※未来時制。カルロ23歳、ブレット24歳。
※ブレットは何度も宇宙に出ていて、中堅どころに手が届きそうです。
※カルロはイタリア空軍の曲芸飛行集団・フレッチェ・トリコローリのパイロットです。
※スペースシャトルはまだ飛んでます。
※架空のスペースシャトル打ち上げ失敗事件を取り扱います。(ねつ造)
※宇宙飛行士に関するあれやこれやもねつ造です。
※オートレースのこともよくわかりません。
※タイトルは「21」さまより。
精一杯のポーカーフェイス
「大学卒業おめでとう、カルロ」
グラスをかかげるブレットに、カルロも小さな笑みで応える。二人の間で、チンッ……とワイングラスがかわいらしい音を立てた。
トリエステのカルロの住まいは、築八十年はたつというアパートの一角にある。石造りが多いヨーロッパなら百年もたたない建物など「古い」と評されるほどでもないのだろうが、新しいもの好きなアメリカの、しかも都会育ちなブレットの目には新鮮に映る。ひとり者には十分な1DKは、部屋の境にドアがなく車両のように繋がっていて、レイルロードと呼ばれる古風な間取りだと教えられるのも面白かった。
そんなカルロの城でブレットが何より好むのは今こうしてワインを交わしているワンルームで、書斎兼リビング兼寝室という多機能性に加え、グレー一色の重厚な壁に囲まれた内装はおしゃれな秘密基地のようで冒険心をくすぐられる。目に入るものすべてが、カルロが一から揃えた家具や(一見ガラクタにしか見えない)調度品となれば、まるでカルロの体内にもぐりこんだかのようだ。
「グラーツィエ」
グラスを傾けワインを口に含むカルロの動きに合わせて、並んで腰掛けているソファの皮が軋む。ダークブラウンのソファはレトロかつダンディで、蚤の市でひと目ぼれしたカルロが値切りに値切って購入したものらしい。男でもゆうに三人、細身の女性なら五人は座れそうな大型家具は、軍隊仲間の手を借りて運び込むのも苦労したと言う。
そんな苦労と愛着ある大型家具に、カルロはDIYを施し座面の下からベッドマットを引っ張り出せるようにした。ほんのひと手間で、書斎兼リビングは瞬く間に寝室へと早変わりする。
カルロが手塩にかけたソファベッドは、ブレットが初めてこの部屋を訪れた日にお披露目され、そのまま彼らが愛し合うのに散々酷使された。羽目を外した二人のセックスに、三日間耐えきった頑丈さは素晴らしいの一言に尽きる。ブレットにとってもカルロにとっても、このソファはイタリアにおける二人のオアシスだ。
そんな双方お気に入りの空間で(この時はまだソファはソファとして機能しており、部屋は書斎兼リビングの体を成していた)、ブレットはカルロに肩を抱かれて祝いのワインを味わう。至福のひとときに笑みを抑えきれず、傍らの肩に頭を預ければ、体にまわされた腕の力とトワレのオリエンタルな香りが強くなった。
「これでやっと人並みってとこだな」
手放しの賞賛や祝辞には、何てことはない風を装うのが、カルロ流の照れ隠しだ。
十六歳で士官学校を卒業、晴れてイタリア空軍の新兵に採用されたカルロはその後も勉学を続け、十八歳でイタリアの高校卒業資格にあたるマトゥリタに合格した。マトゥリタの合格証書さえあれば国内の公立大学ならばどこにでも入れるが、カルロは基地から近いという理由でトリエステ大学の工学部に進学を決める。
「軍人と学生の二足わらじなら大したものじゃないか」
基地での訓練をこなしながら、カルロが三年の課程を五年がかりで卒業したのは三か月前のこと。本当はすぐにでも駆けつけたかったが、互いに仕事の都合がつかず、二人きりの卒業祝いは今日まで持ち越しにされていた。
「やはり頭が良いんだよ、お前は」
イタリアの大学は他の欧米の大学と同様、入るのはたやすいが卒業するのは難しい。入学者数に対し卒業者の数はおよそ二十%、平均的な在籍年数は六年で、勤勉な学生でも五年はかかると言われている。軍務をこなしながら勤勉な学生と肩を並べる期間で卒業できたことは、十分に胸を張っていい結果だ。
素晴らしい、と褒めちぎるブレットに、カルロは細い眉を上げて首を傾げる。
「宇宙飛行士やりながらドクター取ったてめぇに言われてもな」
しかも、ブレットが最初に博士号を得たのは十五歳のころで、カルロが士官学校になんとか滑り込んだ時期と一致する。ブレットから遅れること九年、ようやく大卒の学歴を得た今ならそのすごさがわかると、カルロはブレットの優れたこめかみにキスを落とした。同じ場所にキスを返しながら、近づいた耳にブレットは悪戯心を囁く。
「お前には、『少しは頭を使いな』って言われてたな」
ミニ四駆を走らせていたレース会場で、十年以上前に交わした会話を持ち出すと、カルロの怜悧な横顔ががとたんに渋い色に染まった。
「余計なこと思い出させんじゃねえよ」
「俺がお前に恋した、運命的なセリフだぜ?」
俺を「バカ」呼ばわりして黙らせたのは、後にも先にもお前だけだと目で訴えれば、昔話が嫌いなカルロは肩を抱く腕を解いて手を振った。
「その話はナシだ。俺がここまで来れたのは、優秀なアストロノーツさんのご鞭撻があってこそだよ。……これでいいだろ?」
あの「運命的なセリフ」を口にしたころ、カルロは初等教育すらまともに受けていなかった。九九すら怪しくともギャランティの計算はできるという不健全を抱えた状態で、士官学校を目指すのはかなりの難題だったはずだ。そんなカルロにブレットは、九九を教え、アルファベットの正しいつづり方を教えた。とりわけ理数系の分野では、掛け算割り算に始まり、一次方程式、二次方程式、因数分解から微分積分三角関数まで、カルロが数年で人並みの学習課程に追いつくことができたのは、本人の努力もさることながら、ブレットの「愛に溢れた」指導も大いに貢献している。
ある時は電話で、またある時はメールで、ビデオ電話の環境が整えば時差と互いのスケジュールをやりくりして遠距離授業は行われた。貴重な逢瀬の時間すら割いて、ベッドの中でテキストを広げながら勉学に勤しんだこともある。一問正解を導き出すたびに、ご褒美のキスをねだられた記憶は楽しくも懐かしかった。
あれから数年、そっぽを向いてしまった細い顎に、指をひっかけて振り向かせる。端整で怜悧な顔の中央に鎮座する鋭い鼻先に、ブレットはあの頃と変わらない優しいのキスをプレゼントした。
「お前は良い生徒だったぜ、カルロ」
イタリアミニ四駆界でどれほど名を上げようと、お里をたどればスラム街のゴロツキに過ぎなったカルロが、今では真っ当な手段で生計を立て、その上学位まで取得するに至ったのだ。カルロがそんな人生を勝ち取るため、努力を重ねた動機に自分の存在がある。カルロがそう、はっきりと口にしたわけではないけれど、出自の怪しさや社会的地位、経済的な面で彼が大きな劣等感を抱えていることはブレットも承知していた。
何より、カルロは誇り高い男だった。生まれついてのハンディキャップなどなんのその、ブレットに決して寄りかからず、甘えず、最後は自力で壁を登りきり、同じ高みに立とうとする。西ヨーロッパ最高峰、モンテ・ビアンコ(モンブラン)級のプライドの高さに、ブレットは恋している。
カルロ=セレーニという名の、愛する男の変遷に自分が関わっていることにブレットは無上の喜びを感じ、だからこそ誇り高い男から発せられるSOSにはあらゆる協力を惜しまなかった。
「マイ・フェア・レディ……? いや、ムラサキノウエ計画か」
「あぁ?」
