちょっとした動作も覚束ないブレットの頭を抱え込んでカルロは話題を変えた。
「ドイツのやつらは知ってんのか、俺らのこと」
「なんでまた?」
 腕の中で首を傾げるブレットに、カルロは数日前にかかってきた電話のことを打ち明ける。
『ミュンヘンまでの飛行機代、僕が援助してあげよっか』
 受話器から聞こえるミハエルの声は、初対面から五年が経とうというのに変化が少なく、あの当時の無邪気な笑顔がそのまま目に浮かんできそうなほどだった。
『ボンボンは死ね!』
 そう叫んで叩ききった電話はまたすぐにけたたましく鳴り響く。しつこさに負けて応答すれば、彼は「会いたいんでしょ」とシンプルな爆弾を投げ込んでくる。
 ミハエルが一体どうやってカルロの居場所をつき止め、彼の経済状態や電話番号(カルロがミハエルの電話を受けたのはトリエステの寮でのことだ)を調べ上げたのかはこのさいどうでもいい。「どうして俺に?」と尋ねるカルロに、ミハエルはこう答えた。
『シュミットが、君に連絡したほうがいいんじゃないかって』
『なんであいつが直接しねぇんだよ』
『君とは話したくないんだってさ』
 相変わらずオブラートに包むことを知らない無垢なる少年は、ストレートな表現でシュミットの敵意を伝えてきた。最終的に援助の申し出はすっぱりきっぱりばっさり断ったカルロだったが、シュミットがなぜブレットの手術にカルロを呼びつけるように指示したのかが気にかかる。二人の理(わり)ない関係を、ブレットがカルロの承諾なく吹聴してまわるとは思えない。相手がカルロを知っていればなおさらだ。
 カルロの話を聞き終えて、ブレットは少し考えるように顔を傾けた。
「あいつには……、シュミットには俺は何も言っていない。だが、察しているだろう。アメリカ大会の頃、俺がお前にちょっかい出すのが気に入らなかったようだから」
 ブレットとカルロの出会いは日本のWGPで、関係の変化が訪れたのはアメリカ大会でのことだ。当時、バトルレースを放棄したばかりのカルロの評価は二分され、かつ揺れていた。ブレットはカルロと正面から関わろうとする少数派に属していて、レース以外ではなるべくカルロと接触すまいとしていたシュミットからは「警戒を怠るな」と再三再四忠告を受けていたのだそうだ。まさに苦言を呈すると言った様相で、ブレットに説教を垂れるシュミットの姿は想像に容易かった。
「小姑が多いな、お前の周りには」
 事実、二人はアメリカ大会中にひと悶着を引き起こした。それが現在の関係に繋がっているのだから、シュミットの見立てはことごとく正しかったことになる。
「それにあいつはホモが嫌いだ」
「ああ? わかるように説明しろ」
「鍵はエーリッヒさ」
 シュミットとエーリッヒはアイゼンヴォルフ以前からの幼馴染で親友だ。そのせいか、過去に二人は何度も特別な仲を疑われてきたのだと、ブレットはそのあたりの事情に疎いカルロに敷衍する。
「その根も葉もない疑惑のおかげで、エーリッヒが交際していた女性と破局寸前まで追い込まれたことがあってな。幸い丸く収まったが、以来このテの話はヤツの前じゃご法度なのさ」
 ホモフォビアになるのもさもありなんと、ブレットはシュミットに同情を寄せる。なるほど。自身が事実無根のレッテルを貼られ、親友にこれ以上ない迷惑をかけたある特定のセクシャリティに、新大陸における親友と言って良いブレットが陥った。その上、パートナーが信用の置けないイタリア人とくればシュミットの癪に障りまくるのも当然だろう。
「ミハエルにお前のことを頼んだのも『関わりたくないがほっとけない』ってところだろう。義理堅い奴なのさ」
「人選が嫌がらせに思えんのは俺だけか?」
 例えば交通費の援助を仲介したのがエーリッヒであったなら、カルロのプライドを刺激することなく話をまとめられたかもしれないのに、よりにもよってミハエルに依頼したあたりうがってしまう。WGP時代の人間関係が想起されたのか、ブレットは愉快そうに口元をほころばせるだけでコメントは差し控えた。
「シュミットと言えばさ」
 カルロの疑問を解消したブレットは、カルロの肩に包帯を巻いた頭を預けて新しい話題を口にする。
「あいつに歌の英訳を頼んだんだ。何せ目が見えないと暇だろ。丸一日ラジオ聴きっぱなしだ。で、流れるドイツ語の歌の歌詞が気になってな。引き受けてくれたのはいいんだが、あいつ、英訳した歌詞カードを置くだけ置いて帰ったんだぜ。どう思う?」
 読めないだろ、とブレットは自身の包帯を指さした。彼の不平より、シュミットが訪れた一昨日にはすでに彼の視界は閉ざされていたことに、カルロは眉をひそめる。今日で三日目、包帯が取れるのは二日後。少なくともあと丸一日以上、彼は暗闇に耐えなければいけなかった。
「さっさと治せってことだろうが」
「カルロはドイツ語わからないのか、アルプス挟んでのお隣さんだろう?」
「フリューゲルとラケーテしか知らねぇ」
