※未来時制。カルロ13歳、ブレット14歳。
※第三回WGPはドイツ開催(ねつ造)
※アメリカでの第二回より、選手の年齢制限は12歳から14歳に引き上げられました(ねつ造2)
※カルロとブレットのお初話(本番なし、エロ要素ゼロ)
※タイトルは「21」さまより。






 ドイツの冬は寒く、深く、そして静かだ。四方を囲む静寂と雪景色。クリスマスツリーのイルミネーションが窓からもれ落ち、降り積もった雪を溶けかけたドロップのように照らす。
 ミニ四駆世界グランプリは、日本、アメリカの次にドイツを開催国に選んだ。ドイツの長く厳しい冬の寒さの中、第三回大会はすでに終盤にさしかかっている。ポイントに関わらないエキシビジョンマッチを除けば、年明けに上位四チームによる決勝レースを残すのみだ。
 緊迫の年の瀬に、グランプリレーサーが集う寄宿舎は騒々しい。決勝に駒を進めなかったチームが気楽さを満喫しているだけならまだしも、上位四チームの選手までが浮足立っているのは、明日に迫るクリスマスのせいだ。
 クリスマス前のアドベント(待降節)はドイツでもポピュラーで、寄宿舎でも週末ごとに何かしらの催し物が提供されてきた。とりわけ今夜はイブだ。グランプリレーサーの多くを占める欧米出身者にとってクリスマスは家族で静かに祝うものだが、今年は大会スケジュールに拘束されてそれが叶わない。家族に会えない寂しさにお祭り好きな日本チームの扇動が加わり、寄宿舎のホールではまるで年越しパーティのようなドンチャン騒ぎが始まっていた。
 カルロは、クリスマスに見向きもしない少数派のひとりだ。日暮れ前には、関わり合いは御免と部屋にこもっている。
 カルロにとってのクリスマスは、寒さと戦う季節の真っただ中で、売れ残りのケーキやチキンといった「上等な」生ごみに巡り合える日であり、あたたかな明かりが灯る家族の団らんを窓の外から覗き込む日だ。世界は、カルロのいないところだけ美しい。そう思い知らされる日に他ならなかった。
 幸福な世界に縁などない。歳月を重ね、冬の寒さに怯えずに済むようになれば、クリスマスに感じる焦燥も飼い慣らすことができた。ドンチャン騒ぎも家族の食卓も、自分には無関係と割り切ってしまえば、何てこともない。
 何てことも、ないはずだった。
「くそっ」
 そうやってやり過ごしてきた聖夜に、ナイフを研ぐ手が鈍る苛立ちをカルロは悪態に託す。またひとつ、遠くで軽やかな笑い声が響いた。
「…………」
 手入れもそこそこに、ナイフを投げ出したカルロは瞼を閉じてベッドに倒れこむ。眠ってしまおう。そう思って腕を枕に横たわるが、神経過敏になってしまった耳は外の音を拾うことを止めない。誰かが冗談でも口にしたのか、また、どっと弾けるような笑い声がした。
 閉じたばかりの瞼を開く。明るい夜だった。天井を向いていた目線を流せば、カーテンを開け放しにした窓が見える。ラビッシュな装いのある窓枠が、ドイツの冬の夜空を切り取っていた。
 アンティークショップに飾られる絵画のような夜空に、月がある。まるまると太った青白い月だ。あの丸さは満月のそれなのか、それともまだ少し欠けているのか、知識のないカルロにはわからない。
 あいつなら、知っているだろうか。
 冬の空に浮かぶ青灰色の光は、カルロにひとりの姿を思い出させる。面影をはっきりと描きそうになって、カルロは月から目をそらした。
 ブレット。
 星を愛し、漆黒の闇に飛ぶことを夢見る彼。月の瞳を持つ彼の名を紡ぎそうになる唇を、カルロは戒めるように噛みしめた。