日本人の旧友たちに教わった、理想の女性教育の物語に自分たちが辿った軌跡を照らし合わせて、ブレットはほくそ笑む。日本のフィクションなど「カグヤ姫」くらいしか知らない(興味がない)カルロは、ブレットのひとりごとにぎゅっと眉をひそめた。しかめっ面もチャーミングだな、と眉間に酔った皺に唇を押し当ててブレットは叱られそうな想像を誤魔化しにかかる。
「それで、次はどうするつもりだ?」
せっかくの学位取得だ、その先に進むという選択肢もある。カルロの地頭の良さは長年の学習指導でよく理解しているから、修士あたりは問題ない。軍人も修士レベルの人材は貴重だろう、危険な任地に送り込まれる確率も減るのではないか、という恋人ならではの皮算用も秘めていた。
できることなら、レトロでダンディなこの部屋で、カルロには安らかな日々を過ごしてもらいたかった。
だって、やっとだ……。
食べることも住むことも、学ぶことすら困らず、カルロ曰く「人並みに」生きることができるようになったのだから。
だが恋人の平穏な日々を願うブレットに、カルロの口から告げられたのは意外な提案だった。
「軍を出る。年内に」
宇宙飛行士は、適性と訓練によって驚きのハードルが普通の人間より高く設定されている。だから、ちょっとやそっとのことでは大騒ぎしない。しかしプライベートということもあって、聞かされたばかりの恋人の進路にブレットの背がソファから浮いた。
「本気か」
「もともと暮らしに困らねえために入ったんだ。学位も取ったら用はねえよ」
「フレッチェ・トリコローリは? やっとなれたパイロットだろ」
「だからじゃねえか。やること済ましたらすぐ次だ」
カルロにとって仕事は生きるための手段で、文字通りの生業だ。最もこだわりがあったはずのミニ四駆とも、過去から逃れるために手を切っている。以来、カルロはあまり一つの道に拘らなくなった。何が何でも宇宙飛行士に、宇宙に関わっていなければ耐えられないブレットとは対照的に。
「そうか……」
浮かせた背中をソファに戻して、ブレットは虚空を見上げる。恋人が一体いつが戦地に飛び立つのか、内心冷や冷やしていた身としては肩透かしを食らった気分だった。
「嬉しくなさそうだな。いつ死ぬかもしれねぇって嫌がってたのは嘘か」
「嘘なもんか。そうか……、ああ、いきなりで驚いただけだ。お前の決めたことなら……、具体的にはどうするんだ?」
答える代わりに、カルロはソファから立ち上がった。くたびれたスプリングに揺られながら、ブレットは壁際のシェルフに向かう背中を見送る。幼いころは華奢さが目立った肉体は、軍隊生活で鍛えられ見違えるほどたくましくなった。服を着ていても、太い首と盛り上がった僧帽筋が培ったタフさを表していてセクシーだ。それでも体質なのか、全体的なシルエットは筋肉ダルマのように膨らんだりしていない。無駄のない細身のスタイルは、どこか脱力感のあるイタリアブランドの服にも良く似合っていた。
色褪せたシェルフ、棚板に並ぶ小さな置物、流行りの過ぎたCDに、古ぼけた写真集。時間と手間をかけて(そしてなるべく金をかけずに)蒐集した品で埋め尽くされた、書斎兼リビングのダンディでレトロな空間に佇むカルロは、まるで映画のワンシーンのように浮世離れしている。
「次はこいつだ」
うっかり見惚れていたブレットは、ソファに戻ったカルロが差し出してきたものが一瞬何かわからなかった。派手なペイントを施されたボディから、むき出しになった二つの黒い車輪。
「ロードレース……、二輪か。四輪じゃなくて」
確かにイタリアは有名な二輪ライダーを多く輩出している。「史上最強のライダー」バレンティーノ・ロッシの名前くらいは、ブレットも聞き覚えがあった。それでも、カルロが二輪を選んだのは意外だった。レースの世界が忘れられないのだとしたら、四輪しか眼中にないものと思い込んでいたからだ。
「二輪の方が、体がむき出しでスリルがあんだろ」
あっけらかんとしたカルロの答えに、ブレットは眉を顰めずにはいられない。
「お前はすぐそういうことを言う」
トリコローリを目指した時もそうだった。垂直飛行で上下天地がわからなくなる瞬間がたまらないと言っては、ブレットを青ざめさせた。実際、垂直上昇したのち機首を上にしたまま降下するテールスライドという曲芸飛行は、カルロの得意技の一つだ。
「バカでかいシャトルに乗っかってたってな、そいつがてめぇの棺桶になっちまうことだってあるだろうが」
わが身の危険を顧みないカルロに説教のひとつでも垂れてやろうとしたブレットは、続く恋人の言葉に沈黙を余儀なくされる。スペースシャトルの事故率の高さは、戦闘機のそれとは比べ物にならなかった。
ブレットを言いくるめることに成功したカルロは、いつもの挑発的な笑みを浮かべる。ぐうの音も出ないブレットは、ふてくされるしかなかった。
「バイクや諸々はどうするんだ?」
どこかのチームに所属するにしても、まずはどこかの草レースで腕試しと訓練を重ねることになるだろう。現実主義なこの男が何も考えていないはずはないが、考えがあるならなおさら聞いておきたい。
「ツテはある」
「おい、まさか」
瞬時に脳裏にちらついたのは、ロッソストラーダのオーナーの影だ。決して短くない歳月をかけてようやくまともな道に落ち着いてきたというのに、また路地裏に足を踏み入れる気かと懸念するブレットに、カルロは首を振る。
「ドンじゃねえ。だいたい、俺はドンにゃ睨まれてる。四輪にしねえのもそっちが本音だ」
カルロが悪名高きイタリアマフィアと繋がりがある(むしろマフィアそのものかもしれない)ロッソストラーダのオーナーの元を去ったのは、三回目のWGPが終わったときのことだ。三度目のグランプリも、カルロはイタリア代表のリーダーを背負っていた。惜しくも優勝には手が届かなかったが、バトルレースから脱したカルロの走りは、第一回、二回の大会を通じてロッソに付きまとっていたダーティなイメージを完全に払拭した。ロッソを表家業の看板にしたがっていたオーナーは、カルロが成功させたイメージ戦略を受け入れ、その功績と引き換えに彼を自由の身にした。
というのが、ブレットの知る限界だ。真実、カルロとオーナーの間にどのような交渉がなされ、いかなる約定が成立したのか、当の本人は決して口を割ろうとしない。四輪のレースに近寄らないことも「契約」のうちなのかもしれなかった。
「ならツテってのは何なんだ」
「スラム仲間にペペって何でも屋がいてよ。奴とツルんでた道具屋の野郎と連絡がとれた。奴なら出すもん出せばなんだって揃えやがる」
「まさか一からカスタムする気か、お前が」
「他に誰がいるってんだ」
「何バカ言ってるんだ。専門家を雇え。パーツだってなんだって、正規品じゃないんだろ」
「そんな金ねえ」
「だったら!」
「専門家がいようが正規品だろうが、壊れるもんは壊れる」
強い語気と向けられた眼差しの冷たさに、ブレットの正論が凍りつく。カルロがむき出しにした気迫に、ブレットの背筋を悪寒が駆け抜けた。
「違うか? N△S△の宇宙飛行士さんよ」
カルロは怒っていた。その怒りが、ブレットが去年携わったミッションに起因していることは明らかだ。
去年の六月、ブレットは彼自身五回目のシャトル打ち上げによって宇宙ステーションにたどり着いた。ブレットのステーション滞在はこれで三度目、その内ステーション滞在期間が百日を超えるミッションは二度目だった。約五か月にわたる宇宙活動ののち、十一月には帰還し、ブレットはクリスマスと年明けを地球で迎えられる予定だった。