 懐かしい技名にブレットが顎を上げて笑う。笑っている彼は良い。彼が笑っている姿を見ているだけで、カルロの気持ちが安らぐ。だがその次の瞬間、ブレットは突如口を閉ざし、表情を殺した。常に雄弁な彼の眼差しが見えないだけ、その沈黙と無表情はカルロの不安を掻きたてる。包帯を巻いた横顔は、いつでも遠くを見ているようで、彼の意識にちゃんとカルロが存在しているのかわからなくなる。
 ブレットは、ぽつりと呟いた。
「……別に、暗闇自体は大して怖くないんだ。視界を奪われるパターンを、想定した訓練もあるからな」
 カルロの動揺をよそに、ブレットの声は淡々としている。鋼の神経と鉄壁の理性、いつだって冷静沈着な判断力が、今も昔も変わらない宇宙飛行士ブレット・アスティアの真価だ。
「目隠しでコックピットの絵を描いたり、操作を命じられたことだってある。『見えない』ってことは、宇宙飛行士には特別じゃない。そもそも宇宙は真っ暗だ」
「今はどうだ」
「不安だらけだ」
 ブレットの答えに、カルロは反射的に抱きしめる腕の力を強くした。カルロの腕に収まるのは、目や顔にメスを入れられると言う恐怖の体験を終えたばかりの17歳なのだと気づかされる。
 ミハエルが紹介した医師の腕は折り紙付きだ。手術自体、全身麻酔で気づけば終わっていた。けれど麻酔から呼び覚まされたとき、まだ何も見えない現状には少なからずショックを受けたとブレットは語る。
「世の中に絶対なんてことはない。どんなに腕が良くとも人はミスをする生き物で、医者は神様じゃないからな」
 実はもうこの目は何も映さないんじゃないか。包帯を外しても闇は続くんじゃないか。宇宙飛行士なんか諦めて、地上で生きる選択をしてればよかったんじゃないか。
 科学の信奉者として、徹底的な現実主義の元で考え行動する宇宙飛行士たらんとしてきたブレットは、視力を奪われ、心の闇に取り残され、ひとり不安に漂っていた。
「この包帯をとって、最初に見えるのがお前の顔ならいい」
 この面会が終わればカルロはイタリアにとんぼ返りだ。ブレットが包帯を外す予定日には、訓練のスケジュールが入っていてトリエステから動けない。それでもブレットがねだるなら、金も背骨も教官からの評価も犠牲にしたってかまわないと思う。そんなことを申し出たところで、目の前の男は喜ぶどころか怒りだすに決まっているだろうけれど。
「眠りから覚めたとき、最愛の人と見つめ合うのはロマンスの定番だろ。なのに、俺が見るのは医者のペンライトだぜ。情緒に欠けると思わないか」
 愚痴嫌いのブレットが、今日はやけに愚痴っぽい。きっと他の見舞客には気丈にふるまっているのだろう、病室を尋ねたばかりのカルロに対してしたように。そして実の母がそばにいたところで、彼のプライドは頑ななまでに「宇宙飛行士ブレット・アスティア」を崩したがらないことも目に見えていた。
「ペンライトが見えるだけでも、御の字と思うべきかのか? なあ、カルロ」
 カルロだけだ。カルロが傍にいるから、彼は限りなく弱音に近い不平不満を口にするのだ。だからカルロは金も背骨も教官からの評価も犠牲にできないかわりに、抱きしめた彼の肩や腕をさすって慰めてやる。それが今の自分にできる精いっぱいだということに、悔しさばかりが沸き起こったとしてもだ。
 ブレットが身をよじり、包帯を巻いた顔でこちらを見上げる。ややきつい抱擁から抜け出した手が、カルロの顎に触れてきた。
「こんなに近くにいるのに、お前の顔が見えない」
 ブレットの形の良い指がカルロの顎の輪郭線をたどる。たどりついた耳たぶにはまったピアスを、彼の人差し指が弄んではまた耳の縁を撫でていく。彼が触れたピアスの石が、ブレットの瞳によく似た薄いブルーをしていることも今の彼は知ることが出来ない。生まれついての知りたがり屋で、とりわけカルロのことならば何だって知っていたがる彼なのに。
「もっと触っていいか、見えない代わりに」
 視力を補う申し出は、当然の成り行きだろう。
「ご随意に、カグヤ姫」
 微笑むカルロの皮膚の歪みがブレットの指先にも伝わったろう。キスのときよりもずっと優しい力で、ブレットの手のひらがカルロの頬を包む。基礎体温の違いだろうか、ブレットの肌はカルロにはいつでも温かく感じられる。穏やかな時間にはぬるま湯に浸るように、激情のひと幕には触れた場所から爛れてしまいそうなるほどに。今は前者の穏やかな温もりに、カルロのうりざね顔が包み込まれていた。
 ゆっくりと、親指の腹が小鼻の脇や目の際を滑っていく。眉毛の形、睫の生え際がくすぐられ、頬から離れた手のひらで額を撫で上げられた。そしてブレットの五指が、ゆっくりとカルロの顔の上を縦に降ろされていく。まるで指先に備わった高感度センサーで、彼の記憶の中に取り込まれていくような感覚にカルロはわずかに身震いをした。
「お前って、ラテンって感じじゃないよな。男前には違いないが」
 十分なスキャンが済んだのか、ブレットから告げられた感想にカルロは「そりゃどーも」と気のない返事をする。イタリア人にしてはカルロは色素も体毛も薄く、顔の堀も深くないのは事実だ。
「スカンジナビア? ノルディック(北方人種)な雰囲気だ」