 ペシミストの救済



 ベルリンで催された第三回WGPの開会式、アメリカ代表・アストロレンジャーズのメンバーにブレットの姿はなかった。第一回、第二回大会とアメリカ代表を引っ張ってきたリーダーの不在を、真っ先に問いただしたのは怖いもの知らずの星馬豪だ。
「ブレットのやつ、遅刻かよ」
 からかう豪の口ぶりに、エッジが口角を上げる。空を突く赤い髪が目にも鮮やかな彼が返したのは意外な答えだった。
「ブレットなら来ないぜ。あいつはもう、アストロレンジャーズじゃないからな」
「どういうことだい、エッジくん」
 エッジと同じ赤い髪を持つ烈が、弟に続いた。
「ブレットくんはまだ十四歳だろ?」
 烈がブレットの年齢を気にかけるのは、大会規則を知っているからだ。第一回目の日本大会では、出場できるグランプリレーサーの年齢は十二歳までと制限されていた。その規則はアメリカでの第二回大会で改正、上限が十二歳から十四歳にまで引き上げられている。ドイツ大会はアメリカ大会の規則を踏襲しているから、年齢ではブレット不在の説明がつかない。事実、ブレットと同い年のハマーDはエッジの後ろにいる。
 烈に視線を向けられたハマーDは、肩をすくめた。
「N△S△も、いつまでもブレットを遊ばせとくのは勿体ないって気づいたのさ」
「あいつは今、MITの大学院だぜ。博士号狙ってんだよ、しかもダブルで。おまけに大学の方で特別講義持たされたり、N△S△に戻ればユースの訓練の手伝いしたり……。とてもじゃないが、マシンを走らせる暇なんかないね」
 優秀すぎるってのも楽じゃない、とエッジはブレットの多忙ぶりに同情的だ。
「しょうがないわよ、なんたってN△S△(うち)のエースだもの」
 苦楽を共にした仲間がチームを離れたというのに、ジョーは得意げだ。彼女に限らず、エッジもハマーDもミラーも、ブレットのことを語る顔にどこか自慢の色がにじんでいる。ブレットが自分たちを置いて次のステップに進んだことは、(途中にどんな葛藤があったにせよ)彼らの中ではすでに納得済みのことであるらしかった。
 むしろ、ビクトリーズの方が戸惑いは大きかった。とりわけ豪は、ドイツのミハエルに並ぶライバルの不在に、眉間にしわを寄せる。
「応援にも来ないのかよ」
 その点にはエッジも思うところがあるらしく、ゴーグルで覆った顔を俯かせた。
「アメリカならともかくドイツだからな。ブレットも来たいって言ってたが、あのスケジュールじゃ望みは薄いね」
「そんなに忙しいんだ……」
 ブレットの抜けたアストロレンジャーズとビクトリーズとの会話を、カルロは柱の陰から聞くとはなしに聞いていた。
「…………」
 早春のドイツの空はまだ曇りがちで、寒々しい。心にぽっかり空いた穴に冷たい風が吹き込んだようで、カルロは少し身震いをした。