しかし、ブレットが帰還用に搭乗するはずだったシャトルが打ち上げに失敗。地上で機体が大きく破損し、交代要員だった乗組員たちが巻き添えを食らう大事故が発生した。不幸中の幸いで死者は出なかったものの、搭乗員や周辺にいた技術者を含め、火傷や骨折など多数の重軽傷者を出してしまった。
この事故で、ブレットの帰還予定は無期限に延期される。ブレットを含めた数名の宇宙飛行士たちは、地球の軌道上をまわる(宇宙に比べれば)とても小さなカプセルに取り残されることとなった。
『悪いが、卒業祝いは遅らせてくれ』
ステーションからのインターネット電話で、カルロにそう伝える声は淡々としていた。すでにカルロの卒業見通しが立っていたため、このミッションが終われば一緒に祝おうというのが出立前からの約束だった。
パーフェクトだ。
謝罪を言い終えたブレットは、訓練通りのトーンを出せたことに満足を覚えていた。約束の反故、すなわち不吉な報せを受け止めなければいけない恋人への気遣いの裏で、(建前上秘密である)通話の内容を監視している地上の管制者たちに、自分の冷静さをアピールできたことを誇りにすら思っていた。この瞬間のブレットとカルロの心理的距離は、おそらく地上と宇宙ステーションを隔てる四百キロより遠かっただろう。
『連絡寄こしたんだ、チャラにしてやる』
ブレットの無事な声が聞けてほっとした、カルロは言外にそう告げた。
「未亡人予備軍」という言葉がある。宇宙に立つ飛行士たちを地上で待つ、妻や婚約者を指したN△S△での隠語だ。
夫または婚約者が地上を離れてから帰還するまで、未亡人予備軍たちはN△S△から手厚い保護を受けることになる。未婚者で結婚の予定もないブレットの場合、このような保護はワシントンD.C.に住まう両親や姉たちに向けられる。事故発生直後から、愛息と弟が置かれた状況の説明、ビデオ通話による対面など、宇宙飛行士の「家族」をフォローするありとあらゆるサービスがワシントンD.C.のある一軒家に集中した。だがこれらのサービスの一端ですら、イタリアに住むカルロに向けられることはなかった。
カルロは未亡人予備軍にはカウントされない。ブレットのセクシャリティも、その対象であるステディな相手がイタリア在住の空軍兵であることも、N△S△は一切を承知していながらカルロには何も知らせなかった。カルロが事故のことを知ったのは、衛星チャンネルに映るアメリカの報道番組を見てのことであり(地元イタリアのニュースでは事故がヘッドラインを飾ることすらなかった)、宇宙ステーションに取り残された飛行士の状況については、ブレットからのコールがあるまで何一つわからなかった。
『還れんのか』
『何とかなるさ』
それ以上のことを、ブレットは説明してやることができないし、聞かされたところでカルロができることはなにもなかった。沈黙が大部分を占める通話で、受話器を握り締める二人が考えていたことは同じだった。
もし、打ち上げに成功していたら。
シャトルの問題の発生は遅れていた。それは交代要員を乗せたシャトルが、大気圏を宇宙に向けて突き破った瞬間かもしれない。仮に宇宙ステーションまでたどり着けていたとしても、時限爆弾を抱えた機体に次に乗り込むのはブレットを含めた帰還メンバーたちだ。地上でのトラブルと違い、宇宙空間、あるいは空中での機体の破損は、乗組員の死亡につながる可能性が極めて高い。
例えば、もしも、万が一、ブレットが殉職の憂き目にあってしまったとして、『俺のカグヤ姫』とカルロが呼びかける通り、日本のおとぎ話の姫君よろしく永遠に月に旅立ってしまったとして、その報せをカルロにもたらしてくれる者はいない。未亡人予備軍ではないカルロは、他の宇宙飛行とは全く無関係な大多数の人々と同じように、恋人の死を、自分の人生に光をもたらしてくれた存在の喪失を、無味乾燥な報道でしか知ることが出来ないのだ。
「ミッションのたびに遺書書き直してる野郎に、俺の危険がどうのたぁ言わせねえ」
宇宙飛行士はロマンに満ちた仕事だが、任務を担う人間を支配するのは徹底的な現実主義だ。スペースシャトルに乗り込む宇宙飛行士は、この巨大な科学技術の塊が自分の棺桶になる可能性を冷めた理性で認識している。彼らはクルーに選ばれた瞬間から身の回りのものを整理し、残される(ことになるかもしれない)者たちのために書類を残す。ブレットは間違いなく、そんな現実主義的なロマンチストのひとりだった。
幸運なことに、ブレットは予定より三か月遅れで地球に帰還できた。ロシアの協力のおかげで必要な物資の供給は滞りなく、帰還がいつになるかわからない不安を除けばステーションでの生活は快適だった(地球に帰還後ブレットは、元シルバーフォックスのユーリに宛てた手紙で感謝を述べた。ユーリからの返事は「祖国の科学技術が、大切な友人の生還の一助になったことを誇りに思う」という慎ましいもので、ブレットは変わらない旧友のキャラクターに笑顔を見せている)。
突発的な災難ではあったものの、朗報もあった。今回のミッション期間の延長のおかげでブレットは、二十代前半という若さながら、宇宙飛行士として中堅どころに手が届くようになった。事故後の冷静な対応(カルロや家族との電話のやりとりも含まれる)から、より重要なミッションを任される可能性も高まった。ブレットがコマンダーとして、ミッション全体を取り仕切る日はそう遠くない。
しかし、一度受けた心の断絶は、カルロとの関係に大きなしこりを残した。
「あんとき俺は死ぬほど実感したぜ。トリコローリでどんなに高く飛んだって、てめぇのところには行けねえんだって」
「お互いさまだろ……」
それが、ブレットの言い返せる精いっぱいだ。
「ああ、その通りだ。だからお前が宇宙飛行士やめねえ限り、俺も俺の好きにする」
ここですぐ、家族にカムアウトしてパートナーシップを結ぼう、結婚しよう、そうすればN△S△の未亡人予備軍に加われる、とならないのがブレットとカルロだった。少なくともはばかるべき身内がいないカルロが、決断をブレットに強いることはない。それどころか、いつブレットが自分から去ってもいいように覚悟を決めている節がある。N△S△の緊急連絡リストに、カルロの名が載らない最大の理由がそこにあった。
カルロはカムアウトをすることも、またしないことも受け入れている。腹をくくりきれないのはいつもブレットの方だ。ゆえにブレットはこの手の問題でカルロに強く出ることができなかった。
「どうせ届かねえんなら、空にこだわるこたねえだろ」
曲芸飛行に憧れる理由について、これまでカルロは一貫して、操縦桿を握るスリルや、スリルによって強まる生きている実感がたまらないのだとブレットに説明してきた。だが、今の彼の言動を鵜呑みにすれば、彼が空を目指す目標はブレット自身だ。まるでカノープスを目印にして太陽系を飛行する惑星探査機のように、カルロはブレットを探して大空を飛ぶ。
ブレットの存在は、カルロの人生を明るい方向に向かわせた。そして、カルロの過敏な心を深く傷つけてしまうのもまたブレットなのだと、あの事故はカルロとブレットに思い知らせた。
完全に何も言えなくなってしまったブレットと、ブレットから目をそらさないカルロの間に沈黙が落ちる。息が詰まりそうな、そのまま熱いキスを交わしてセックスになだれ込みそうな、じりじりとした緊張感を解いたのはカルロだった。
まるで、お仕置きはこれでおしまいとでも言いたげに、カルロはとげとげしい気配を消して口角を上げる。
「やっぱ、レースの感覚には勝てねえしな」
