※アニメ時制。ロッソ対アストロ初戦(7月)以後、二戦目(9月中旬)前。9月頭ごろを想定。
※ブレットの家族構成ねつ造。
※星のことはよくわかりません。信じちゃダメ。
※カルブレなれそめのなれそめくらいのお話。
※タイトルは「21」さまより。





 罅割れた空、その向こうにファンタジー




 子どもの手には少々重い扉を押し開ければ、錆びた扉の向こうには秋の星空が広がる。満天の、と言えそうな星空だったが、その下に立つカルロはあまり関心を払わなかった。むしろ、個人的な隠れ家であったはずの寄宿舎の屋上で、見覚えのある背中を見つけてカルロは足を止める。
「遠慮することないぜ。よそ者は俺の方だからな」
 ふり返らない背中の声は、やはり聞き違えようもない。夏のレースで叩きのめしたチームのリーダーは、勝者であるはずのカルロが訝しむほど平然と背中を向け続けていた。
「アメリカのボウヤが何の用だ?」
 大方、旧知がいるらしいアイゼンヴォルフか、おめでたそうなオーディンズの誰かだと思っているのだろう。ここは欧州勢が利用する寄宿舎のてっぺんで、ヨーロッパにはイタリアも含まれてるんだぜ。そう教えてやるつもりでカルロはあえて声をかけた。
「アメリカ(うち)の棟より星がよく見える。高台で、森に面してるから光害も少ない。天体観測にはうってつけだ」
 優位に立とうとしたカルロの意図に反して、背中越しに届くブレットの声は終始淡々としていた。やりにくい相手だ、とカルロは小さく舌打ちした。二か月前の敗北はとっくに消化済みなのか。決して納得のいく負けではなかっただろうに、ロッソストラーダによる不正を目の当たりにしたにもかかわらず、ブレットのいっそ無関心と言えるほど「クール」な対応は屈辱的だった。だからいっそう自分の寮で踵を返すのが癪で、カルロは屋上に向けて足を踏み出す。
 重い扉が閉まる音を背中で聞きながら、カルロは転落防止用の柵にもたれるブレットの隣に並んだ。手を伸ばせば届く距離に立っても、ブレットはカルロをふり返らない。バトルレースをしかけるチームリーダーと、隣り合わせの危険もどこ吹く風だ。
「…………」
 ユニフォームを脱いだ私服姿のブレットは、ある一点でカルロを驚かせた。
 ブレットは空を見ていた。大ぶりの双眼鏡を構えながら。覗きこむレンズは、彼の目に触れるぎりぎりにかざされている。レンズの向こうに映っている星影に、極薄い青色をした瞳が夢中になっていた。
 そう。ゴーグルが、ない。レースはもちろん、インターナショナルスクールにおいても、その姿を視界に収めれば、必ずブレットの顔を覆っていたものがない。無防備に晒された横顔は、カルロの視線を引き寄せるには十分な珍しさがあった。
 無遠慮に眺めていれば、ブレットの口角が不意に上がる。星を追っていたはずの瞳が双眼鏡から外れ、カルロを映した。厚い瞼を乗せた瞳は、やはりとても薄い青色をしていた。素顔を晒したアストロレンジャーズのリーダーは、小首を傾げて眉を上げる。
「赤く光る目が、三つくらいついてるとでも思ってたか」
 素顔を覗きこまれることに、ブレットは慣れているらしい。カルロに向けたからかいの口上すら、誰かの受け売りなのかもしれない。言葉のジャブなら受けて立つと、カルロは顎を上げて、つりあがった切れ長の瞳を見下ろした。
「てめぇがN△S△の最新鋭のアンドロイドだってんなら、小指の爪の先くらいは信じてたかもしれねえな」
 これは本心だ。人間味がないとカルロに思わせるほど、ゴーグルに隠されたブレットの表情と感情は読みづらい。
「期待にそえなくて悪いが、N△S△もまだ不気味の谷は越えられそうにない」
 そう言って肩をすくめるブレットは、間違いなく生身の人間だった。ゴーグルに遮られない部分では、感情にあわせて眉が上下し、薄青色の中央に浮かぶ黒い瞳孔がカルロに焦点をあてて微細な伸縮を繰り返している。
「N△S△も大したことねえな」
「ロボット工学部門の責任者に伝えておこう」
 たとえレースに負けていても、言葉の応酬ならブレットは一歩も引かない。
