※アニメ時制+未来時制。WGP1時代と、それから十年後(カルロ21歳、ブレット22歳)。
※アニメで触れられている程度のリョウ←ジョーを含みます。
※カルロにべた惚れブレットです。
※カルロが出てきませんが、イタリア空軍で飛行機乗りしてます。
※タイトルは「21」さまより。
Oh, my dear!
ジョーが恋をした。
彼女をよく知るアストロレンジャーズの男子メンバーにとって、それはちょっとしたニュースだった。
「よりにもよって、リョウ・タカバかよ」
そう驚きの声を上げるのはエッジだ。彼はその昔、初対面で彼女をナンパしようとしてN△S△にセクハラ被害を訴えられそうになった。
「無茶苦茶『女』呼ばわりしてたのにな。わっかんないぜ」
エッジの隣で肩をすくめるミラーは、いつぞやアームレスリングで彼女に五連敗している。男女の性差による能力差について、ミラーが余計なひと言を口にしたのがきっかけだった。
そんな武勇伝を持つ彼女が、昨今その動向をしきりに気にしているのがビクトリーズの鷹羽リョウだ。無駄口をきかない硬派で肉体派の彼は、エッジやミラーとは真逆のタイプと言っていい。良くも悪くも、彼は女性に無関心だ。
「ある意味、筋は通ってると思うがな」
ジョーから特別敵意を向けられたことのないブレットは、そうコメントする。要するに、彼女はフェミニストを装った女性蔑視の輩が一番嫌いなのだ(エッジやミラーにミソジニーの気があるわけではなく、彼女にそう誤解されかねない言動が問題だった)。
「いいじゃないか、楽しそうだ」
アストロドームでの試合のような失態を、ジョーが再び起こさない限り問題ない。リーダーの鶴の一声に、エッジやミラーも顔を見合わせる。一連のやり取りを脇で聞いていたハマーDが、大きな顔に笑みを浮かべて同意した。
「確かに、楽しそうだな、ジョーのやつ」
ビクトリーズの試合の映像をしつこく見直してはリョウの姿を確認し、同じ日に同じスタジアムでレースがあれば控室に顔を出す。今日のようにレースやミーティングがない日でも、ジョーは鼻歌を歌いながら何かとウキウキとふるまっていた。リョウと親しくなる以前の彼女は、極東の国での不慣れな生活に文句を重ねていたのだから、恋の力とは偉大だ。
チームで唯一の女性メンバーの機嫌が良いならそれに越したことはないのだと、少年たちは一様に頷きあう。
楽しそうだ。
ブレットは、恋するジョーをそう評価した。だがメンバーの前では口にしなかった思いもある。
恋の、何がそんなに楽しいのだろう。
十二歳にして、ブレットはこの世の多くの謎を数式と理論を駆使して解いてきた。クールな信条とは裏腹に好奇心は人一倍で、彼は謎を謎のままにしておくことを良しとしない。特に、ジョーが持ち込んできたこの謎は、解く価値があるとブレットは判断した。ならば、どう解き明かすか。
まずはデータだ。
「ジョー、ちょっといいか」
ブレットは直接彼女に聞いてみるという、シンプルな作戦に出る。「怒るなよ」と前置きをして。
「恋がそんな楽しいか」
「どういう意味よ」
ラウンジのソファで日本のティーン向け雑誌を広げていた、ジョーの顔がいきなりしかめられる。楽しい時間をさも邪魔されたと言わんばかりの表情に、ブレットはすかさず弁解をさしはさんだ。
「だから怒るなって言ったろ。別にからかってるわけじゃない。純粋に疑問なんだ」
ブレットの言葉に、ジョーの顔から警戒の色があっさりと消える。このあたりは、培ってきた信頼がなせる業だ。問いかけたのがエッジやミラーなら、ジョーもこう簡単にはあたりをやわらくしてくれない。
膝に置いた雑誌を閉じて、きちんと話をする意思表示を示したジョーは、逆にブレットに問いかけた。
「ブレットは、恋したことないの?」
「ないな」
ブレットの即答は、ジョーの大きなブルーアイズをさらに大きく丸くした。
「ほんとに? 一度も? エレメンタリー(小学校)の女の先生とかは?」
初恋の定番を挙げたジョーは、すぐに自分の例えがブレットには不適切だと気づいたらしい。「ブレットはエレメンタリーには通ってないわよね」と訂正を入れてくるので、「半年は通ったぞ」と教えてやれば心底驚かれた。
「ほとんど別室で自習してたけどな」
なるべく普通の子と同じように生活してほしいという両親の願いで始めたことだったが、学校側が天才少年を持て余し家庭教師へと切り替えられた。共有する時間と在籍期間の短さから、エレメンタリー時代の友人はほとんどいない。当時通っていた教会の聖歌隊メンバーの方が、今でも連絡をとりあう相手は多かった。
「聖歌隊にも、可愛いなって思う女の子とかいたでしょ?」
「女の子の顔を品定めする時間があるなら、本読むか星見てたからな」
そこでジョーの表情が再び険しくなった。ブレットは即座に自分の失言へのフォローにはいる。
「エッジみたいに、って意味だぞ。個体識別はちゃんとしてる」
「あら、どうかしら?」
「お前のことだって、ジョーはジョーだ。女子ってカテゴリーじゃない」
「そういう言い方も不愉快よ」
「女扱いするなって言うじゃないか」
「女『だからって見くびるような』扱いをしないで、って言ったの。レディへのしかるべき配慮は男の義務だわ」
「OK、肝に銘じておく」
ジョーとの会話は楽しい。彼女は賢いし、性格も良い。負けん気の強いところは時には扱いに困るが、基本的には彼女という人間を彩る魅力的なアクセントだと思っている。長いブロンドに、つぶらな青い瞳。十人いれば九人は彼女を「可愛い」と評価するのだろうし、事実「チャーミングな子は一度見たら忘れない」と豪語するエッジは彼女に声をかけている。
ジョーはブレットに、「可愛いと思う女子」の存在を尋ねた。恋する彼女が尋ねるからには、それは恋の重要なファクターなのだろう。
恋には「可愛いと思う女子」の存在が不可欠で、ブレットはジョーを可愛い女の子だと思っている。
「だけど俺はお前に恋してない」
「そうね」
「恋してなくても、お前と話すのは楽しい」
「サンクス、リーダー。私もよ」
「だから、ますますわからない」
「そうね。SAT(大学進学適性試験)にも出てこない難問だわ」