どれほどの危険が伴おうと、難易度の高い演技を強いられようと、セレモニーで披露される曲芸飛行はハイレベルなお遊戯会だとカルロは主張する。綿密に組まれたタイミングに沿い、ミリ単位の操縦技術を磨くことは、スリル狂いなカルロを一応は満足させた。しかし、慣れてしまえばそこまでだ。
ならば一刻も早く戦場に出て敵戦闘機を撃墜したいかと聞かれれば、それも違うとカルロは首を振る。バトルはもう卒業したんだ、と。
レースに慣れはない。試合ごとにライバルが、マシンが、気象条件やロードコンディションが変わっていく。日本での世界グランプリ、最終レース第二セクションでの栄光は、今もしきりにカルロをレースの世界に手招きしていた。
「二輪なら空がよくわかるぜ。俺はそれで十分だ」
カルロは劣悪な環境で生きてきた。生き延びるためなら何でもやった、らしい。一方でカルロは誇り高い男でもある。レーサーとして、誇りある人間として、彼が目覚めたのはWGP決勝でのあの走りだった。その誇り高い男が、空にこだわる。空にこだわることはないと、飛行機乗りを捨てると告げながら、同じ口で空が良く見えるという理由で四輪ではなく二輪を選ぼうとしていた。
彼の空への執着はブレットへの想いそのもののようで、ブレットは頬が熱くなる。
カルロはその昔、自分のどん底から這い上がらせてくれたミニ四駆を捨てた。オーナーから逃れたかったからだ。オーナーから逃げたかったのは、太陽の下で生きるためだ。軍隊に入ったのも、死ぬほど勉強して大学を卒業したのも、経済的に自立し、社会的な体裁を整えるため。それらの行動の根っこに、ブレットがいる。
今でも、カルロの過去を叩けば埃はいくらでも出るのだろう。いつか恋人としてブレットの両親に対面した時、その誇りを少しでも目立たさせなくするために、カルロはより良い道を選んできた。……と、妄想を進めてしまうのは、行き過ぎだろうか。ブレットひとりの、独善的な思い込みだろうか。
そうならいい。俺がお前の、カノープスであればいい。
ブレットは腕を伸ばして、カルロを抱き寄せる。素直な体はブレットの腕に収まり、筋肉質な厚い胸板が触れた。こめかみに触れる髪は、士官学校に入学する際に短く(袖の下を使って丸坊主だけはどうにか回避)して以来、ずっと同じスタイルを貫いている。ちくちくとする襟足を指で撫で、色素の薄い髪の根元に鼻をうずめて、オリエンタルなミドルノートを胸いっぱいに吸い込む。そして、やればできる賢い頭にキスの雨を降らせた。
「お前の人生だ、好きにしろ」
「言われなくても」
恋心に浮かされた勢いで、結婚してくれと言えたらいいのに。イタリア人は愛を謳歌するイメージに反してゲイには批判的だ(カソリックのお膝元という事情もある)が、州によればパートナーシップ制度があるし、ブレットの故郷ワシントンD.C.なら同性婚は合法化されたばかりだ。だからますます、ブレットが家族にカムアウトできるかが問題になる。そしてブレットが尻込みするのには、一にもニにも家族の反応に不安があるからだ。
まだ若い姉たちはいい。父も仕事柄で培った理性で受け止めることができるだろう。だが母はどうだ。幼いブレットを連れて教会に通い、聖歌隊にまで入れた母の反応だけが読めず、恐ろしかった。学問的に進みすぎている点を除けば、ブレットはあまり手のかからない子どもだった。落ち着いていて、素行も良く、十代から多忙だったおかげで反抗期すらほとんどなかった。そんな愛息から落とされる(宇宙飛行士につきまとう死の影より強烈なインパクトを持つ)爆弾を、果たして母は愛情を持って受け入れてくれるだろうか。
カルロとの将来を考えるとき、天涯孤独な彼の身の上が少しだけ、不謹慎と承知しつつもほんの少しだけ、うらやましくなる。
決してほめられたものではない思考に陥りそうになって、ブレットはカルロの髪から顔を上げた。
「せめて、俺にマシンチェックさせろ」
たとえ結婚したって、何が変わると言うのだろう。どんな誓約書にサインしたとしても、カルロは走る、ブレットが飛ぶように。そう考えると、この問題を先送りすることができる。もっと切迫した問題に、取り組むことが出来る。
「お前、バイクわかんのか」
「自動車工学は専門外だが、機械工学の基礎ならわかる。必要なら勉強したっていい。とにかく見せろ」
今目の前に迫った問題は、バイクを駆るカルロの安全だ。お前の邪魔はしないから、せめて口出しくらいさせてくれ、と言いつのるブレットにカルロは愉快げに笑った。
「N△S△の宇宙飛行士のお墨付きか、悪くねえ」
ブレットは宇宙に、カルロはレースに。互いの道は譲らないからこそ、今日まで続いてきた長い愛人関係だ。直線距離にして8600キロ以上、時差にして七時間の隔たりを越えてきた。その過去を信じて、地上四百キロの隔絶に挑みたい。母へのうしろめたさに比べれば、それはずっと些細な障壁のように思えた。
「ああ、任せろ」
いつか、いつか。カルロが走るのに飽き、ブレットが宇宙を解き明かしたいつの日か(そして意外にも、母が大きな愛情でブレットの恋を認めてくれたのなら)。ダンディでレトロな部屋で、一緒に暮らせたらいいと願って。
精一杯のポーカーフェイス
(いっそお前が、プロポーズしてくれれば話は早いんだが)
+++++++++++
カルロが腹をくくりだすと、とたんにブレットがうじうじ期突入っていう。
カルロの大卒祝い&次の進路話を書こうとしてたのに、気づいたらプロポーズ云々の話になっていた。解せぬ。
やっぱりいつまでもカルロを軍隊に置いておくと、哀しい話に向かいそうなので、さっさと離脱してもらうことにしました。
イタリアはモータースポーツが盛んみたいですね。四輪、二輪はもちろん自転車競技まで。
こういうジャンルもあまり詳しくないのですが、モトクロスなんてかっこいいなーと(イメージ先行型)
カルロ年表
11歳 WGP1 ブレットとの出会い
12歳 WGP2 ブレットへの恋自覚? バトルレースから足を洗う。(センチメンタルテロリズム)
13歳 WGP3 ブレットと両想いに。ミニ四駆引退&ドンと縁切り。(ペシミストの救済)
(ブレット14歳、WGP不参加、大学院へ)
14歳 猛勉強の果て、イタリア空軍の士官学校へ(士官学校が何歳から何歳までとかツッコミはなしで)
(ブレット15歳、宇宙飛行士デビュー(今思えば無茶な設定だ))
15歳 士官候補生なう(HONEY)
16歳 士官学校卒業、イタリア空軍新兵に(Please kiss me more and more)
(ブレット17歳、8月にドイツで目の手術)
18歳 マトゥリタ(高校卒業資格試験)合格、トリエステ大学工学部へ進学
20歳 フレッチェ・トリコローリのパイロット昇進?
21歳 エースパイロットに(Oh,my dear!)
23歳 大学卒業(←今ココ!精一杯のポーカーフェイス) 空軍退役、オートレースの世界へ???
的なイメージです。23~24歳でライダーデビューは遅咲きかもしれないが、レツゴRRの豪くんが三十路でF1レーサーやってるから大丈夫!!
短編それぞれは連作のつもりで書いてはいませんが、だいたいこの辺っていう目安につけてみました。
うちのカルブレは、カルロ人生更生物語と言っても過言ではないな(笑)
ブレットの方の事件(架空)は、コロンビア号の事故をベースにでっちあげました。
レツゴの世界では死亡者がでるような事故は起きてほしくないなと。
ブレットも早めに引退してほしいよ!