 かつん。こつん。
 窓ガラスが、音を立てて震える。雨粒にしては随分とかたく強い響きだ。澄んだ月夜に雪ならばまだしも、まさか雹が降るはずもない。
 かつん。こつん。
 音は続く。カルロの部屋は二階だ。パーティに顔を出さないカルロに、誰か(ビクトリーズのマグナム野郎とそのとりまきくらいしか想像できない)がちょっかいを出そうと言うのか。だとすれば相当の命知らずだ。パーティの喧騒以上のわずらわしさに、ただでさえすり減っていたカルロの神経がプツリと切れる音がする。
 荒っぽくベッドから起き上がると、カルロは窓を開いた。渾身の苛立ちをぶつけた乱暴な扱いに、窓の上に積もっていた雪やつららが落ちる。そしてまた、かつん、と何かがぶつかる音と衝撃が、窓ガラスからカルロの手に伝わった。
 懲りもせず、どこのどいつだ。
 遠慮ない眼光を地上に突き刺す。だが、目に飛び込んできたものに面喰うのはカルロの方だった。
「よう」
 発せられた音節の響きは、その短さにもかかわらず知性の豊かさを印象づける。声を上げたのは、(おそらくカルロの窓から落ちた)つららが散らばる場所から二メートルほど下がった場所に立つ人影だ。
 夜陰に、赤みのないくすんだブロンドがきらめく。かかげた右手で人差し指と中指を揃えて立てる、気障なあいさつには見覚えがありすぎた。何より、月下に光るムーン・グレイの瞳が、彼を彼たらしめている。
「ブレット」
 いるはずのない彼の名が、カルロの唇からぽろりとこぼれる。その声を受け取って、ブレットはカルロの覗く窓の真下、寄宿舎の外壁に近寄ると、排水パイプを固定する金具に手をかけた。つららを踏みつぶし、突起物に足をかけて、左手をさらに上へ。宇宙飛行士の卵はボルダリング(ロッククライミング)までカリキュラムに入っているのだろうか、壁の凹凸を頼りに危なげなく登ってくる。
 ブレットが一階の窓枠の上辺部分に立ったあたりで、彼の目的地が自分の窓だと気づいたカルロは、慌ててブレットに腕を伸ばした。
「ロミオとジュリエットだな」
「お前んとこなら、トニーとマリアじゃねえのか」
 二人の手が重なり、きつく握りあう。ブレットが最後の足場を蹴り上げると、カルロは足を踏ん張って彼の体を引っ張り上げた。
 ひっきりなしに冷気が吹き込む窓を、カルロはぴったりと閉めた。窓を背中に、カルロは部屋をふり返る。窓から飛び込んできたブレットが、ジャケットやジーンズに着いた雪を払い落としていた。ブレットの体からカルロの部屋の床に、白い点が散る。セントラルヒーティングにあたためられた室内で、小さな雪の塊はすぐにとけて水に変わった。
「お前がブロードウェイ・ミュージカルを知ってるなんてな」
 ショート丈のダウンコートはワインレッド、ジーンズは色落ちしたインディゴブルー、雪の中を歩いていただろうブーツはランプブラックで、フードについたイエローオーカーのフェイクファーは雪に湿ってくったりとしている。ファッションに冒険心はないが、赤系とファーはなるべく外さないでおきたいというのは、ブレットらしい装いだ。一方で、去年までトレードマークだったゴーグルをしていないことが、「もうアストロレンジャーズではない」というエッジの言葉を裏付けていた。
 声も聴いた、手も握った。いでたちも彼そのもの。それでも、他人の部屋に泰然と立つ姿にカルロは怪訝な眼差しを向けずにはいられなかった。彼がここにいることを信じられない。
 部屋に招いたきり、一言も発しないカルロにブレットの口角が上がる。
「歓迎のキスもなしか?」
 気障ったらしいセリフと、それを強調する目線の動かし方、どちらも間違いなくブレットのそれで、本人と認めないわけにはいかなくなったカルロはぎゅっと眉をひそめた。
「アメリカのボウヤはご多忙で、応援にも来れねえって話は嘘か」
 二つの博士号を狙っているのだと、エッジは言った。初等教育もまともに受けていなかったカルロに、大学院だの博士号だのと言った話は遠すぎてイメージがつかめない。ただ目の前のブレットを観察して、決して生易しいことではないのだと察するのがせいぜいだ。
 去年のレースでは健康的に焼けていた肌が、月下であることを差し置いてもひどく白い。おそらく屋内にこもりきりなのだろう。頬のラインもシャープになった。成長期だからというより、筋力が落ちて痩せたのだ。
「心配してくれてるのか、カルロ」
「バカ言ってんじゃねえ」
 言葉とは裏腹に、彼の口からこぼれる自分の名に、カルロの胸が鳴る。カルロの鼓動を聞いたかのように、ブレットは瞼の厚い目を眇めた。
「俺は想ってたぜ、お前のこと」
 突然の襲来に続く、埒外な告白にカルロが怯む。こわばったカルロの肩に、ブレットは月明かりに溶けそうな笑みをうかべて追い打ちをかけた。
「メールもナンバーも渡したのに、まったくのなしのつぶてでもな」
 痛い所を突かれ、カルロは思わず備え付けのソファに目をやる。ソファの背には、ロッソストラーダの黄色いユニフォームがくったりとかかっていた。
「ほとんど一年前だ。俺は待ってたんだぜ」
 アメリカでのWGP終了直後、カルロのユニフォームの胸ポケットに押し込まれた一片の紙。名刺大のそれに書かれていたのは、十桁の番号といくつかのアルファベットと数字で構成されたメールアドレス。気持ちを押し付けるように、一方的に託されたそれが誰のものかなど考えるまでもない。
『何でも良いから、連絡よこせよ』
 いたずらな薄青色の瞳は、そう言ってイタリアに戻るカルロとの名残を惜しんだ。捨てよう、破ってしまおうとカルロが幾度となく考え、その度に脳裏をかすめてきたムーン・グレイ。とうとう捨てられることなく、かといって目的を果たすこともないまま、ポケットにしまわれ続けた紙切れ。気づけば、ブレット不在のドイツ大会で、それはお守りのようにカルロの心臓に寄り添っていた。
 そんなカルロの秘密を、ブレットは暴かない。
「お前は元気なのか? 背は伸びたろ」
 このままじゃ近々追い越されるか、と案じる声はやわらかい。なんのてらいもなく他人を心配できるブレットの健やかな心は、とげを立てたカルロの神経を毛布のように包み込むことができた。だが一方でカルロは、見返りを求めない優しさが大嫌いだ。相反する心の動きは、カルロを右へ左へとふりまわす。到底ブレットの問いかけに答える余裕などなく、カルロは逃げた。
「博士号はどうしたんだよ」
 この場合の逃げは、話題をブレットひとりに絞ることだ。
「エッジがしゃべったな。口の軽いやつだ」
「あいつらはお前がドイツ(ここ)にいるのを知ってんのか」
「機内から電話してある。明日の朝には着くってな。だから……」
 あくまでもクールを気取るブレットは、ローティーンには見えない落ち着きぶりでカルロに目を向ける。だが、次に言葉を発する間際、ブレットが緊張に乾いた唇を舐めるのをカルロは見逃さなかった。
「ひと晩、かくまってくれ」
 このセリフに含まれた、ブレットの打算と不安のパーセンテージをカルロははじき出せない。探るようなムーン・グレイに、拒絶の言葉はついに吐けなかった。