ここに至ってブレットは、そもそも恋だとか結婚だとか、自分が特定の誰かに執着すること自体うまく想像できないのだと気づいた。たかが十二歳で何をと大人は笑うかもしれないが、すでに大学を卒業し、人生の進路を決めてしまっているブレットにとっては深刻な問題だ。現実の話でも、ミッションにでる宇宙飛行士のメンタルに地上に残る家族や恋人の存在は大きく影響を及ぼす。守りたいもの、大切なものがいない人間、そういう価値観を共有できない存在はチーム内に不協和音を生み、ミッションに支障をきたす恐れさえ指摘されているのだから。
「…………」
「深刻そうね」
宇宙飛行士としての自分の資質に、思わぬところから疑いを抱く羽目になったブレットは焦った。恋とは何なのか、自分に恋はできるのか、この問題の答えをますます出さなければいけない。
「両親仲は円満だ。姉たちに言わせれば『万年新婚』気分だそうだ」
だからこそ姉たちとは十二歳離れたブレットがこの世に生を受けたのだ。自分の親のそういうことについてはあまり想像したくないが、事実は事実だからしょうがない。
「姉たちだってよく彼氏を家に連れてくる。だから、そういうものに触れずに生きてきたわけじゃないのにな」
どうしてもピンと来ないのだと、ブレットは鼻柱にしわを寄せる。すれ違うたくさんの人の中から、たった一人に目を奪われて釘づけにされる。その存在に思考が埋め尽くされ、相手の言動で地獄の底にも天国の扉にも行ける。そんなジョーの数々の言動をふり返ればふり返るほど、彼女の立ち位置に自分を置き換えることが難しくなる。それはジョーが女の子でブレットがそうでないからといった、単純な違いで割り切ってはいけない話だ。
何かが足りない。恋をするための何かが、ブレットには欠けていた。
そう結論付けるのがおそろしくて(宇宙飛行士の失格の烙印を押されるようなものだ)、ブレットは膨大な記憶の中で、唯一「それらしい」出来事を引っ張り出してみたりする。
「エレメンタリーで、誕生日パーティの招待を受けたんだ。隣のクラスの女の子から」
「あら、素敵じゃない」
エッジなら泣いて喜ぶわ、とジョーはここにはいないお調子者に向けて皮肉を言う。その光景が目に浮かんで、ブレットも目を眇めて口角を上げた。
「スクールでも可愛いって噂の子だったらしい」
「らしいってことは、ブレットは何とも思わなかったのね……」
ジョーはため息をつくが、彼女の言う通りなので余計な弁解はしない。
人気者の美少女は、パーティに呼ぶ相手には困らなかったはずだ。その美少女がわざわざ、スクールでもほとんど顔を合わせないブレットに教室を跨いで招待状を手渡しに来た。きっとそこには、子どもらしい、だが美少女のプライドに見合っただけの好意が同封されていたのだろう。
「顔も覚えてないんだ、情けないことに」
何だかんだ言って個体識別できてなかったんじゃないかと思うと、当時の自分が本当に情けない。
結局、その美少女とは何もなく(仮にアプローチがあったとしてもブレットの記憶からは削除されている)、スキップを重ねてMITへの入学が認められた頃にはブレットの周囲は大人ばかりになった。そうなれば歳の差が壁となって、なおさら色恋沙汰とは遠ざかる。拍車をかけるように、忙しさから教会の聖歌隊からも抜け、同世代と出会う機会はブレット少年の生活から失われていった。
家族で観た映画、姉が読む雑誌、街に溢れかえる広告の数々。それらがしきりに訴える「恋せよ!」というプレッシャーは、ブレット少年の頭上を素通りしてきた。早熟な少年の心を惹き、惑わすのは広大な宇宙と深遠な学問、そしてそれらを共有できるごく限られた頭のいい人間だけだ。
それの何が、いけないのだろう。
「だいたい俺には、お前たちがいる」
「私たち? アストロレンジャーズ?」
「N△S△のプログラムに参加して初めて、俺は仲間を見つけたんだ」
同じ国に生まれ、育ったとしても、使う言葉は必ずしも同じであるとは限らない。ブレットが使う言葉を、理解してくれる人は少なかった。そんなブレット少年にとって、自分と同じような、どこか普通ではない同年代との出会いは短い人生における最大の転機だ。まさかミニ四駆を走らせることになるとは思わなかったけれど、今こうしてソファで並んで腰掛ける彼女やチームメイトたちは、ブレットが初めて得た戦友で、同志で、同じ言葉を交わせる貴重な友人だった。
宇宙に行こう。
そんな想いを、意思疎通のストレスなく伝えられる相手が特別でなくて何だと言うのか。
そして、彼らとともに挑んだ戦いの中で、ブレットはまた新しい出会いを得た。アトランティックカップにおけるドイツのシュミット、WGPでめぐり合った星馬豪を筆頭とする日本のレーサーたち。彼らは決してブレットたちと同じ言葉を使う人種ではないけれど、まったく畑違いの分野に飛び込み、彼らと競い合うのは楽しかった。同年代と遊ぶというのは、こういうことなのかと考えただけで胸が躍る。
なんて十二歳の子どもらしいのだろう、と笑うブレットの傍らには、いつもアストロレンジャーズの彼らがいた。彼らもまた、ブレットと似たり寄ったりの表情を浮かべている。
「家族だよ、俺には。ジョーも、エッジたちも、ほとんど家族だ」
だからこそ、メンバーに女子がいようと恋やら愛には縁遠いまま。
「ブレットの家族になれて、とっても嬉しいわよ、私」
ジョーが満面の笑みを浮かべる。「家族」だなんて、近しさがすぎる表現かと一瞬でも後悔したブレットを、ジョーの声と笑顔は癒してくれる。嬉しくて、あたたかくて、ブレットは眉をひそめて笑うしかない。
「だから、困るんだ」
こんなに可愛くて、優しい彼女に恋ができない。恋が、わからない。
「お客様」
頭上からの声に瞼を開くと、キャビンアテンダントの女性の笑顔とぶつかった。ブレットが軽く眉を上げれば、職業意識の高い彼女は完全無欠の笑みを維持したまま問いかけてくる。
「お休みになられるのでしたら、毛布をお持ちいたしましょうか」
「いや結構。代わりにソーダがほしいな」
「かしこまりました」