宇宙飛行士関連の本読むたびに、本当に死と隣り合わせの職業だってわかって「ヒィッ」ってなる……
2015/03/05 サイト初出。
※ブレットは何度も宇宙に出ていて、中堅どころに手が届きそうです。
※カルロはイタリア空軍の曲芸飛行集団・フレッチェ・トリコローリのパイロットです。
※スペースシャトルはまだ飛んでます。
※架空のスペースシャトル打ち上げ失敗事件を取り扱います。(ねつ造)
※宇宙飛行士に関するあれやこれやもねつ造です。
※オートレースのこともよくわかりません。
※タイトルは「21」さまより。
精一杯のポーカーフェイス
「大学卒業おめでとう、カルロ」
グラスをかかげるブレットに、カルロも小さな笑みで応える。二人の間で、チンッ……とワイングラスがかわいらしい音を立てた。
トリエステのカルロの住まいは、築八十年はたつというアパートの一角にある。石造りが多いヨーロッパなら百年もたたない建物など「古い」と評されるほどでもないのだろうが、新しいもの好きなアメリカの、しかも都会育ちなブレットの目には新鮮に映る。ひとり者には十分な1DKは、部屋の境にドアがなく車両のように繋がっていて、レイルロードと呼ばれる古風な間取りだと教えられるのも面白かった。
そんなカルロの城でブレットが何より好むのは今こうしてワインを交わしているワンルームで、書斎兼リビング兼寝室という多機能性に加え、グレー一色の重厚な壁に囲まれた内装はおしゃれな秘密基地のようで冒険心をくすぐられる。目に入るものすべてが、カルロが一から揃えた家具や(一見ガラクタにしか見えない)調度品となれば、まるでカルロの体内にもぐりこんだかのようだ。
「グラーツィエ」
グラスを傾けワインを口に含むカルロの動きに合わせて、並んで腰掛けているソファの皮が軋む。ダークブラウンのソファはレトロかつダンディで、蚤の市でひと目ぼれしたカルロが値切りに値切って購入したものらしい。男でもゆうに三人、細身の女性なら五人は座れそうな大型家具は、軍隊仲間の手を借りて運び込むのも苦労したと言う。
そんな苦労と愛着ある大型家具に、カルロはDIYを施し座面の下からベッドマットを引っ張り出せるようにした。ほんのひと手間で、書斎兼リビングは瞬く間に寝室へと早変わりする。
カルロが手塩にかけたソファベッドは、ブレットが初めてこの部屋を訪れた日にお披露目され、そのまま彼らが愛し合うのに散々酷使された。羽目を外した二人のセックスに、三日間耐えきった頑丈さは素晴らしいの一言に尽きる。ブレットにとってもカルロにとっても、このソファはイタリアにおける二人のオアシスだ。
そんな双方お気に入りの空間で(この時はまだソファはソファとして機能しており、部屋は書斎兼リビングの体を成していた)、ブレットはカルロに肩を抱かれて祝いのワインを味わう。至福のひとときに笑みを抑えきれず、傍らの肩に頭を預ければ、体にまわされた腕の力とトワレのオリエンタルな香りが強くなった。
「これでやっと人並みってとこだな」
手放しの賞賛や祝辞には、何てことはない風を装うのが、カルロ流の照れ隠しだ。
十六歳で士官学校を卒業、晴れてイタリア空軍の新兵に採用されたカルロはその後も勉学を続け、十八歳でイタリアの高校卒業資格にあたるマトゥリタに合格した。マトゥリタの合格証書さえあれば国内の公立大学ならばどこにでも入れるが、カルロは基地から近いという理由でトリエステ大学の工学部に進学を決める。
「軍人と学生の二足わらじなら大したものじゃないか」
基地での訓練をこなしながら、カルロが三年の課程を五年がかりで卒業したのは三か月前のこと。本当はすぐにでも駆けつけたかったが、互いに仕事の都合がつかず、二人きりの卒業祝いは今日まで持ち越しにされていた。
「やはり頭が良いんだよ、お前は」
イタリアの大学は他の欧米の大学と同様、入るのはたやすいが卒業するのは難しい。入学者数に対し卒業者の数はおよそ二十%、平均的な在籍年数は六年で、勤勉な学生でも五年はかかると言われている。軍務をこなしながら勤勉な学生と肩を並べる期間で卒業できたことは、十分に胸を張っていい結果だ。
素晴らしい、と褒めちぎるブレットに、カルロは細い眉を上げて首を傾げる。
「宇宙飛行士やりながらドクター取ったてめぇに言われてもな」
しかも、ブレットが最初に博士号を得たのは十五歳のころで、カルロが士官学校になんとか滑り込んだ時期と一致する。ブレットから遅れること九年、ようやく大卒の学歴を得た今ならそのすごさがわかると、カルロはブレットの優れたこめかみにキスを落とした。同じ場所にキスを返しながら、近づいた耳にブレットは悪戯心を囁く。
「お前には、『少しは頭を使いな』って言われてたな」
ミニ四駆を走らせていたレース会場で、十年以上前に交わした会話を持ち出すと、カルロの怜悧な横顔ががとたんに渋い色に染まった。
「余計なこと思い出させんじゃねえよ」
「俺がお前に恋した、運命的なセリフだぜ?」
俺を「バカ」呼ばわりして黙らせたのは、後にも先にもお前だけだと目で訴えれば、昔話が嫌いなカルロは肩を抱く腕を解いて手を振った。
「その話はナシだ。俺がここまで来れたのは、優秀なアストロノーツさんのご鞭撻があってこそだよ。……これでいいだろ?」
あの「運命的なセリフ」を口にしたころ、カルロは初等教育すらまともに受けていなかった。九九すら怪しくともギャランティの計算はできるという不健全を抱えた状態で、士官学校を目指すのはかなりの難題だったはずだ。そんなカルロにブレットは、九九を教え、アルファベットの正しいつづり方を教えた。とりわけ理数系の分野では、掛け算割り算に始まり、一次方程式、二次方程式、因数分解から微分積分三角関数まで、カルロが数年で人並みの学習課程に追いつくことができたのは、本人の努力もさることながら、ブレットの「愛に溢れた」指導も大いに貢献している。
ある時は電話で、またある時はメールで、ビデオ電話の環境が整えば時差と互いのスケジュールをやりくりして遠距離授業は行われた。貴重な逢瀬の時間すら割いて、ベッドの中でテキストを広げながら勉学に勤しんだこともある。一問正解を導き出すたびに、ご褒美のキスをねだられた記憶は楽しくも懐かしかった。
あれから数年、そっぽを向いてしまった細い顎に、指をひっかけて振り向かせる。端整で怜悧な顔の中央に鎮座する鋭い鼻先に、ブレットはあの頃と変わらない優しいのキスをプレゼントした。
「お前は良い生徒だったぜ、カルロ」
イタリアミニ四駆界でどれほど名を上げようと、お里をたどればスラム街のゴロツキに過ぎなったカルロが、今では真っ当な手段で生計を立て、その上学位まで取得するに至ったのだ。カルロがそんな人生を勝ち取るため、努力を重ねた動機に自分の存在がある。カルロがそう、はっきりと口にしたわけではないけれど、出自の怪しさや社会的地位、経済的な面で彼が大きな劣等感を抱えていることはブレットも承知していた。
何より、カルロは誇り高い男だった。生まれついてのハンディキャップなどなんのその、ブレットに決して寄りかからず、甘えず、最後は自力で壁を登りきり、同じ高みに立とうとする。西ヨーロッパ最高峰、モンテ・ビアンコ(モンブラン)級のプライドの高さに、ブレットは恋している。
カルロ=セレーニという名の、愛する男の変遷に自分が関わっていることにブレットは無上の喜びを感じ、だからこそ誇り高い男から発せられるSOSにはあらゆる協力を惜しまなかった。
「マイ・フェア・レディ……? いや、ムラサキノウエ計画か」
「あぁ?」