 この世界にミニ四駆が、いや、WGPの存在がなければ出会うこともなかった。ブレット不在のドイツ大会で、カルロが痛感したのはそんな当たり前のことだった。
『ブレットは大学院さ』
『なんたってN△S△(うち)のエースだもの』
 盗み聞きした会話は、カルロとブレットの生きる世界の違いを如実に語る。片やイタリアのスラム街上がりのチンピラ、片やアメリカがが誇るN△S△の箱入り息子。それがカルロとブレットに与えられる社会的な評価だ。
 ミニ四駆に対する姿勢も思いも、二人はまるで違う。カルロは、劣悪な環境から這い上がる手段としてミニ四駆を用いた。カルロにとってミニ四駆は生きる術であり、自分の存在を世間に認めさせることのできる唯一の方法だった。対するブレットといえば、宇宙飛行士を目指すエリートで、ミニ四駆はカリキュラムの一環でしかない。そのカリキュラムすらN△S△の大人が勝手に決めたことだ。
 そんな二人の眼差しが、WGPで交錯した。アメリカで、N△S△がアストロレンジャーズの出場を認め、イタリアで、ドンが賞金と名誉を約束してカルロにロッソストラーダの世界制覇を命じた結果だった。
『宣誓!』
 高い台に立ち、右手を掲げて立つまっすぐな背中が、出会いだった。好きになれない日本の湿度の高い空の下で、ミニ四駆はまたしても、カルロの人生を大きく変えたのだ。
 そのミニ四駆とも、今年のWGPの結果にかかわらず、カルロは手を切らなければいけない。
『カルロ、お前には新しい仕事を任せたい』
 ドンがカルロに用意した「仕事」について、想像は容易かった。これまで数多くの身寄りのない子どもに救いの手を差し伸べてきたドンだが、それが道楽ではないことはカルロも先刻承知だ。三度にわたるWGPを通じて、ドンはカルロの度胸や能力を自分の「本業」に資すると判断した。
『これまでの借りを返せ』
 テレビモニター越しのこもった声は、カルロを裏社会に引きずり込む。
「カルロ?」
 自分の名に、カルロは記憶の海から浮かび上がる。自分に向けられたムーン・グレイの瞳に、今夜は月が三つも出ていやがるとカルロは幻想に酔う。外は一面の銀世界。天上に太った月が輝き、雪を照らすカラフルな光はクリスマスの祝福を表す。世界はきっと、カルロのいないところで美しい……はずだったのに、目の前の男から放たれる月明かりはカルロの立つ闇にまで差し込んできた。
「俺は迷惑か? ならそう言え」
 強気な口ぶりも、クールが売りのブレットにはらしくない卑屈さがうかがい知れる。小脇に抱えるダウンジャケットは、品質の良いものに違いない。彼には、それをまとうにふさわしい出自がある。
 綺麗なブレット、優れたブレット、この世の光を集めたようなブレット。ドンの求めるままに闇に身を堕とせば、二度とブレットと会えなくなる。彼の美しい月の瞳に、闇に染まった自分の姿は映せない。また彼の姿を、自分の瞳が映すべきでもない。
 電話? メール? 冗談じゃない。
 大西洋を越えて、ブレットに伝えられるような、美しい言葉などカルロは持たない。
 託されたそれは一年間使われないまま、それでも後生大事に持ち続けたのは、それがブレットのくれた真心だったからだ。カルロと繋がっていたいという、まぎれもない彼の意思表示であったから。電話もメールもよこせなくても、この紙切れさえ持ち続けていれば、一度絡まった時間の糸はほどけないと夢見ていたかった。この世にミニ四駆が、WGPがある限り、ブレットと巡り合うことは簡単だと盲信していた。
『お前に、新しい人生をやろう。カルロ』
 ドンの命令は、カルロの夢を切り裂くには十分すぎた。
 会いたいって? どのツラ下げて?
 元気かってお前に問い返されたとき、俺はなんて答えりゃいいんだ。この大会が終われば、俺はお天道様と縁切りだなんて、お前に聞かせて何になる。
「悪かったな、わずらわせて……」
 カルロの沈黙こそ答えと受け取り、ブレットがカルロに背を向ける。脱いだばかりのダウンジャケットを手にした背中に、二年前、宣誓台で見たまっすぐなそれが重なって、カルロは手を伸ばした。