 ブレットは再び双眼鏡に向き直ると、カルロなどいないもののように天体観測を続けた。時おり目を落しては、双眼鏡を鉛筆に持ちかえて手元のノートに何事か書きつけている。ハイテク機器を操るレンジャーズのリーダーが、ひどくアナログな手段を利用している様はなんともちぐはぐだ。
 右手に双眼鏡(時おり鉛筆)、、左手にはノート。ノートを支える左腕の脇には、一冊の大きめな本が抱えられている。角は折れていて、背表紙の上の部分(本棚から本を引き出すときによく指先でひっかける場所)は色落ちが激しい。随分と年季の入っていると眺めていれば、その本がブレットの脇からカルロの目の前に突き出された。
「…………」
 ブレットの瞳がごく薄い青なのに対して、カルロの瞳の青は濃い。より濃い方の青が、本と薄い青の間を行き来した。一体いつカルロのことを思い出したのか、ブレットの左手のノートは閉じられ、星の海から戻った薄い青はカルロをじっと見つめている。
「星座図鑑、天体図鑑って言えばわかりやすいか」
 早々と手を離され、うっかり受け取ってしまった本は分厚く、大きく、そして重い。星屑の散った、(カルロの瞳の色と同じ)濃い青で描かれた表紙は美しかった。
「俺の誕生祝いに母方の祖父が贈ってくれたものだ。生まれたての赤ん坊だった俺と、縦の長さが一緒だったらしい」
「気の早えノンノ(じいさん)だな」
「祖父は天文学者でな。とびきり優秀でその上かなり偏屈者だったらしい。それでも男の孫は嬉しかったんだろう。男は俺が最初で、いまのところ最後だから」
「天文学者の孫が、宇宙飛行士の卵か」
「隔世遺伝なんだ。少なくとも頭の中は」
 言外に、性格的に祖父の偏屈さは受け継いでいないとアピールされて、カルロは鼻白む。自慢にできるような血縁も、誕生日を祝福されることにも縁のないカルロは、ブレットの話を遠い潮騒のように受け流すしかなかった。ブレットの祖父が自分の血を色濃く受け継ぐ孫に贈った、天体図鑑の表紙の美しさだけは認めながら。
 その誕生をこんな綺麗な絵で喜ばれる気持ちが、カルロにはわからない。
 カルロからの相槌がなくなったことに何を思ったのか、ブレットは渡してきたばかりの図鑑に手を伸ばす。やや強引に取り戻したかと思えば、空になったカルロの手に今度は双眼鏡を押し付けて言った。
「来い、こっちだ」
 直に二の腕を掴まれ、カルロはまた驚かされる。目の前では青灰色の瞳がきらめいていて、その口元はとびっきりのいたずらを思いついた子どものように(実際、ブレットは十二歳の子どもだ)笑っている。問答無用で腕を引かれ、カルロは焦った。
「おいっ」
 ブレットの手を振り払うことは簡単だ。だが、掴まれた腕の先にはブレットから託された双眼鏡が握られている。無骨な見た目にたがわずずっしりとしたそれが、うっかり手から落ちてしまわないとは保証できなかった。物のない中で育ってきたカルロは、粗暴な言動に反して物を粗末にすることができない。隠した本質を見抜かれ、うまく利用された気がしてしょうがなかった。
 カルロは知るはずもなかったが、屋上で出くわした時からずっとブレットが見上げていたのは南の空だった。その方角に対して左側の柵、つまりは東の空の下に、ブレットはカルロを引っ張っていく。そして、東の柵の正面に立つと、ブレットは掴んでいたカルロの腕を持ち上げて言った。
「覗いてみろ」
「は?」
「双眼鏡」
「なんで」
「怖いのか」
「なんでそうなるんだよ」
「安心しろ、日本の幽霊は秋はオフシーズンだ」
「てめぇ、人の話を聞きやがれ」
「聞いてほしいんなら、お前も俺の言うことを聞け」
 ついに手ごと握りこまれて、ブレットの力でレンズを目元に寄せられる。逃げ場のない状況にカルロがしぶしぶとレンズに目を当てると、頭の後ろに腕がまわる気配がして、双眼鏡が左右から支えられたのがわかった。
「二つの円が一つになったら教えろ」
 ブレットの両腕に頭を抱え込まれ、すぐ耳元に聞こえた声に肩が跳ねなかったのは幸運だった。ブレットのマイペースぶりに、抵抗するのも諦めてカルロは指示に従う。ブレットが本体を折りたたんだり広げたりすると、双眼鏡から見える二つの丸が一つになったところでカルロは小さく頷いた。