去っていくキャビンアテンダントの後姿から、ブレットはすぐに窓の向こうに目を向けた。角の丸くした四角形の窓にくりぬかれた青空は、ここが地上一万メートルの雲の上なのだとブレットに実感させる。吸い込まれそうなスカイ・ブルーに軽く息を吐いて、座席の前で足を伸ばした。急なフライトだったがビジネスにしておいて良かったと、ゆったりとしたリクライニングシートに身をゆだねた。
少し、夢を見ただろうか。それとも、昔の思い出に浸りすぎていたか。思い出の主役であった彼女と駆けた世界グランプリは、十年の時が過ぎた今でもブレットの記憶の中で燦然とした輝きを失わない。
恋がわからない、と愚痴るブレットに、恋真っ盛りのジョーは言った。
『神様はきっと、ブレットにいろんなものを詰め込もうとしたのね。頭の良さだとかリーダーとしての責任感だとか、人に愛されるものをたくさん。それに夢中になっちゃって、肝心なものを入れ忘れたんだわ』
『肝心なもの?』
『でも心配ないわ、ブレット。気づいた神様が、今ごろ大慌てで天使をよこしてると思うから』
『天使? おおげさだな』
『そのうち現れるわよ、とびっきりチャーミングな天使が。「遅れてごめんね」って言いながら』
『天使、なぁ……』
『その時は、絶対逃がしちゃダメなんだから。意地なんか張らないで、ちゃんと優しく赦してあげなさいね。いい? わかった、リーダー?』
年近い少女からのアドバイスは、姉たちとは違う押しの強さでブレットに託される。ジョーの喜色満面な様子が理解できなくて、しかも言い終えるなり彼女はその場から去ってしまって、取り残されたブレットはただただ戸惑うしかなかった。あの頃を思い出して、十年後のブレットは肩を震わせて笑う。静かな機内に、自分の声が響かないようにするのは一苦労だった。
ひとしきり肩をわななかせて、笑いをおさめたブレットはシートから身を起こす。ちょうどそこに、先ほどのキャビンアテンダントがソーダのグラスを持って現れた。ガラスのような見た目に反して軽いカップを受け取って、ブレットは小さく微笑んで礼を言う。
ソーダを一口含んで、テーブルに置く。座席の小窓を覗きこめば、青空が変わり映えなくどこまでも広がっていた。その果てのなさは、何度目の当たりにしたところでブレットの息を止めずにはいられない。
「…………」
雲をまとった水平線は限りなく白に近い。光り輝くラインの上では、空は一転して宝石のような深い青をたたえている。この青をたどって高く、さらに高く成層圏を突き抜け、海抜高度100キロのカーマン・ラインを越えれば、世界は闇と星屑の煌めきに包まれる。宇宙の漆黒から見下ろす地球の青さを、ブレットは知っていた。
物心がついてから、ずっと心惹かれ続けた宇宙(そら)は、高度によって色を変える。ブレットを乗せたジェットが飛ぶ対流圏でさえ、窓からのぞく青はさまざまな表情を持っていた。ホライズン・ブルーから続くサファイア・ブルー。明度の異なる青のグラデーションは、ブレットにひとりの男を連想させる。ブレットを魅了する空の七変化を、その身に宿した男。彼がお守りのように弄ぶナイフの刃さえ、雲をとかした水平線の眩しさによく似ていた。
カルロ。
その名を、舌の上で転がす。彼の名と色彩を知ったあの日も、ちょうどジョーの思い出と同じ十年前のことだ。
本当にあのWGPでの一年は、ブレットの記憶の中でも特別らしい。十年前、家族のようと思った彼女との会話がつぎつぎとよみがえる。セピアに染まることのない、極彩色の思い出の中で、彼女は一度だけブレットをふり返ってこう言ったのだ。
『本当よ、ブレット。恋のきっかけなんて、どこに落ちてるかわからないんだから』
『お前が言うと、説得力あるぜ』
カルロ率いるロッソストラーダとの直接対決は、そんな会話の翌月のことだった。
『少しは頭を使おうぜ、アメリカのボウヤ』
身内でもない人間に、面と向かって「バカ」と嘲笑われた経験はあれが最初で最後だ。カルロはレースだけでなく言葉のナイフでもって、ブレットの記憶にその存在を刻みつける(あの鮮やかな手口は、これまで彼がくぐってきた修羅場の賜物だと知った時は、感心とも憐憫ともつかない情がブレットの胸の内に湧き上がった)。
思えばこれが、ブレットに欠けていた(ジョー曰く、神様が入れ忘れた)「何か」が補充された瞬間だ。たった一人への執着、強い関心、求める一体感、まるで切れていた回路が正しく接続を果たしたかのように、ブレットの心は熱を持つほどの高速回転を始める。
『カルロ!』
『行けぇっ、ディオスパーダァ!』
カルロがとった手段の是非はどうあれ、彼が抱える勝利への飢餓はブレットの好奇心をくすぐるどころか虜にした。カリキュラムの一環であろうとも、ブレットにとってみればWGPでの戦歴は将来に影響を及ぼす。そんなブレットでさえ、カルロの見せる執念には恐れ入った。
ビクトリーズの星馬豪とは違う気迫、シュミットとは違うクレバーさ。だが、危うい。カルロの持つ危うさをブレットは「死神」と表現していた。まさかそんな陳腐なワードが、自分の辞書にあったとは思いもよらずに。
自分の中にあった価値観という強固な器に、ひびを入れられた。そのひびを無視することができず、その元凶に近づいた。当然彼は頑なで、けれど頑なであればあるだけ、興味は尽きることなく溢れ出す。豪の操るビート・マグナムがそうであるように、一度加速した鼓動を止めることは誰にもできなかった。
『目ざわりだ、消えな』
『ごちゃごちゃうるせえ!』
『てめえに何がわかる?』
ナイフと同じく、磨き上げられた鋭利な言葉を投げつけられても、いっそ彼のナイフに切り裂かれればこのどうしようもない興味も失せるのではないかと、ブレットはカルロに歩み寄ることを止めなかった。
心の深い場所に響く、ダイレクトな衝撃。相手への、自分ではどうしようもないほどの強い関心。
こっちを向け。
声を聞かせろ。
俺を見ろ。
ブレットがカルロに向けたそれらは、まさに恋の初期症状に他ならない。
『ボウヤ……』
ブレットに向くカルロの青い瞳。母の持つスターサファイアに似ていると思った輝きに、迷いが映るようになったのはいつごろだったろうか。
『勝手にしやがれ』
諦めたようにブレットが傍らにいることを彼が赦したとき、毛を逆立てて威嚇していた猫を手なずけた気分だったと言えば、今でもカルロは怒るだろうか。打ち明け話ついでに、話してみるのも面白いかもしれない。