 欲しかった、ずっと。通り過ぎる人たちからの視線が。路傍にうずくまる小汚いガキに、目をくれる者などいない。例えカルロが足に飛びつき慈悲を乞うたとして、まるで存在しないかのように通り過ぎられてしまうのがオチだった。
 欲しかった。明るい太陽の下で、できる自分の濃い影が。誰もがそこにいる者の声を聞き、立ち姿を見つめるその場所が。
『NAアストロレンジャーズリーダー、ブレット・アスティア!』
 自分がどこの誰なのか、声高々に響かせるあの場所が。
 金なんか、名誉なんか、あの場所に届くための踏み台に過ぎねえだろ。
 黒いレザーヨークのトレーナーに、覆われた腕を掴む。力任せに引き寄せ、バランスの崩れた体をベッドへと突き飛ばした。すかさず自分もダイブして、ブレットの体に覆いかぶさって逃げ道をふさぐ。仰向けに横たわるブレットの、ムーン・グレイがカルロを見上げて呆然としていた。
 そして、年季の入ったベッドの、長い長いスプリングの軋みが途絶えた頃、ようやく月面色の目を瞬かせてブレットは言った。
「連絡ひとつ、よこさないくせに……」
 耳に心地よいはずの彼の声が、少し掠れている。激情を押し殺したような声音に、これは相当根に持っているなと感じて、カルロはこみ上げる喜悦を口角に乗せた。
「ビビってんのか、ボウヤ」
 ボウヤとからかうたびに、年下のくせにとブレットが嫌がっていたのを承知でカルロはあえてそう呼びかける。案の定、ブレットの秀でた額にしわが刻まれた。
「何にビビるっていうんだ」
「ナニに、だろ」
 真下の顔にふっ、と息を吹きかけてやれば、とたんにブレットの手足に緊張が走った。
「ぶざ、け……っ」
 カルロの知るブレットは、こんなわかりやすい兆発に乗るタイプではない。冷静沈着さにかけてはグランプリレーサーの中でも群を抜いていた彼が、こうもたやすく頭に血をのぼらせるあたり、この手の分野には経験がないのだろうとわかってカルロは安心した。そしてすぐに、自問する。
 何に? ブレットの初めての相手になれることに?
 こいつが初めてじゃなかったら、俺は何を感じてた?
 黒いトレーナーの襟ぐりから、覗くブレットの首に触れる。屋外にいたはずのブレットの肌は、部屋にこもっていたカルロよりもずっとあたたかくて、その熱さにカルロは手のひらがただれるような感覚を抱く。逆にブレットは、カルロの冷たさに身をすくめたがかまわなかった。顎の下から鎖骨のくぼみまでを、指と手のひらで辿る。特別卑猥さをあおった動きではなかったが、ブレットは息をつめた。
 骨のくぼみに少し強く指先を押し付ければ、とくとくとブレットの脈動が感じられる。
 去年より、太くなった首と、日焼けの減った白い肌。変わらない理知的な面差しと、月明かりを映しこんだ瞳。健全で、健康で、秀逸なブレットのそれぞれが、今、カルロの眼下に差し出されている。
 欲しいと、思った。
 月の光をその身に宿しながら、太陽に、世界に愛された彼を。彼との、決して消えることのない繋がりを、カルロは渇望する。
「お前が欲しい」
 勝利より、名誉より、強く。
 ブレットは、カルロからの珍しく直截な言葉に驚き、だがすぐに顔をぎゅっとしかめて睨みあげてくる。押し倒された屈辱を跳ね返すように、彼はきっぱりと言った。
「だったら、先に言うべきことがあるだろう」
 今度はカルロが驚く番だ。肝心なことは何も告げず、欲をぶつける行動ばかりが先に立つ。自分の言動の支離滅裂さは、カルロだって自覚している。ブレットはもっとわけがわからないだろう。カルロの事情も葛藤も、何も知らないくせに、しかしブレットは「正しい手順」を強要する。冷静で仲間想いのリーダーは表の顔。時と場合がそろえば、マグナム野郎にも負けず劣らずの我を通すのがブレットだった。
 さすが、世界に愛された人間は、そうでないカルロとは発想が違う。自分が求めるものは、当然世界中の支持を受けるに違いないと信じて疑っていないのだから。その傲慢さを、不思議とカルロは憎もうとは思わない。誰だって、自分以外を中心に世界を見ることなんてできないのだから。