日本人の旧友たちに教わった、理想の女性教育の物語に自分たちが辿った軌跡を照らし合わせて、ブレットはほくそ笑む。日本のフィクションなど「カグヤ姫」くらいしか知らない(興味がない)カルロは、ブレットのひとりごとにぎゅっと眉をひそめた。しかめっ面もチャーミングだな、と眉間に酔った皺に唇を押し当ててブレットは叱られそうな想像を誤魔化しにかかる。
「それで、次はどうするつもりだ?」
せっかくの学位取得だ、その先に進むという選択肢もある。カルロの地頭の良さは長年の学習指導でよく理解しているから、修士あたりは問題ない。軍人も修士レベルの人材は貴重だろう、危険な任地に送り込まれる確率も減るのではないか、という恋人ならではの皮算用も秘めていた。
できることなら、レトロでダンディなこの部屋で、カルロには安らかな日々を過ごしてもらいたかった。
だって、やっとだ……。
食べることも住むことも、学ぶことすら困らず、カルロ曰く「人並みに」生きることができるようになったのだから。
だが恋人の平穏な日々を願うブレットに、カルロの口から告げられたのは意外な提案だった。
「軍を出る。年内に」
宇宙飛行士は、適性と訓練によって驚きのハードルが普通の人間より高く設定されている。だから、ちょっとやそっとのことでは大騒ぎしない。しかしプライベートということもあって、聞かされたばかりの恋人の進路にブレットの背がソファから浮いた。
「本気か」
「もともと暮らしに困らねえために入ったんだ。学位も取ったら用はねえよ」
「フレッチェ・トリコローリは? やっとなれたパイロットだろ」
「だからじゃねえか。やること済ましたらすぐ次だ」
カルロにとって仕事は生きるための手段で、文字通りの生業だ。最もこだわりがあったはずのミニ四駆とも、過去から逃れるために手を切っている。以来、カルロはあまり一つの道に拘らなくなった。何が何でも宇宙飛行士に、宇宙に関わっていなければ耐えられないブレットとは対照的に。
「そうか……」
浮かせた背中をソファに戻して、ブレットは虚空を見上げる。恋人が一体いつが戦地に飛び立つのか、内心冷や冷やしていた身としては肩透かしを食らった気分だった。
「嬉しくなさそうだな。いつ死ぬかもしれねぇって嫌がってたのは嘘か」
「嘘なもんか。そうか……、ああ、いきなりで驚いただけだ。お前の決めたことなら……、具体的にはどうするんだ?」
答える代わりに、カルロはソファから立ち上がった。くたびれたスプリングに揺られながら、ブレットは壁際のシェルフに向かう背中を見送る。幼いころは華奢さが目立った肉体は、軍隊生活で鍛えられ見違えるほどたくましくなった。服を着ていても、太い首と盛り上がった僧帽筋が培ったタフさを表していてセクシーだ。それでも体質なのか、全体的なシルエットは筋肉ダルマのように膨らんだりしていない。無駄のない細身のスタイルは、どこか脱力感のあるイタリアブランドの服にも良く似合っていた。
色褪せたシェルフ、棚板に並ぶ小さな置物、流行りの過ぎたCDに、古ぼけた写真集。時間と手間をかけて(そしてなるべく金をかけずに)蒐集した品で埋め尽くされた、書斎兼リビングのダンディでレトロな空間に佇むカルロは、まるで映画のワンシーンのように浮世離れしている。
「次はこいつだ」
うっかり見惚れていたブレットは、ソファに戻ったカルロが差し出してきたものが一瞬何かわからなかった。派手なペイントを施されたボディから、むき出しになった二つの黒い車輪。
「ロードレース……、二輪か。四輪じゃなくて」
確かにイタリアは有名な二輪ライダーを多く輩出している。「史上最強のライダー」バレンティーノ・ロッシの名前くらいは、ブレットも聞き覚えがあった。それでも、カルロが二輪を選んだのは意外だった。レースの世界が忘れられないのだとしたら、四輪しか眼中にないものと思い込んでいたからだ。
「二輪の方が、体がむき出しでスリルがあんだろ」
あっけらかんとしたカルロの答えに、ブレットは眉を顰めずにはいられない。
「お前はすぐそういうことを言う」
トリコローリを目指した時もそうだった。垂直飛行で上下天地がわからなくなる瞬間がたまらないと言っては、ブレットを青ざめさせた。実際、垂直上昇したのち機首を上にしたまま降下するテールスライドという曲芸飛行は、カルロの得意技の一つだ。
「バカでかいシャトルに乗っかってたってな、そいつがてめぇの棺桶になっちまうことだってあるだろうが」
わが身の危険を顧みないカルロに説教のひとつでも垂れてやろうとしたブレットは、続く恋人の言葉に沈黙を余儀なくされる。スペースシャトルの事故率の高さは、戦闘機のそれとは比べ物にならなかった。
ブレットを言いくるめることに成功したカルロは、いつもの挑発的な笑みを浮かべる。ぐうの音も出ないブレットは、ふてくされるしかなかった。
「バイクや諸々はどうするんだ?」
どこかのチームに所属するにしても、まずはどこかの草レースで腕試しと訓練を重ねることになるだろう。現実主義なこの男が何も考えていないはずはないが、考えがあるならなおさら聞いておきたい。
「ツテはある」
「おい、まさか」
瞬時に脳裏にちらついたのは、ロッソストラーダのオーナーの影だ。決して短くない歳月をかけてようやくまともな道に落ち着いてきたというのに、また路地裏に足を踏み入れる気かと懸念するブレットに、カルロは首を振る。
「ドンじゃねえ。だいたい、俺はドンにゃ睨まれてる。四輪にしねえのもそっちが本音だ」
カルロが悪名高きイタリアマフィアと繋がりがある(むしろマフィアそのものかもしれない)ロッソストラーダのオーナーの元を去ったのは、三回目のWGPが終わったときのことだ。三度目のグランプリも、カルロはイタリア代表のリーダーを背負っていた。惜しくも優勝には手が届かなかったが、バトルレースから脱したカルロの走りは、第一回、二回の大会を通じてロッソに付きまとっていたダーティなイメージを完全に払拭した。ロッソを表家業の看板にしたがっていたオーナーは、カルロが成功させたイメージ戦略を受け入れ、その功績と引き換えに彼を自由の身にした。
というのが、ブレットの知る限界だ。真実、カルロとオーナーの間にどのような交渉がなされ、いかなる約定が成立したのか、当の本人は決して口を割ろうとしない。四輪のレースに近寄らないことも「契約」のうちなのかもしれなかった。
「ならツテってのは何なんだ」
「スラム仲間にペペって何でも屋がいてよ。奴とツルんでた道具屋の野郎と連絡がとれた。奴なら出すもん出せばなんだって揃えやがる」
「まさか一からカスタムする気か、お前が」
「他に誰がいるってんだ」
「何バカ言ってるんだ。専門家を雇え。パーツだってなんだって、正規品じゃないんだろ」
「そんな金ねえ」
「だったら!」
「専門家がいようが正規品だろうが、壊れるもんは壊れる」
強い語気と向けられた眼差しの冷たさに、ブレットの正論が凍りつく。カルロがむき出しにした気迫に、ブレットの背筋を悪寒が駆け抜けた。
「違うか? N△S△の宇宙飛行士さんよ」
カルロは怒っていた。その怒りが、ブレットが去年携わったミッションに起因していることは明らかだ。
去年の六月、ブレットは彼自身五回目のシャトル打ち上げによって宇宙ステーションにたどり着いた。ブレットのステーション滞在はこれで三度目、その内ステーション滞在期間が百日を超えるミッションは二度目だった。約五か月にわたる宇宙活動ののち、十一月には帰還し、ブレットはクリスマスと年明けを地球で迎えられる予定だった。