「親がそうかもな、覚えてねえけど」
「知りたいとは思わないのか」
「この会話、前にもした記憶があんのは気のせいか?」
 ブレットが恋人のルーツを知りたがるのはよくあることだ。移民の国アメリカでは、自分のルーツを知ろうと行動することは歓迎される価値観であるらしい。現に親族のいないブレットの父親も、成人後に染色体を使った検査によって自らのルーツがイギリスであることを突き止めたそうだ。
 今どき調べる方法ならいくらでもあると、そそのかすブレットにカルロはいつもこう答える。
「ロクなことになんねぇよ」
 ルーツが辿れるなら、生みの親を探し出すことも可能だろう。そのどちらもカルロは望まないし、恐ろしいとすら感じている。そんなことをしたら、親に捨てられて十数年、ようやく確かになってきた足場がまた揺らぎそうになる。
 カルロが抱えるパンドラの箱を、しかし目の見えない宇宙飛行士はどうにか開いてやろうとやっきだった。
「何言ってるんだ、自分がどこの誰なのかわからないこと以上の不幸はないぞ。例えお前が貴族の御落胤だろうが、国を追われた犯罪者の子孫だろうが、その価値は受け取り方次第で変わるものさ」
「どんだけ前向きなんだよ、お前」
「怖いから前を見るんだ、そうだろう?」
 と言われてもすぐにはカルロは応じかねる。先ほどまで闇が怖いと怯えていたブレットから、発せられるパワフルな感情。そのミスマッチに戸惑いは募る。
「…………」
 なんとなく、なんとなくだが、この病室を訪れてから、カルロはずっと尻のおさまりが悪い感覚に囚われている。ブレットとの、距離感がつかめない。再会の空港で、会えない電話のやりとりで、熱を分け合うベッドの中で、いつだってしっくりと噛み合っていた間合いが見えてこない。
 返事に窮するカルロを、ブレットはせかすことなく待っている。会話のない小さな個室を、ラジオから流れるドイツ語が満たしつつある。二人にはわからない言語の響きがふと途切れ、隙間を埋めるようにピアノの音が始まった。その音に、ブレットの気がそれる。
「ああ、この曲だ」
 ゆったりとしたピアノ伴奏に、女のアルトがかぶさる。少しハスキーなドイツ語はやはり理解できなかった。この部屋のどこかにあるという、シュミットが英訳した歌詞カードを読めばわかるだろうか。だがブレットは歌詞カードを探せ、読め、とカルロに命じるわけでもなく、かといって歌声に聞き入るわけでもなく肩に預けた頭をのけぞらせて天井を仰いだ。
「ドイツは飽きた。イタリアに行きたい。ISA(イタリア宇宙機関)が新型ロケットを開発中だ」
 ドイツ滞在はまだ一週間も経っていないというのに、もうロケットが恋しくてたまらない様子の宇宙飛行士はわがままを言う。だが、ブレットが本当に言いたいことくらいは、カルロも承知している。
 カルロの、傍にいたい。
 顔が見たい。目を見て話したい。濃度の違う二色の青を互いの瞳に溶け合わせたいのだというブレットの願いに、カルロは自分の中の違和感の正体を悟った。
 初めは、この殺風景な病室がいけないのだと思った。次に、術後の痛々しさをこれ見よがしに伝えてくる包帯が気に食わないのだと思った。だが、カルロを追い詰める不穏さは、もっとシンプルなところにあった。
 ブレットの、瞳が見えない。あの、カルロの愛する月色の瞳がここにはない。そのことにカルロは本人以上に動揺していた。分厚い偏光ゴーグルをかけていたころでさえ、彼の瞳にはカルロの姿があったというのに、この現状はどうだ。闇夜に光るムーングレイの真ん中に、自分が映らないことにカルロは不安に苛まれている。
 キスがしたい。もう一度。
 唐突にカルロはブレットを欲した。けれど何度唇を重ねて舌を食み合ったところで、ブレットの眼差しに自分が映らなければこの不安は消えないのだろう。第一、彼と唇を重ねようものなら、今まさに病室への廊下を歩いているかもしれない彼の母親の存在など、カルロの頭から吹っ飛んでしまう。
「おふくろさん、どうすんだよ」
「それが問題だ」
 カルロの劣情をよそに、ブレットは無邪気に肩をすくめる。なんだかんだで母親想いの彼に、母をひとり放ってドイツを抜け出すような真似はできない。大人しく研修を受けてアメリカに帰るんだなと言えば、つれない奴だと拗ねられた。
「ヨーロッパ(ここ)にいる間は、俺がお前に会いに行ってやるよ」
 トリエステからミュンヘンまでのフライト代も出せない貧乏士官候補生に、大西洋を渡るなんて夢のまた夢。いつだって逢瀬はブレット頼みで、そのことにずっと忸怩たる思いを抱えていた。ならばせめて彼がこの古い大陸にいる間だけでも、同じ時間を過ごす努力は自分がしたい。カルロを待ちわびて、彼の瞳のお月様が輝く瞬間が見られるのなら、十時間の列車旅も背骨の痛みもいかほどのものだというのか。
「なら今年はドイツで、お前の誕生日を祝おうか」
「ビールとソーセージで?」
「こら、未成年。バームクーヘンとプレッツェルに決まってるだろ」
 カルロは胸を、ブレットは肩を揺らして笑う。