 ブレットが見る世界は美しい、カルロの見る世界はそうではない、それだけのこと。異なる二つの世界に生きる二人には、それを繋ぐ架け橋が必要だというだけのこと。その架け橋は「言葉」だとブレットは主張する。
「言え、カルロ」
 まずは、愛の言葉を。でなければ、赦しを。
 一年近くの間、ブレットがカルロからもたらされる瞬間を待ちわびてきた、たったひとつの言葉を。
 それさえくれれば、何だって差し出してやると言わんばかりの気迫に、カルロは二の句が継げない。
 同情はごめんだ、上から目線の慈悲など反吐が出る。ドンに作った借りのおかげで、カルロは今こうしてがんじがらめにされているのだ。これ以上誰の恩義も受けたくないカルロに、ブレットはフェアトレードの体裁を整えてくれる。
 頬があたたかいもので包まれた。ブレットの手だと気づくのに時間がかかる。ブレットの体は、どこもかしこもあたたかい。
「一言でいい」
 今日を生き、明日も生き続けること。自分はここにいるのだと、世界に向けて叫び声を上げること。そのどちらも、ブレットは必要としない。ずっと当たり前のように、それらはブレットの足元に転がっていた。カルロが泣いてほしがったものを、ブレットは足元から拾い上げて差し出してくる。「ほら、これが、お前の分だぜ」と笑って。
 ブレットが渡してくれるそれを受け取るために、カルロは「たった一言」さえ言えばいい。
「カルロ」
 ブレットの声が、深く鼓膜に染み入り、胸の奥に溶け入ってくる。ただの音の連なりに過ぎない響きが、とても愛おしいものに聞こえた。
 ブレットの乞う一言を、カルロは口にする。生まれて初めて紡いだ「Ti amo」の響きは、みっともなくも掠れていた。
 その夜、ブレットの体が本当にどこもかしこもあたたかいのだと、カルロは身をもって知る。焦げつきそうな熱をむさぼり、自分の輪郭を忘れてしまいそうなほどの心地よさに浸った。分かち合った切ないほどの興奮は、カルロ自身の中で、そしてカルロとブレットの間で、何かの始まりを告げる。
 並んで横たわり、身を寄せ合えば、狭いベッドはあつらえたかのように二人の世界を守ってくれた。
 刹那の熱に溺れた、ブレットの月の眼差しがカルロを照らす。黙って見つめ合う奇跡を重ねて、ブレットは小さく笑った。
「ミッドナイト・ブルー」
「……なんだ?」
「お前の瞳。夜の空みたいだ」
 やはりブレットの発想はカルロの斜め上を行く。カルロの瞳を夜の青に例える、彼自身の瞳が月のクレーターを模した光を宿しているなんて、出来すぎた偶然は居心地が悪い。カルロはすっと目をそらす。ブレットの頭越しに見える窓から、消えかけた月を見送った。
「だが昼間は違う」
 まだ続くブレットのたとえに、いい加減にしろとカルロは眉をひそめるけれど、去り行く本物とは違い、この場に留まり続ける二つの月はカルロを照らすことを止めなかった。
「昼間に見るお前の瞳は、母の持ってるスターサファイアにそっくりだ」
 ブレットは身を起こし、首を伸ばしてカルロに近づく。そしてカルロの目元に(朝になれば稲妻のマークが描かれる場所に)、唇を押し付けた。
「とても綺麗だ」
 綺麗なブレット。カルロの世界に用意されてこなかった美しいもの、そのほとんどを身に着けた彼が、カルロの腕に収まり、カルロの瞳を讃える。世界はほら、こんなにも輝いていると、ブレットは特大サイズの鏡を掲げてカルロの前に立つ。
「アメリカのボウヤは、気障でいけねえ」
 勘弁してくれ、とカルロは抱きよせたブレットの肩に顔を擦りつける。そうでもしなければ、泣き顔を見られそうだった。
 宝石に似ていると言う、カルロの目から涙が落ちる。
 ドンの元を出よう。そのために、決勝で勝とう。
 WGPの優勝をもってドンへの借りを清算し、何が何でも自由の身になる。ドンの暗い庇護から飛び出して、太陽の下を歩かなければいけない。堂々と、ブレットに向き合える自分でなければいけない。そのためなら、ドンが約束した栄誉も賞金も捨てて良い。どうせ、ブレットがくれるものには敵わないガラクタばかりだ。
 カルロをがんじがらめにしてきた糸が解け、一ミリ四方の箱に心を閉じ込めるような金や名誉への執着が霧散していく。残ったのは、真新しい願いだった。