しかし、ブレットが帰還用に搭乗するはずだったシャトルが打ち上げに失敗。地上で機体が大きく破損し、交代要員だった乗組員たちが巻き添えを食らう大事故が発生した。不幸中の幸いで死者は出なかったものの、搭乗員や周辺にいた技術者を含め、火傷や骨折など多数の重軽傷者を出してしまった。
この事故で、ブレットの帰還予定は無期限に延期される。ブレットを含めた数名の宇宙飛行士たちは、地球の軌道上をまわる(宇宙に比べれば)とても小さなカプセルに取り残されることとなった。
『悪いが、卒業祝いは遅らせてくれ』
ステーションからのインターネット電話で、カルロにそう伝える声は淡々としていた。すでにカルロの卒業見通しが立っていたため、このミッションが終われば一緒に祝おうというのが出立前からの約束だった。
パーフェクトだ。
謝罪を言い終えたブレットは、訓練通りのトーンを出せたことに満足を覚えていた。約束の反故、すなわち不吉な報せを受け止めなければいけない恋人への気遣いの裏で、(建前上秘密である)通話の内容を監視している地上の管制者たちに、自分の冷静さをアピールできたことを誇りにすら思っていた。この瞬間のブレットとカルロの心理的距離は、おそらく地上と宇宙ステーションを隔てる四百キロより遠かっただろう。
『連絡寄こしたんだ、チャラにしてやる』
ブレットの無事な声が聞けてほっとした、カルロは言外にそう告げた。
「未亡人予備軍」という言葉がある。宇宙に立つ飛行士たちを地上で待つ、妻や婚約者を指したN△S△での隠語だ。
夫または婚約者が地上を離れてから帰還するまで、未亡人予備軍たちはN△S△から手厚い保護を受けることになる。未婚者で結婚の予定もないブレットの場合、このような保護はワシントンD.C.に住まう両親や姉たちに向けられる。事故発生直後から、愛息と弟が置かれた状況の説明、ビデオ通話による対面など、宇宙飛行士の「家族」をフォローするありとあらゆるサービスがワシントンD.C.のある一軒家に集中した。だがこれらのサービスの一端ですら、イタリアに住むカルロに向けられることはなかった。
カルロは未亡人予備軍にはカウントされない。ブレットのセクシャリティも、その対象であるステディな相手がイタリア在住の空軍兵であることも、N△S△は一切を承知していながらカルロには何も知らせなかった。カルロが事故のことを知ったのは、衛星チャンネルに映るアメリカの報道番組を見てのことであり(地元イタリアのニュースでは事故がヘッドラインを飾ることすらなかった)、宇宙ステーションに取り残された飛行士の状況については、ブレットからのコールがあるまで何一つわからなかった。
『還れんのか』
『何とかなるさ』
それ以上のことを、ブレットは説明してやることができないし、聞かされたところでカルロができることはなにもなかった。沈黙が大部分を占める通話で、受話器を握り締める二人が考えていたことは同じだった。
もし、打ち上げに成功していたら。
シャトルの問題の発生は遅れていた。それは交代要員を乗せたシャトルが、大気圏を宇宙に向けて突き破った瞬間かもしれない。仮に宇宙ステーションまでたどり着けていたとしても、時限爆弾を抱えた機体に次に乗り込むのはブレットを含めた帰還メンバーたちだ。地上でのトラブルと違い、宇宙空間、あるいは空中での機体の破損は、乗組員の死亡につながる可能性が極めて高い。
例えば、もしも、万が一、ブレットが殉職の憂き目にあってしまったとして、『俺のカグヤ姫』とカルロが呼びかける通り、日本のおとぎ話の姫君よろしく永遠に月に旅立ってしまったとして、その報せをカルロにもたらしてくれる者はいない。未亡人予備軍ではないカルロは、他の宇宙飛行とは全く無関係な大多数の人々と同じように、恋人の死を、自分の人生に光をもたらしてくれた存在の喪失を、無味乾燥な報道でしか知ることが出来ないのだ。
「ミッションのたびに遺書書き直してる野郎に、俺の危険がどうのたぁ言わせねえ」
宇宙飛行士はロマンに満ちた仕事だが、任務を担う人間を支配するのは徹底的な現実主義だ。スペースシャトルに乗り込む宇宙飛行士は、この巨大な科学技術の塊が自分の棺桶になる可能性を冷めた理性で認識している。彼らはクルーに選ばれた瞬間から身の回りのものを整理し、残される(ことになるかもしれない)者たちのために書類を残す。ブレットは間違いなく、そんな現実主義的なロマンチストのひとりだった。
幸運なことに、ブレットは予定より三か月遅れで地球に帰還できた。ロシアの協力のおかげで必要な物資の供給は滞りなく、帰還がいつになるかわからない不安を除けばステーションでの生活は快適だった(地球に帰還後ブレットは、元シルバーフォックスのユーリに宛てた手紙で感謝を述べた。ユーリからの返事は「祖国の科学技術が、大切な友人の生還の一助になったことを誇りに思う」という慎ましいもので、ブレットは変わらない旧友のキャラクターに笑顔を見せている)。
突発的な災難ではあったものの、朗報もあった。今回のミッション期間の延長のおかげでブレットは、二十代前半という若さながら、宇宙飛行士として中堅どころに手が届くようになった。事故後の冷静な対応(カルロや家族との電話のやりとりも含まれる)から、より重要なミッションを任される可能性も高まった。ブレットがコマンダーとして、ミッション全体を取り仕切る日はそう遠くない。
しかし、一度受けた心の断絶は、カルロとの関係に大きなしこりを残した。
「あんとき俺は死ぬほど実感したぜ。トリコローリでどんなに高く飛んだって、てめぇのところには行けねえんだって」
「お互いさまだろ……」
それが、ブレットの言い返せる精いっぱいだ。
「ああ、その通りだ。だからお前が宇宙飛行士やめねえ限り、俺も俺の好きにする」
ここですぐ、家族にカムアウトしてパートナーシップを結ぼう、結婚しよう、そうすればN△S△の未亡人予備軍に加われる、とならないのがブレットとカルロだった。少なくともはばかるべき身内がいないカルロが、決断をブレットに強いることはない。それどころか、いつブレットが自分から去ってもいいように覚悟を決めている節がある。N△S△の緊急連絡リストに、カルロの名が載らない最大の理由がそこにあった。
カルロはカムアウトをすることも、またしないことも受け入れている。腹をくくりきれないのはいつもブレットの方だ。ゆえにブレットはこの手の問題でカルロに強く出ることができなかった。
「どうせ届かねえんなら、空にこだわるこたねえだろ」
曲芸飛行に憧れる理由について、これまでカルロは一貫して、操縦桿を握るスリルや、スリルによって強まる生きている実感がたまらないのだとブレットに説明してきた。だが、今の彼の言動を鵜呑みにすれば、彼が空を目指す目標はブレット自身だ。まるでカノープスを目印にして太陽系を飛行する惑星探査機のように、カルロはブレットを探して大空を飛ぶ。
ブレットの存在は、カルロの人生を明るい方向に向かわせた。そして、カルロの過敏な心を深く傷つけてしまうのもまたブレットなのだと、あの事故はカルロとブレットに思い知らせた。
完全に何も言えなくなってしまったブレットと、ブレットから目をそらさないカルロの間に沈黙が落ちる。息が詰まりそうな、そのまま熱いキスを交わしてセックスになだれ込みそうな、じりじりとした緊張感を解いたのはカルロだった。
まるで、お仕置きはこれでおしまいとでも言いたげに、カルロはとげとげしい気配を消して口角を上げる。
「やっぱ、レースの感覚には勝てねえしな」
どれほどの危険が伴おうと、難易度の高い演技を強いられようと、セレモニーで披露される曲芸飛行はハイレベルなお遊戯会だとカルロは主張する。綿密に組まれたタイミングに沿い、ミリ単位の操縦技術を磨くことは、スリル狂いなカルロを一応は満足させた。しかし、慣れてしまえばそこまでだ。