『いっぺん触れたら、離さねえぞ』
それでもいいのか、と身震いとともに告げられた最後通告。望むところだと答えるなり、押し付けられた唇の熱さは彼からの執着そのものだった。この時、カルロから伝染(うつ)された熱は、いまだにブレットを甘くむしばみ続けている。
俺たちはもう少し、自信をもってぶつかり合っていいのかもな。
あれからもうもう十年だ。出会ってから、強く心を引き寄せられてから、胸の鼓動はおさまりそうもない。近づくもの全員にナイフを振り回さなければいけなかった彼の葛藤に、そろそろ踏み込んでもいい頃合いだと自惚れたくなる。弱い男じゃない。威勢だけの男でもない。劣悪な環境の中でも、決して媚びず俯かず、胸を張り続けた強さをあのナイフは象徴していた。
と、思うのは惚れた欲目だろうか。
「もっと知りたい……おまえのこと……」
十年経っても、その想いは変わらない。生い立ちも価値観もまるで異なる二人だが、積み重ねた歳月は確実に二人を結ぶ架け橋を強く、太くしてきた。イタリア空軍で念願のフレッチェ・トリコローリのパイロットに昇進したカルロは、すでにエースの座を確固たるものにしている。曲芸飛行に用いるアエルマッキMB-339は、ジェット機の航行域より高い、高度14000メートルを飛行可能だ。高角度で舞い上がる機体から、カルロもきっとブレットが愛するブルーを見ている。
『俺のカグヤ姫は、まだ月に帰っちゃいなかったんだな』
ブレットの瞳のムーン・グレイと宇宙への恋心をからかって、カルロは再会のたび、ブレットに向かってシニカルに笑いかける。日本の顔なじみたちに教わった月の姫君にまつわる昔話を、ブレットがいたく好んでいるからこその言動だ。そしていつか、ブレットが自分から離れていくことを勝手に予感し、彼が自らの心に予防線を張っているのだと言うことも、ブレットは薄々気づいていた。
誰よりも愛に飢えながら、愛に怯えているカルロ。
愛しているよ。
窓から見える空と、心に浮かぶ強い瞳に向けて、ブレットはありのままの想いを口内で転がす。この使い古された言葉で、カルロの杞憂を吹き飛ばしてしまえればいい。空の青とカルロの青、その二つに抱かれる時、ブレットは無上の恍惚に浸ることができるのだと心を尽くして伝えたかった。
カルロが心を開いてくれるなら、代わりに打ち明けよう、ブレット自身のことを。ジョーが教えてくれた「とびっきりチャーミングな天使」の話も含めて。愛に飢え愛に怯えるカルロに、恋を知らないブレットが惹かれた摂理とは何だったのか、二人で頭を悩ませてみるのも悪くない。
「お客様にご案内申し上げます。当機は順調にフライトを継続、イタリア・ヴェネツィアへの到着は定刻を予定しております。ヴェネツィアの現在の天候は――」
スピーカー越しのキャビンアテンダントの声に、ブレットはヴェネツィアで待つ男を想う。半年ぶりに姿を見る恋人は、どんなふうに変わっていて、どこまでブレットの知るままなのだろうか。ミニ四駆を走らせていたころと比べれば、はるかに筋骨共に逞しくなっているけれど、神経質なところは相変わらずだ。バカンスの初日は、彼のすべてを確かめることに費やされると考えたとたん、鼓動がまた速くなる。つられて熱くなりそうな体を静めるために、また一口ソーダを口に含んだ。
触れ合うを想像しただけでこれだ、とブレットの口元には殺しきれない笑みが浮かぶ。恋がわからなくて冷や冷やしていたあの頃の自分は、世間知らずで、ずいぶんと大げさな心配をしていたものだった。
カルロからのコールを受けたのは二日前。突然の休暇話に、あらゆるスケジュールを脇に押しやって空港に車を走らせた。上空一万メートルを飛ぶジェット、ヒューストンからヴェネツィアまでは直線距離にして約8900キロ。それだけの距離と高度を、カルロに会うためだけにブレットは移動している。
『そのうち現れるわよ、とびっきりチャーミングな天使が。「遅れてごめんね」って言いながら』
『恋のきっかけなんて、どこに落ちてるかわからないんだから』
ジョー。やっぱり、お前が言うと説得力があるな。
ジョーが言うところの「可愛い女の子」には程遠いけれど、抱きしめてキスしてその存在を全身全霊で感じたい相手がいる。愛だの恋だのにまったく関心がなかった自分が、恋人会いたさに大西洋を越える愚かさを、ブレットはたまらなく愛おしいと思った。
Oh, my dear!
(ガラの悪い神経質な天使でも、神様の人選なら文句は言えない)
+++++++++++
カルブレ、というかレツゴ作品を読んでくださる方が、おひとり?おふたり?くらいいらっしゃるみたいですごくうれしいです。
初めてのブレット視点。
ブレットは大卒出の天才なのに、脳みそスポンジな私が書いてもぜんぜんそう見えなくてへこむ。
ジョー大好きです。ジョー、かわいいよ、ジョー。
「天使にラブソング」1~2を観て、地元の教会の聖歌隊に入ってるブレットなんてめちゃくちゃかわいいな!って思いまして。
家族みんなで教会通いに熱心なんでしょう。カトリックかな?プロテスタントかな?
アメリカ自体はプロテスタントの方が多数派なんですよね。
歌はそんなにうまくないけど一生懸命歌ってるちっこいブレットとか……あ……//////
WGP2はその地元の聖歌隊メンバーが、クリスマスに激励に来てくれるといいよ。
んで、他のグランプリレーサーたちの前で、聖歌歌わされるといいよいいよ。
フレッチェ・トリコローリの飛行映像見ました。めっちゃかっこいいぜ//////
先導役の一機を目印に、残りの九機が演技しているんでしょうか。あの中にカルロが混じってると思うとニヤニヤがとまらないし、機体をわざとふらつかせて落ちていく演技になったら、ブレットが心臓止まりそうな顔するといいよ。
あと、フレッチェ・トリコローリとコラボした時計も見つけた。二万しないくらいだし二万って嘘でした、限定品のせいか60~80万くらいするw それでもブレット買っちゃうよね。うふふふふ。
戦闘機のことはよくわからないし、ミラノ~ヒューストン間の直線距離計算が間違ってないか心配だし。
専門外のことを書くのは、本当に不安でいっぱいです(逆に開き直れるけどね!!!)