「次はピントだ。左右を繋いでるピントリングを回して合わせる。まずは左目だけで」
 ご丁寧にピントリングの場所まで指を運ばれ、そこでようやくブレットの手が離れる。手にかかる双眼鏡の重みがぐっと増し、触れていた手の甲はひんやりと冷えた。
「左目のピントが合ったら、次は右眼だけで見る。今度は接眼レンズについてるリングを回せ。ピントが合ったら、両目で、空をずっと上まで見上げてみろ」
 ここまできたら、最後までブレットに付き合うしかなかった。左右のピントが完全に合ってからカルロは空を仰ぎ見る。そして、息をのんだ。
「綺麗だろ」
「…………」
 返す言葉がなかった。その通りだったからだ。天体観測と言えば天体望遠鏡がなければ、という自分の連想がいかに想像力に貧しいものであったかを思い知らされる。レンズでくりぬかれた丸く狭い視界いっぱいに、星が瞬いている。
「秋の星空は夏に比べると寂しいんだが、これはこれで俺は好きだ」
 そうか、夏はもっと多いのか。季節によって星の数が変わるという事実を、カルロは不思議な思いで受け止める。
「カルロ」
 ブレットの呼びかけに、カルロは双眼鏡から目を離した。急に広くなった視界にはブレットがいる。ブレットはカルロが見ていた空を指さし、「特によく光る四つの星を見つけてみろ」と言った。星の海に酔っていたカルロは、悪態をつくことも忘れて双眼鏡に向き直る。
 ブレットの言う四つの星はすぐに見つかった。周囲に明るい星があまりないから、初心者のカルロにも見つけやすい。「あった」と伝えれば、ブレットは「よし」と頷いた。
「秋の大四辺形とか、ペガサスの四辺形と呼ばれてる。右上、右下、左下の星がペガサス座の一部で、左上がアンドロメダ座の頭にあたる。アンドロメダの頭を目印に双眼鏡を左に傾けると、横たわった"A"の形が見えないか」
 視界を左にスライドさせると、言われたとおりの横たわったAが見つかってカルロの胸が躍った。自分の発見を伝えたくて、やや早口になって告げる。
「ちょっと上に曲がってねえか」
「正解だ。それがアンドロメダ座。海の怪物の生贄にされた悲劇のお姫さまだ。左にいくと彼女を救ったペルセウスがいるんだが、今はどうでもいい」
 ぞんざいなブレットの説明に、思わずカルロの口から笑いが漏れる。ウケたことに気を良くしたのか、ブレットはさらに続けた。
「アンドロメダの腰、Aの横棒になる二つの星があるだろう。同じ傾き、同じ長さだけ上に辿ると何が見える」
 見えたのは、かすみがかった小さな白っぽい塊だった。そのままを伝えると、すぐ傍でやはりブレットが頷く気配がした。
「それがアンドロメダ銀河だ。俺たちのいる銀河系とは別の独立した銀河で、一番近くに存在する」
「銀河……」
 "Galaxy"とブレットの言葉を反芻する。
「イタリア語だとなんだ……ガラッシア? ミルキー・ウェイだからヴィア・ラッテアか?」
 聞かれても困る、とカルロは眉をひそめる。どちらも知らない言葉だったが、「夏に見えるたくさんの星の帯だ」と説明されてようやく何のことか察しがついた。イタリアの夏はよく晴れていて、夜は特に星が良く見える。
「ちなみに銀河系とアンドロメダ銀河は互いに接近していて、いずれ衝突すると言われてる」
「なにっ」
 視界の真ん中で点か靄のように浮かんでいるものがぶつかってくると聞いて、カルロはぎょっとした。双眼鏡を外してブレットを見ると、カルロの形相に驚いたのか、ブレットは薄青色の瞳を丸くしてそれからすぐににっこりと笑う。
「安心しろ。アンドロメダ銀河との距離は230万光年以上、衝突するのも四十億年後さ」
 また知らない単語が出た。距離なのに年を使う単位がわからずにカルロはまた眉をしかめる。それだけで、カルロが何に戸惑っているのか理解できるブレットの洞察力は大したものだった。
「あー……、ものすごくざっくり言って、光が一年間で進む距離のことだ」
「……光が、進む?」
「ああ、これも極めて雑な説明だが、光は一秒間で地球を七周半できる距離を進んでる。地球七周半の距離を六十倍で一分、さらに六十倍で一時間、二十四倍で一日、365倍で一年にしたものが、光が一年間で進む距離、つまり一光年ということさ」