 自分の足で立っていたい。
 自分の道を歩きたい。
 欲しいのは保護者でも支配者でもない。傍らに寄り添いながらも、同じく自分の道を歩き通そうとする美しい光だ。

 第三回WGP最終レースのスターティンググリッドで、ディオスパーダのスイッチが入る。モーターの唸る回転音に、カルロは自分の産声を聞いた気がした。





 ペシミストの救済
 (これが俺の、最初の一歩だ)






+++++
エロは苦手だから、よっぽどじゃなきゃ書かないよ。
さすがに小学生同士のアレは受け付けないので、せめて二人が中学生の年齢になるように……(中学生でもかなりキツいのですがモニョモニョ

カルロとブレットはどちらも超がつくほどのまじめ人間だと思う。特に自分に対してめちゃくちゃ厳しいタイプ。そんなカルロだから、ブレットに恋するためには=対等になるためには、まず自分で稼げるようにならなきゃ、って発想を持ちそうだな、という妄想。
実際問題、ドンの元からは早く逃げたほうが良いと思うね!将来のためにもね!

そろそろ二人が惹かれあうきっかけとか、なれそめ的なお話をちゃんと書きたいと思ってます。
いつになるかわからんけど(苦笑)

「世界は、カルロのいないところで美しい」
21さまより拝借。原題→「世界はきっと、僕のいない所で美しい。」

やや難産でしたので、また加筆修正が入るものと思われます。

2015/02/22 サイト初出。
2015/03/02 加筆修正。
2015/03/15 加筆修正。

2015/02/22(日) レツゴ:チョコレートナイフ(カルブレ)
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