2015.02.27. サイト初出。
2015.03.05. 加筆修正。
2015.03.26. 加筆修正。
2015.05.15. カルロのセリフが間違っていたので修正。
2015.07.07. ブレットの目的地をミラノからヴェネツィア(よりトリエステに近くて国際空港がある)に修正。
※アニメで触れられている程度のリョウ←ジョーを含みます。
※カルロにべた惚れブレットです。
※カルロが出てきませんが、イタリア空軍で飛行機乗りしてます。
※タイトルは「21」さまより。
Oh, my dear!
ジョーが恋をした。
彼女をよく知るアストロレンジャーズの男子メンバーにとって、それはちょっとしたニュースだった。
「よりにもよって、リョウ・タカバかよ」
そう驚きの声を上げるのはエッジだ。彼はその昔、初対面で彼女をナンパしようとしてN△S△にセクハラ被害を訴えられそうになった。
「無茶苦茶『女』呼ばわりしてたのにな。わっかんないぜ」
エッジの隣で肩をすくめるミラーは、いつぞやアームレスリングで彼女に五連敗している。男女の性差による能力差について、ミラーが余計なひと言を口にしたのがきっかけだった。
そんな武勇伝を持つ彼女が、昨今その動向をしきりに気にしているのがビクトリーズの鷹羽リョウだ。無駄口をきかない硬派で肉体派の彼は、エッジやミラーとは真逆のタイプと言っていい。良くも悪くも、彼は女性に無関心だ。
「ある意味、筋は通ってると思うがな」
ジョーから特別敵意を向けられたことのないブレットは、そうコメントする。要するに、彼女はフェミニストを装った女性蔑視の輩が一番嫌いなのだ(エッジやミラーにミソジニーの気があるわけではなく、彼女にそう誤解されかねない言動が問題だった)。
「いいじゃないか、楽しそうだ」
アストロドームでの試合のような失態を、ジョーが再び起こさない限り問題ない。リーダーの鶴の一声に、エッジやミラーも顔を見合わせる。一連のやり取りを脇で聞いていたハマーDが、大きな顔に笑みを浮かべて同意した。
「確かに、楽しそうだな、ジョーのやつ」
ビクトリーズの試合の映像をしつこく見直してはリョウの姿を確認し、同じ日に同じスタジアムでレースがあれば控室に顔を出す。今日のようにレースやミーティングがない日でも、ジョーは鼻歌を歌いながら何かとウキウキとふるまっていた。リョウと親しくなる以前の彼女は、極東の国での不慣れな生活に文句を重ねていたのだから、恋の力とは偉大だ。
チームで唯一の女性メンバーの機嫌が良いならそれに越したことはないのだと、少年たちは一様に頷きあう。
楽しそうだ。
ブレットは、恋するジョーをそう評価した。だがメンバーの前では口にしなかった思いもある。
恋の、何がそんなに楽しいのだろう。
十二歳にして、ブレットはこの世の多くの謎を数式と理論を駆使して解いてきた。クールな信条とは裏腹に好奇心は人一倍で、彼は謎を謎のままにしておくことを良しとしない。特に、ジョーが持ち込んできたこの謎は、解く価値があるとブレットは判断した。ならば、どう解き明かすか。
まずはデータだ。
「ジョー、ちょっといいか」
ブレットは直接彼女に聞いてみるという、シンプルな作戦に出る。「怒るなよ」と前置きをして。
「恋がそんな楽しいか」
「どういう意味よ」
ラウンジのソファで日本のティーン向け雑誌を広げていた、ジョーの顔がいきなりしかめられる。楽しい時間をさも邪魔されたと言わんばかりの表情に、ブレットはすかさず弁解をさしはさんだ。
「だから怒るなって言ったろ。別にからかってるわけじゃない。純粋に疑問なんだ」
ブレットの言葉に、ジョーの顔から警戒の色があっさりと消える。このあたりは、培ってきた信頼がなせる業だ。問いかけたのがエッジやミラーなら、ジョーもこう簡単にはあたりをやわらくしてくれない。
膝に置いた雑誌を閉じて、きちんと話をする意思表示を示したジョーは、逆にブレットに問いかけた。
「ブレットは、恋したことないの?」
「ないな」
ブレットの即答は、ジョーの大きなブルーアイズをさらに大きく丸くした。
「ほんとに? 一度も? エレメンタリー(小学校)の女の先生とかは?」
初恋の定番を挙げたジョーは、すぐに自分の例えがブレットには不適切だと気づいたらしい。「ブレットはエレメンタリーには通ってないわよね」と訂正を入れてくるので、「半年は通ったぞ」と教えてやれば心底驚かれた。
「ほとんど別室で自習してたけどな」
なるべく普通の子と同じように生活してほしいという両親の願いで始めたことだったが、学校側が天才少年を持て余し家庭教師へと切り替えられた。共有する時間と在籍期間の短さから、エレメンタリー時代の友人はほとんどいない。当時通っていた教会の聖歌隊メンバーの方が、今でも連絡をとりあう相手は多かった。
「聖歌隊にも、可愛いなって思う女の子とかいたでしょ?」
「女の子の顔を品定めする時間があるなら、本読むか星見てたからな」
そこでジョーの表情が再び険しくなった。ブレットは即座に自分の失言へのフォローにはいる。
「エッジみたいに、って意味だぞ。個体識別はちゃんとしてる」
「あら、どうかしら?」
「お前のことだって、ジョーはジョーだ。女子ってカテゴリーじゃない」
「そういう言い方も不愉快よ」
「女扱いするなって言うじゃないか」
「女『だからって見くびるような』扱いをしないで、って言ったの。レディへのしかるべき配慮は男の義務だわ」
「OK、肝に銘じておく」
ジョーとの会話は楽しい。彼女は賢いし、性格も良い。負けん気の強いところは時には扱いに困るが、基本的には彼女という人間を彩る魅力的なアクセントだと思っている。長いブロンドに、つぶらな青い瞳。十人いれば九人は彼女を「可愛い」と評価するのだろうし、事実「チャーミングな子は一度見たら忘れない」と豪語するエッジは彼女に声をかけている。
ジョーはブレットに、「可愛いと思う女子」の存在を尋ねた。恋する彼女が尋ねるからには、それは恋の重要なファクターなのだろう。
恋には「可愛いと思う女子」の存在が不可欠で、ブレットはジョーを可愛い女の子だと思っている。
「だけど俺はお前に恋してない」
「そうね」
「恋してなくても、お前と話すのは楽しい」
「サンクス、リーダー。私もよ」
「だから、ますますわからない」
「そうね。SAT(大学進学適性試験)にも出てこない難問だわ」