「想像もつかねえな」
「いわゆる『天文学的数値』というやつだな」
 宇宙飛行士の卵ともなれば、日々こんな非現実な数字と格闘することになるのだろうか。まっぴらごめんだとカルロは呆れる。しかしカルロのつれない態度にも、ブレットはめげなかった。
「逆に言えばな、カルロ、今お前が見てるアンドロメダ銀河の光は230万年前のものだってことだぜ。ロマンだろ?」
「何がロマンだ。ロマンじゃ腹は膨れねえ」
 星空は美しい、それは認める。だが今見ている光が何年過去のものであろうとなかろうと、カルロに興味はなかった。無重力も、ロケットも火星人も、カルロの餓えを満たしてくれないのならまるで無価値だ。
 カルロの感想に、ブレットは目を瞬かせる。腹が膨れるかどうかなんて考えたこともない「恵まれた」人間ならでは反応が悔しくて、けれど少しだけうらやましかった。同じ星空を眺めていても、ブレットの青灰色に映るものとカルロの濃い青色に映るものはまるで違う。その違いは二人を隔てる高い壁そのものであり、たとえブレットが夢を果たして宇宙に飛び立とうとも飛び越えることは難しいだろう。
「てめぇはロマンを眺めてたってわけか」
 さすが、食うに困ったことのない宇宙飛行士さまは考えることが違う、と馬鹿にする気満々のカルロに、しかしロマンを愛する宇宙少年は誇らしげに打ち明けた。
「カノープスを探してたんだ」
「なんだそりゃ」
「りゅうこつ座のアルファ星、南の一等星で、一番明るいシリウスに次いで明るい星だ」
「なのに見えねえのか」
「カノープスが見える北限は北緯37度くらいだ。ヒューストンならまずまず見えるんだが」
 再び、ブレットの口からカルロにはわからない単語が溢れ出す。知らずまた眉をひそめていたのだろうか。三度目でカルロのサインを把握したブレットは、少し考え込むような顔をしたあとで口を開いた。
「地球は丸いだろ」
「バカにしてんのか」
「してない」
 ブレットはノートを開くと、真っ白なページに円を描いた。(おそらく地球だろう)横長の楕円形に、さらに極めてデフォルメされた世界地図を描きこんでいく。丸いイギリス、ヨーロッパ大陸からはみ出したブーツのイタリア、弓なりになった日本、いびつな三角形をしたアメリカ大陸。おおざっぱな世界地図ができあがると、ブレットは国境もなんのその、荒っぽい手つきで縦と横の線を何本も描き加えた。
「地球上で都市の位置なんかを説明するのに、経度と緯度が使われる。地球に引かれた縦線と横線だと思えばいい。縦線は経度で東西を、横線は緯度で南北を表す。経度0度はロンドンだ。ロンドンから東は東経、西は西経。ローマは東経12度、東京は139度、ヒューストンはその逆で西経95度だ。この東経と西経がぶつかる、経度180度が日付変更線になる」
 カルロはずっと後に知ることになるが、ブレットはこの時、カルロがきちんとした初等教育を受けていないことに気づいてしまっていた。銀河、光の速さ、緯度経度、カルロがつまづいたそれらの単語は、正確な理解ができているかはさておいて、初等理科の授業で見聞きするはずのものだからだ。
 カルロが抱える問題にはからずも触れてしまったブレットは、根っからの親切心で、なるべく丁寧に、そして簡単な説明になるよう心を砕いていた。
「星を見るのには、緯度がキーになる」
 この夜のやり取りは、のちにブレットがカルロに対し、教育・勉学の重要性をしきりに解くきっかけになる。適正な教育を受ける機会がない、知らないことを知ることができない以上の不幸はない、とブレットは頑なに信じていた。
「緯度は赤道を0度、北極を北緯90度、南極を南緯90度にしてる。ヒューストンが北緯29度、俺たちがいるここが35度、ローマは42度……ベルリンが確か52度だからミラノは45度前後ってとこだな」
 なぜブレットがミラノについてわざわざ言及したのか。データブックに記載されているだろうカルロの出身地を記憶していたとでもいうのだろうか。カルロの疑問を置いたまま、ブレットの説明は続く。