ならば一刻も早く戦場に出て敵戦闘機を撃墜したいかと聞かれれば、それも違うとカルロは首を振る。バトルはもう卒業したんだ、と。
レースに慣れはない。試合ごとにライバルが、マシンが、気象条件やロードコンディションが変わっていく。日本での世界グランプリ、最終レース第二セクションでの栄光は、今もしきりにカルロをレースの世界に手招きしていた。
「二輪なら空がよくわかるぜ。俺はそれで十分だ」
カルロは劣悪な環境で生きてきた。生き延びるためなら何でもやった、らしい。一方でカルロは誇り高い男でもある。レーサーとして、誇りある人間として、彼が目覚めたのはWGP決勝でのあの走りだった。その誇り高い男が、空にこだわる。空にこだわることはないと、飛行機乗りを捨てると告げながら、同じ口で空が良く見えるという理由で四輪ではなく二輪を選ぼうとしていた。
彼の空への執着はブレットへの想いそのもののようで、ブレットは頬が熱くなる。
カルロはその昔、自分のどん底から這い上がらせてくれたミニ四駆を捨てた。オーナーから逃れたかったからだ。オーナーから逃げたかったのは、太陽の下で生きるためだ。軍隊に入ったのも、死ぬほど勉強して大学を卒業したのも、経済的に自立し、社会的な体裁を整えるため。それらの行動の根っこに、ブレットがいる。
今でも、カルロの過去を叩けば埃はいくらでも出るのだろう。いつか恋人としてブレットの両親に対面した時、その誇りを少しでも目立たさせなくするために、カルロはより良い道を選んできた。……と、妄想を進めてしまうのは、行き過ぎだろうか。ブレットひとりの、独善的な思い込みだろうか。
そうならいい。俺がお前の、カノープスであればいい。
ブレットは腕を伸ばして、カルロを抱き寄せる。素直な体はブレットの腕に収まり、筋肉質な厚い胸板が触れた。こめかみに触れる髪は、士官学校に入学する際に短く(袖の下を使って丸坊主だけはどうにか回避)して以来、ずっと同じスタイルを貫いている。ちくちくとする襟足を指で撫で、色素の薄い髪の根元に鼻をうずめて、オリエンタルなミドルノートを胸いっぱいに吸い込む。そして、やればできる賢い頭にキスの雨を降らせた。
「お前の人生だ、好きにしろ」
「言われなくても」
恋心に浮かされた勢いで、結婚してくれと言えたらいいのに。イタリア人は愛を謳歌するイメージに反してゲイには批判的だ(カソリックのお膝元という事情もある)が、州によればパートナーシップ制度があるし、ブレットの故郷ワシントンD.C.なら同性婚は合法化されたばかりだ。だからますます、ブレットが家族にカムアウトできるかが問題になる。そしてブレットが尻込みするのには、一にもニにも家族の反応に不安があるからだ。
まだ若い姉たちはいい。父も仕事柄で培った理性で受け止めることができるだろう。だが母はどうだ。幼いブレットを連れて教会に通い、聖歌隊にまで入れた母の反応だけが読めず、恐ろしかった。学問的に進みすぎている点を除けば、ブレットはあまり手のかからない子どもだった。落ち着いていて、素行も良く、十代から多忙だったおかげで反抗期すらほとんどなかった。そんな愛息から落とされる(宇宙飛行士につきまとう死の影より強烈なインパクトを持つ)爆弾を、果たして母は愛情を持って受け入れてくれるだろうか。
カルロとの将来を考えるとき、天涯孤独な彼の身の上が少しだけ、不謹慎と承知しつつもほんの少しだけ、うらやましくなる。
決してほめられたものではない思考に陥りそうになって、ブレットはカルロの髪から顔を上げた。
「せめて、俺にマシンチェックさせろ」
たとえ結婚したって、何が変わると言うのだろう。どんな誓約書にサインしたとしても、カルロは走る、ブレットが飛ぶように。そう考えると、この問題を先送りすることができる。もっと切迫した問題に、取り組むことが出来る。
「お前、バイクわかんのか」
「自動車工学は専門外だが、機械工学の基礎ならわかる。必要なら勉強したっていい。とにかく見せろ」
今目の前に迫った問題は、バイクを駆るカルロの安全だ。お前の邪魔はしないから、せめて口出しくらいさせてくれ、と言いつのるブレットにカルロは愉快げに笑った。
「N△S△の宇宙飛行士のお墨付きか、悪くねえ」
ブレットは宇宙に、カルロはレースに。互いの道は譲らないからこそ、今日まで続いてきた長い愛人関係だ。直線距離にして8600キロ以上、時差にして七時間の隔たりを越えてきた。その過去を信じて、地上四百キロの隔絶に挑みたい。母へのうしろめたさに比べれば、それはずっと些細な障壁のように思えた。
「ああ、任せろ」
いつか、いつか。カルロが走るのに飽き、ブレットが宇宙を解き明かしたいつの日か(そして意外にも、母が大きな愛情でブレットの恋を認めてくれたのなら)。ダンディでレトロな部屋で、一緒に暮らせたらいいと願って。
精一杯のポーカーフェイス
(いっそお前が、プロポーズしてくれれば話は早いんだが)
+++++++++++
カルロが腹をくくりだすと、とたんにブレットがうじうじ期突入っていう。
カルロの大卒祝い&次の進路話を書こうとしてたのに、気づいたらプロポーズ云々の話になっていた。解せぬ。
やっぱりいつまでもカルロを軍隊に置いておくと、哀しい話に向かいそうなので、さっさと離脱してもらうことにしました。
イタリアはモータースポーツが盛んみたいですね。四輪、二輪はもちろん自転車競技まで。
こういうジャンルもあまり詳しくないのですが、モトクロスなんてかっこいいなーと(イメージ先行型)
カルロ年表
11歳 WGP1 ブレットとの出会い
12歳 WGP2 ブレットへの恋自覚? バトルレースから足を洗う。(センチメンタルテロリズム)
13歳 WGP3 ブレットと両想いに。ミニ四駆引退&ドンと縁切り。(ペシミストの救済)
(ブレット14歳、WGP不参加、大学院へ)
14歳 猛勉強の果て、イタリア空軍の士官学校へ(士官学校が何歳から何歳までとかツッコミはなしで)
(ブレット15歳、宇宙飛行士デビュー(今思えば無茶な設定だ))
15歳 士官候補生なう(HONEY)
16歳 士官学校卒業、イタリア空軍新兵に(Please kiss me more and more)
(ブレット17歳、8月にドイツで目の手術)
18歳 マトゥリタ(高校卒業資格試験)合格、トリエステ大学工学部へ進学
20歳 フレッチェ・トリコローリのパイロット昇進?
21歳 エースパイロットに(Oh,my dear!)
23歳 大学卒業(←今ココ!精一杯のポーカーフェイス) 空軍退役、オートレースの世界へ???
的なイメージです。23~24歳でライダーデビューは遅咲きかもしれないが、レツゴRRの豪くんが三十路でF1レーサーやってるから大丈夫!!
短編それぞれは連作のつもりで書いてはいませんが、だいたいこの辺っていう目安につけてみました。
うちのカルブレは、カルロ人生更生物語と言っても過言ではないな(笑)
ブレットの方の事件(架空)は、コロンビア号の事故をベースにでっちあげました。
レツゴの世界では死亡者がでるような事故は起きてほしくないなと。
ブレットも早めに引退してほしいよ!
宇宙飛行士関連の本読むたびに、本当に死と隣り合わせの職業だってわかって「ヒィッ」ってなる……
2015/03/05 サイト初出。
2015/03/05(木)
レツゴ:チョコレートナイフ(カルブレ)
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