ここに至ってブレットは、そもそも恋だとか結婚だとか、自分が特定の誰かに執着すること自体うまく想像できないのだと気づいた。たかが十二歳で何をと大人は笑うかもしれないが、すでに大学を卒業し、人生の進路を決めてしまっているブレットにとっては深刻な問題だ。現実の話でも、ミッションにでる宇宙飛行士のメンタルに地上に残る家族や恋人の存在は大きく影響を及ぼす。守りたいもの、大切なものがいない人間、そういう価値観を共有できない存在はチーム内に不協和音を生み、ミッションに支障をきたす恐れさえ指摘されているのだから。
「…………」
「深刻そうね」
宇宙飛行士としての自分の資質に、思わぬところから疑いを抱く羽目になったブレットは焦った。恋とは何なのか、自分に恋はできるのか、この問題の答えをますます出さなければいけない。
「両親仲は円満だ。姉たちに言わせれば『万年新婚』気分だそうだ」
だからこそ姉たちとは十二歳離れたブレットがこの世に生を受けたのだ。自分の親のそういうことについてはあまり想像したくないが、事実は事実だからしょうがない。
「姉たちだってよく彼氏を家に連れてくる。だから、そういうものに触れずに生きてきたわけじゃないのにな」
どうしてもピンと来ないのだと、ブレットは鼻柱にしわを寄せる。すれ違うたくさんの人の中から、たった一人に目を奪われて釘づけにされる。その存在に思考が埋め尽くされ、相手の言動で地獄の底にも天国の扉にも行ける。そんなジョーの数々の言動をふり返ればふり返るほど、彼女の立ち位置に自分を置き換えることが難しくなる。それはジョーが女の子でブレットがそうでないからといった、単純な違いで割り切ってはいけない話だ。
何かが足りない。恋をするための何かが、ブレットには欠けていた。
そう結論付けるのがおそろしくて(宇宙飛行士の失格の烙印を押されるようなものだ)、ブレットは膨大な記憶の中で、唯一「それらしい」出来事を引っ張り出してみたりする。
「エレメンタリーで、誕生日パーティの招待を受けたんだ。隣のクラスの女の子から」
「あら、素敵じゃない」
エッジなら泣いて喜ぶわ、とジョーはここにはいないお調子者に向けて皮肉を言う。その光景が目に浮かんで、ブレットも目を眇めて口角を上げた。
「スクールでも可愛いって噂の子だったらしい」
「らしいってことは、ブレットは何とも思わなかったのね……」
ジョーはため息をつくが、彼女の言う通りなので余計な弁解はしない。
人気者の美少女は、パーティに呼ぶ相手には困らなかったはずだ。その美少女がわざわざ、スクールでもほとんど顔を合わせないブレットに教室を跨いで招待状を手渡しに来た。きっとそこには、子どもらしい、だが美少女のプライドに見合っただけの好意が同封されていたのだろう。
「顔も覚えてないんだ、情けないことに」
何だかんだ言って個体識別できてなかったんじゃないかと思うと、当時の自分が本当に情けない。
結局、その美少女とは何もなく(仮にアプローチがあったとしてもブレットの記憶からは削除されている)、スキップを重ねてMITへの入学が認められた頃にはブレットの周囲は大人ばかりになった。そうなれば歳の差が壁となって、なおさら色恋沙汰とは遠ざかる。拍車をかけるように、忙しさから教会の聖歌隊からも抜け、同世代と出会う機会はブレット少年の生活から失われていった。
家族で観た映画、姉が読む雑誌、街に溢れかえる広告の数々。それらがしきりに訴える「恋せよ!」というプレッシャーは、ブレット少年の頭上を素通りしてきた。早熟な少年の心を惹き、惑わすのは広大な宇宙と深遠な学問、そしてそれらを共有できるごく限られた頭のいい人間だけだ。
それの何が、いけないのだろう。
「だいたい俺には、お前たちがいる」
「私たち? アストロレンジャーズ?」
「N△S△のプログラムに参加して初めて、俺は仲間を見つけたんだ」
同じ国に生まれ、育ったとしても、使う言葉は必ずしも同じであるとは限らない。ブレットが使う言葉を、理解してくれる人は少なかった。そんなブレット少年にとって、自分と同じような、どこか普通ではない同年代との出会いは短い人生における最大の転機だ。まさかミニ四駆を走らせることになるとは思わなかったけれど、今こうしてソファで並んで腰掛ける彼女やチームメイトたちは、ブレットが初めて得た戦友で、同志で、同じ言葉を交わせる貴重な友人だった。
宇宙に行こう。
そんな想いを、意思疎通のストレスなく伝えられる相手が特別でなくて何だと言うのか。
そして、彼らとともに挑んだ戦いの中で、ブレットはまた新しい出会いを得た。アトランティックカップにおけるドイツのシュミット、WGPでめぐり合った星馬豪を筆頭とする日本のレーサーたち。彼らは決してブレットたちと同じ言葉を使う人種ではないけれど、まったく畑違いの分野に飛び込み、彼らと競い合うのは楽しかった。同年代と遊ぶというのは、こういうことなのかと考えただけで胸が躍る。
なんて十二歳の子どもらしいのだろう、と笑うブレットの傍らには、いつもアストロレンジャーズの彼らがいた。彼らもまた、ブレットと似たり寄ったりの表情を浮かべている。
「家族だよ、俺には。ジョーも、エッジたちも、ほとんど家族だ」
だからこそ、メンバーに女子がいようと恋やら愛には縁遠いまま。
「ブレットの家族になれて、とっても嬉しいわよ、私」
ジョーが満面の笑みを浮かべる。「家族」だなんて、近しさがすぎる表現かと一瞬でも後悔したブレットを、ジョーの声と笑顔は癒してくれる。嬉しくて、あたたかくて、ブレットは眉をひそめて笑うしかない。
「だから、困るんだ」
こんなに可愛くて、優しい彼女に恋ができない。恋が、わからない。
「お客様」
頭上からの声に瞼を開くと、キャビンアテンダントの女性の笑顔とぶつかった。ブレットが軽く眉を上げれば、職業意識の高い彼女は完全無欠の笑みを維持したまま問いかけてくる。
「お休みになられるのでしたら、毛布をお持ちいたしましょうか」
「いや結構。代わりにソーダがほしいな」
「かしこまりました」
去っていくキャビンアテンダントの後姿から、ブレットはすぐに窓の向こうに目を向けた。角の丸くした四角形の窓にくりぬかれた青空は、ここが地上一万メートルの雲の上なのだとブレットに実感させる。吸い込まれそうなスカイ・ブルーに軽く息を吐いて、座席の前で足を伸ばした。急なフライトだったがビジネスにしておいて良かったと、ゆったりとしたリクライニングシートに身をゆだねた。