 Auch im Regen
 Auch im Regen
 Siehst du mich

 アルトの歌声が聞こえる。偏った単語しか知らないドイツ語の響きの中で、"Regen(雨)"の単語がカルロの琴線に触れては落ちる。どんな雨の中でもブレットはカルロを見つめ続けてきた。あるときはゴーグル越しに、またあるときは涙に濡れて。
 その青灰色の眼差しが一刻も早く彼の元に返されますように(それは取りも直さず、カルロの姿が月色の瞳の中に戻るということだ)。そう願いをこめて、カルロはブレットの肩を抱く。

 Auch im Regen
 Selbst im Regen
 Find ich dich...

「最初に見るなら、お前の顔が良い」
 ブレットがカルロの手を握る。同じことを繰り返す彼を、勇気づけるようにカルロは強く握り返した。
 闇に浮かぶ不安の小舟に、勇気の風は弱すぎて、安息の陸地はまだ姿を見せない。ブレットの母が病室の扉をノックするまで、二人は異国の音色の中で怯える体を寄せ合っていた。




 ラファエルは来ない
 (早く、早く、俺を見てくれ)





++++++++++
ラファエル=癒しの天使

ということで初のドイツネタ!(なのに室内!) 8月にもかかわらずカルロの誕生日スルー!!(なんたること!!)
たぶんこの話設定した当時は、8月に入ってすぐブレット渡独、手術うんぬんで包帯が取れる日=カルロの誕生日、ってイメージだったんでしょうね。話書いてるうちに、どんどん逸れて行って肝心の誕生日スルーですよ。
ちょっと不満が残りますね。書き直すかも。とりあえず、「Please kiss me~」のネタフリを回収できたところは良しとしましょう。

「アメリカ大会で二人が起こしたひと悶着」については、きちんと形にしたいと思います。
カルブレ時系列にある「WGP2 8月 ?????」に相当する部分です。近いうちに、必ず。

イタリアの宇宙機関が作ってるのは、ヴェガロケット。4段式の小型(?)輸送用ロケットのようですね。バックブレーダー4台あったらヴェガフォーメーションができる!(どうでもいい)

挿入歌はドイツのポップスユニットであるRosenstolzが歌います「Auch im Regen(雨の中でも)」。
和訳サイト探しましたが見つけられませんでした……orz 歌自体はようつべで聴けます。
カルブレソング候補その2。ブレット→カルロだな。(その1は前作のあとがきでご紹介済み)
ドンピシャ率は候補その1より劣りますが、自縄自縛になってるカルロに俺が見ててやるからこっちに来いよ、ってブレットが言ってる感じとしてはカルブレかな~と。
なにより、Auch im Regen Siehst du mich(雨の中でも お前は俺を見つめてる)って歌詞が好きなのです。
カル→ブレソングやカル→←ブレソングはどこかに落ちてないものか……!

最後にシュミットをホモフォビアにしてごめんなさい。

2015/06/06 サイト初出。

2015/06/06(土) レツゴ:チョコレートナイフ(カルブレ)
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