「さっきも言ったが、南の星のカノープスが見える北限は37度。ヨーロッパじゃまず見えないんだ」
 北限以下であるこの土地でも、地平線からわずかに顔を出す程度だとブレットは説明する。その「わずか」を期待して彼は南の空を眺めていた。
「なんでも日本じゃ『横着星』なんて不名誉なあだ名がついてるらしいぜ」
 日本人もユーモアのセンスがあるじゃないか、とブレットは笑う。
 天体基礎知識とでも呼べそうな、ブレットの授業はここで終わった。ノートを閉じ大切な天体図鑑と並べて足元に置くと、身軽になったブレットは大きく伸びをして南の空を仰ぎ見る。双眼鏡はまだカルロに預けたままだ。
「カノープスはただ明るいだけの星じゃない。黄道座標の南極に近い、つまり太陽の見かけの軌道に対して90度に近いから、惑星探査機の基準星になる。ボイジャー2号は太陽とカノープスの方向を基準にして地球と交信してるんだ」
 終わったと思っていた講義が再開されるが、今度は一気に難易度があがり、ブレットの語ることの半分もカルロは理解できなかった。黄道? 惑星探査? ボイジャー? カルロの頭上にはいくつものクエスチョンマークが並ぶが、カノープス語りに熱がこもるブレットはもう気づいてくれない。それどろか、あっけにとられるカルロの両肩を掴んで熱弁をふるい続ける。
「カノープスの名の起源には諸説あって、トロイア戦争での船の操舵手の名前説が有力だ。星に名付けられた時期はわからないが、紀元前古代ギリシャの水先案内人の星が、現代の惑星探査機の導き手になるなんて実に運命的だと思わないか。これこそロマンだ」
 目は口ほどに物を言うとされるが、本当に人間の感情を伝えるのは眉の動きだ。だから眉毛のない人物はどこか異質に見えて、人は不安を覚える。アストロレンジャーズの分厚く幅広のゴーグルは、目線と眉の動きを覆い隠すことができた。そこにブレットお得意の「クール」な口ぶりが重なれば、感情を読み取るのは至難の業だ。先日のレースでさえ、全てのバックブレーダーを血祭りにあげておきながら、カルロがブレットから引き出せたのは敗北を噛みしめる表情のみ。負けは負けだ、と言い切る潔さは、敵意に慣れっこのカルロには不気味だった。傍らで星馬豪が騒いでいなければ、カルロはブレットを不必要に挑発していたことだろう。
 だが今、感情を読み取らせないアンドロイドはいない。カルロの目の前にいるのは、どこにでもいる星好きの十二歳だ。ごく薄い青灰色の瞳を輝かせ、形の良い眉をしきりに上下させて、自分の好きなものを相手にわかってほしいと訴えている。どちらが彼の本質なのか、尋ねることすらバカらしかった。どうやら彼は、ゴーグルひとつで、十二歳そのものの自分を殺して、アンドロイドじみたアストロレンジャーズのリーダーに変身できるらしい。
「星なんざ、俺にはどれも同じでさっぱりだが……」
 彼の語る夢物語は、カルロに伝わらない。トロイアも古代ギリシャも、カルロには全く見当もつかない世界だ。食べること、寒さをしのぐこと、勝ち残ることしか考えてこなかった人間に、ブレットの語る星屑の世界はできの悪いファンタジーでしかない。
 カルロの冷たいせりふに、ブレットの顔が曇る。寂しさを隠さない表情に、冷静沈着なリーダーの面影はなかった。
 星なんて知らない。星が何千何億と見えようと、腹の足しにもならない。だが、腕一本の距離で揺れる青灰色の瞳の放つ、冷たくもまろやかな光には見覚えがあった。
「お前の目は、月に似てるな」
 星は知らずとも、月はよく見ていた。路傍のクソ同然だったころ、変化のない毎日に、生きることに必死にしがみついていた中で、欠けては満ちる月を眺めていた。生きることは月と同じだ。満たされた腹はいつかは減り、食べ物を探して這い回れば腹は満たされ、また一日生き延びることが出来る。月の満ち欠けは、カルロに月日が確実に流れていることを、そして明日の希望を教えてくれた。
「満月が、二つも出てやがる」
 この時、もし両腕がブレットに握られていなければ、カルロの方からブレットに手を伸ばしていただろう。頬に触れ、むき出しの瞳を食い入るように覗きこんでいたはずだ。