少し、夢を見ただろうか。それとも、昔の思い出に浸りすぎていたか。思い出の主役であった彼女と駆けた世界グランプリは、十年の時が過ぎた今でもブレットの記憶の中で燦然とした輝きを失わない。
恋がわからない、と愚痴るブレットに、恋真っ盛りのジョーは言った。
『神様はきっと、ブレットにいろんなものを詰め込もうとしたのね。頭の良さだとかリーダーとしての責任感だとか、人に愛されるものをたくさん。それに夢中になっちゃって、肝心なものを入れ忘れたんだわ』
『肝心なもの?』
『でも心配ないわ、ブレット。気づいた神様が、今ごろ大慌てで天使をよこしてると思うから』
『天使? おおげさだな』
『そのうち現れるわよ、とびっきりチャーミングな天使が。「遅れてごめんね」って言いながら』
『天使、なぁ……』
『その時は、絶対逃がしちゃダメなんだから。意地なんか張らないで、ちゃんと優しく赦してあげなさいね。いい? わかった、リーダー?』
年近い少女からのアドバイスは、姉たちとは違う押しの強さでブレットに託される。ジョーの喜色満面な様子が理解できなくて、しかも言い終えるなり彼女はその場から去ってしまって、取り残されたブレットはただただ戸惑うしかなかった。あの頃を思い出して、十年後のブレットは肩を震わせて笑う。静かな機内に、自分の声が響かないようにするのは一苦労だった。
ひとしきり肩をわななかせて、笑いをおさめたブレットはシートから身を起こす。ちょうどそこに、先ほどのキャビンアテンダントがソーダのグラスを持って現れた。ガラスのような見た目に反して軽いカップを受け取って、ブレットは小さく微笑んで礼を言う。
ソーダを一口含んで、テーブルに置く。座席の小窓を覗きこめば、青空が変わり映えなくどこまでも広がっていた。その果てのなさは、何度目の当たりにしたところでブレットの息を止めずにはいられない。
「…………」
雲をまとった水平線は限りなく白に近い。光り輝くラインの上では、空は一転して宝石のような深い青をたたえている。この青をたどって高く、さらに高く成層圏を突き抜け、海抜高度100キロのカーマン・ラインを越えれば、世界は闇と星屑の煌めきに包まれる。宇宙の漆黒から見下ろす地球の青さを、ブレットは知っていた。
物心がついてから、ずっと心惹かれ続けた宇宙(そら)は、高度によって色を変える。ブレットを乗せたジェットが飛ぶ対流圏でさえ、窓からのぞく青はさまざまな表情を持っていた。ホライズン・ブルーから続くサファイア・ブルー。明度の異なる青のグラデーションは、ブレットにひとりの男を連想させる。ブレットを魅了する空の七変化を、その身に宿した男。彼がお守りのように弄ぶナイフの刃さえ、雲をとかした水平線の眩しさによく似ていた。
カルロ。
その名を、舌の上で転がす。彼の名と色彩を知ったあの日も、ちょうどジョーの思い出と同じ十年前のことだ。
本当にあのWGPでの一年は、ブレットの記憶の中でも特別らしい。十年前、家族のようと思った彼女との会話がつぎつぎとよみがえる。セピアに染まることのない、極彩色の思い出の中で、彼女は一度だけブレットをふり返ってこう言ったのだ。
『本当よ、ブレット。恋のきっかけなんて、どこに落ちてるかわからないんだから』
『お前が言うと、説得力あるぜ』
カルロ率いるロッソストラーダとの直接対決は、そんな会話の翌月のことだった。
『少しは頭を使おうぜ、アメリカのボウヤ』
身内でもない人間に、面と向かって「バカ」と嘲笑われた経験はあれが最初で最後だ。カルロはレースだけでなく言葉のナイフでもって、ブレットの記憶にその存在を刻みつける(あの鮮やかな手口は、これまで彼がくぐってきた修羅場の賜物だと知った時は、感心とも憐憫ともつかない情がブレットの胸の内に湧き上がった)。
思えばこれが、ブレットに欠けていた(ジョー曰く、神様が入れ忘れた)「何か」が補充された瞬間だ。たった一人への執着、強い関心、求める一体感、まるで切れていた回路が正しく接続を果たしたかのように、ブレットの心は熱を持つほどの高速回転を始める。
『カルロ!』
『行けぇっ、ディオスパーダァ!』
カルロがとった手段の是非はどうあれ、彼が抱える勝利への飢餓はブレットの好奇心をくすぐるどころか虜にした。カリキュラムの一環であろうとも、ブレットにとってみればWGPでの戦歴は将来に影響を及ぼす。そんなブレットでさえ、カルロの見せる執念には恐れ入った。
ビクトリーズの星馬豪とは違う気迫、シュミットとは違うクレバーさ。だが、危うい。カルロの持つ危うさをブレットは「死神」と表現していた。まさかそんな陳腐なワードが、自分の辞書にあったとは思いもよらずに。
自分の中にあった価値観という強固な器に、ひびを入れられた。そのひびを無視することができず、その元凶に近づいた。当然彼は頑なで、けれど頑なであればあるだけ、興味は尽きることなく溢れ出す。豪の操るビート・マグナムがそうであるように、一度加速した鼓動を止めることは誰にもできなかった。
『目ざわりだ、消えな』
『ごちゃごちゃうるせえ!』
『てめえに何がわかる?』
ナイフと同じく、磨き上げられた鋭利な言葉を投げつけられても、いっそ彼のナイフに切り裂かれればこのどうしようもない興味も失せるのではないかと、ブレットはカルロに歩み寄ることを止めなかった。
心の深い場所に響く、ダイレクトな衝撃。相手への、自分ではどうしようもないほどの強い関心。
こっちを向け。
声を聞かせろ。
俺を見ろ。
ブレットがカルロに向けたそれらは、まさに恋の初期症状に他ならない。
『ボウヤ……』
ブレットに向くカルロの青い瞳。母の持つスターサファイアに似ていると思った輝きに、迷いが映るようになったのはいつごろだったろうか。
『勝手にしやがれ』
諦めたようにブレットが傍らにいることを彼が赦したとき、毛を逆立てて威嚇していた猫を手なずけた気分だったと言えば、今でもカルロは怒るだろうか。打ち明け話ついでに、話してみるのも面白いかもしれない。
『いっぺん触れたら、離さねえぞ』
それでもいいのか、と身震いとともに告げられた最後通告。望むところだと答えるなり、押し付けられた唇の熱さは彼からの執着そのものだった。この時、カルロから伝染(うつ)された熱は、いまだにブレットを甘くむしばみ続けている。
俺たちはもう少し、自信をもってぶつかり合っていいのかもな。
あれからもうもう十年だ。出会ってから、強く心を引き寄せられてから、胸の鼓動はおさまりそうもない。近づくもの全員にナイフを振り回さなければいけなかった彼の葛藤に、そろそろ踏み込んでもいい頃合いだと自惚れたくなる。弱い男じゃない。威勢だけの男でもない。劣悪な環境の中でも、決して媚びず俯かず、胸を張り続けた強さをあのナイフは象徴していた。
と、思うのは惚れた欲目だろうか。
「もっと知りたい……おまえのこと……」
十年経っても、その想いは変わらない。生い立ちも価値観もまるで異なる二人だが、積み重ねた歳月は確実に二人を結ぶ架け橋を強く、太くしてきた。イタリア空軍で念願のフレッチェ・トリコローリのパイロットに昇進したカルロは、すでにエースの座を確固たるものにしている。曲芸飛行に用いるアエルマッキMB-339は、ジェット機の航行域より高い、高度14000メートルを飛行可能だ。高角度で舞い上がる機体から、カルロもきっとブレットが愛するブルーを見ている。
『俺のカグヤ姫は、まだ月に帰っちゃいなかったんだな』
ブレットの瞳のムーン・グレイと宇宙への恋心をからかって、カルロは再会のたび、ブレットに向かってシニカルに笑いかける。日本の顔なじみたちに教わった月の姫君にまつわる昔話を、ブレットがいたく好んでいるからこその言動だ。そしていつか、ブレットが自分から離れていくことを勝手に予感し、彼が自らの心に予防線を張っているのだと言うことも、ブレットは薄々気づいていた。
誰よりも愛に飢えながら、愛に怯えているカルロ。
愛しているよ。
窓から見える空と、心に浮かぶ強い瞳に向けて、ブレットはありのままの想いを口内で転がす。この使い古された言葉で、カルロの杞憂を吹き飛ばしてしまえればいい。空の青とカルロの青、その二つに抱かれる時、ブレットは無上の恍惚に浸ることができるのだと心を尽くして伝えたかった。
カルロが心を開いてくれるなら、代わりに打ち明けよう、ブレット自身のことを。ジョーが教えてくれた「とびっきりチャーミングな天使」の話も含めて。愛に飢え愛に怯えるカルロに、恋を知らないブレットが惹かれた摂理とは何だったのか、二人で頭を悩ませてみるのも悪くない。
「お客様にご案内申し上げます。当機は順調にフライトを継続、イタリア・ヴェネツィアへの到着は定刻を予定しております。ヴェネツィアの現在の天候は――」
スピーカー越しのキャビンアテンダントの声に、ブレットはヴェネツィアで待つ男を想う。半年ぶりに姿を見る恋人は、どんなふうに変わっていて、どこまでブレットの知るままなのだろうか。ミニ四駆を走らせていたころと比べれば、はるかに筋骨共に逞しくなっているけれど、神経質なところは相変わらずだ。バカンスの初日は、彼のすべてを確かめることに費やされると考えたとたん、鼓動がまた速くなる。つられて熱くなりそうな体を静めるために、また一口ソーダを口に含んだ。
触れ合うを想像しただけでこれだ、とブレットの口元には殺しきれない笑みが浮かぶ。恋がわからなくて冷や冷やしていたあの頃の自分は、世間知らずで、ずいぶんと大げさな心配をしていたものだった。
カルロからのコールを受けたのは二日前。突然の休暇話に、あらゆるスケジュールを脇に押しやって空港に車を走らせた。上空一万メートルを飛ぶジェット、ヒューストンからヴェネツィアまでは直線距離にして約8900キロ。それだけの距離と高度を、カルロに会うためだけにブレットは移動している。
『そのうち現れるわよ、とびっきりチャーミングな天使が。「遅れてごめんね」って言いながら』
『恋のきっかけなんて、どこに落ちてるかわからないんだから』
ジョー。やっぱり、お前が言うと説得力があるな。
ジョーが言うところの「可愛い女の子」には程遠いけれど、抱きしめてキスしてその存在を全身全霊で感じたい相手がいる。愛だの恋だのにまったく関心がなかった自分が、恋人会いたさに大西洋を越える愚かさを、ブレットはたまらなく愛おしいと思った。
Oh, my dear!
(ガラの悪い神経質な天使でも、神様の人選なら文句は言えない)
+++++++++++
カルブレ、というかレツゴ作品を読んでくださる方が、おひとり?おふたり?くらいいらっしゃるみたいですごくうれしいです。
初めてのブレット視点。
ブレットは大卒出の天才なのに、脳みそスポンジな私が書いてもぜんぜんそう見えなくてへこむ。
ジョー大好きです。ジョー、かわいいよ、ジョー。
「天使にラブソング」1~2を観て、地元の教会の聖歌隊に入ってるブレットなんてめちゃくちゃかわいいな!って思いまして。
家族みんなで教会通いに熱心なんでしょう。カトリックかな?プロテスタントかな?
アメリカ自体はプロテスタントの方が多数派なんですよね。
歌はそんなにうまくないけど一生懸命歌ってるちっこいブレットとか……あ……//////
WGP2はその地元の聖歌隊メンバーが、クリスマスに激励に来てくれるといいよ。
んで、他のグランプリレーサーたちの前で、聖歌歌わされるといいよいいよ。
フレッチェ・トリコローリの飛行映像見ました。めっちゃかっこいいぜ//////
先導役の一機を目印に、残りの九機が演技しているんでしょうか。あの中にカルロが混じってると思うとニヤニヤがとまらないし、機体をわざとふらつかせて落ちていく演技になったら、ブレットが心臓止まりそうな顔するといいよ。
あと、フレッチェ・トリコローリとコラボした時計も見つけた。
戦闘機のことはよくわからないし、ミラノ~ヒューストン間の直線距離計算が間違ってないか心配だし。
専門外のことを書くのは、本当に不安でいっぱいです(逆に開き直れるけどね!!!)
2015.02.27. サイト初出。
2015.03.05. 加筆修正。
2015.03.26. 加筆修正。
2015.05.15. カルロのセリフが間違っていたので修正。
2015.07.07. ブレットの目的地をミラノからヴェネツィア(よりトリエステに近くて国際空港がある)に修正。
2015/02/27(金)
レツゴ:チョコレートナイフ(カルブレ)
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