 物理的な距離を縮められない代わりに、カルロは夜に近い自分の青を月明かりに似た輝きに注ぐ。
 ブレットが夢中になる天体のことはわからない。それでも夜ごと見上げた一際大きな天体の、青白い色合いはよく覚えている。
「ムーン・グレイってとこか」
 視界いっぱいに広がる、ブレットの二つの色を月に例える。秋の夜に不似合いな、ブレットの生温かい吐息がカルロの顔を撫でていたけれど、不快だとは思わなかった。カルロはブレットの、ブレットはカルロの呼吸を飲み込めるほどの近い距離で、二人はしばし見つめ合う。屋上の床に伸びる二人の影は、まるで恋人たちの蜜月を写し取るかのように密着していた。
 例えば瞼を下ろして、ほんの一歩踏み出せば、影ではない本当の二人の唇もひとつに重なることが出来ただろう。その一歩を踏み出す誘惑は、人を狂わす月に似たブレットの瞳から発せられている。二つの満月からの引力に、カルロは不思議な酩酊感に襲われた。
 月の青と夜の青は、果たしてひとつになれるのだろうか。二の腕を掴んだままのブレットの力は、カルロの一歩を阻めるほど強いものなのか。
 確かめて見る方法は簡単だ。
「ブレット……」
 初めて、彼の名を呼ぶ。ブレットは、カルロが彼の瞳を月に例えたときから、目を見開いたまま一言も発しない。無防備に晒された、月の双眸をカルロはとても価値あるもののように感じていた。このまま、この月を手に入れることが出来たなら、それはこの上なく素晴らしい、ファンタジーの世界にカルロをいざなってしまう気がした。そして無縁だったファンタジーの世界にさまようことを、悪くないと思う自分がいる。
 悪くない。オール・オア・ナッシングの無慈悲さを忘れられるなら。
 カルロは、目の前の月に引かれるがまま、足を踏み出す決意をする。けれど、先に正気に戻ったのは、カルロを惑わすブレットの方だった。月の幻惑にカルロの手から双眼鏡が滑り落ち、それに気を取られたカルロが視線の交錯を解いた瞬間だった。
 幸い、双眼鏡は安全ベルトでカルロの手首に繋がっていて、すぐにカルロはブレットに向き戻ったが、その時にはすでにすべてが終わっていた。
 月色の瞳が小刻みに揺れ、カルロの唇を撫でていた息が止まっている。ぱちぱちと瞬きに長い睫を上下させた後、ブレットは静かに後ずさりカルロから距離を取った。カルロの肩をしっかりと握っていた手も離れ、体側に戻される。二つの満月は伏せられた瞼に隠れ、腕一本分より近かったはずの二人の距離が、何光年も離れてしまった気がした。
 二つの満月が再びカルロを見据えた時、ブレットの顔はアンドロイドに戻っていた。ゴーグルをかけずともブレットは自分を殺せるのだと、カルロは知った。
「アディオダンツァのデータは解析済みだ」
 冷静沈着なアストロレンジャーズのリーダーが放った、硬い、弾丸のような声は、カルロの額を撃ち抜いた。二人の間に芽生えかけていた何かに、致命傷を与えるには十分な威力でもって。
「次は負けない」
「勝つのは俺さ」
 ジャブにはジャブを。しみついた癖が二人の亀裂を広げていく。
「アイゼンヴォルフも一軍が揃った。これから先、そう易々と勝ちを重ねられると思わないほうがいい」
「グランプリを舐めきったお貴族さまも、ツルんでなきゃなんもできねえボウヤも、俺の敵じゃねえ」
 ブレットが敗戦を引きずらないのなら、カルロとてミハエルへの敗北感を表に出すわけにはいかなかった。
 そして月は夜から去っていく。すぐに太陽が昇り、月が夜に残した魔法もかき消してしまうことだろう。
「どちらが正しいか、次のレースが証明してくれる。そして勝つのは俺たちだ」
「俺だよ、ボウヤ」
 楽しい天体観測は終わってしまった。月と星のファンタジーも消え失せた。ブレットは図鑑とノートを拾い上げると、足早に屋上を去っていく。カルロの手にはオール・オア・ナッシングの現実とずっしりと重い双眼鏡だけが残った。
 ひとりきりになった、寄宿舎の屋上は広かった。秋風に震える自分を、誤魔化すようにカルロは手の中の双眼鏡を弄ぶ。白いインクで「B.A.」とつづられたイニシャルを見つけて、途方に暮れた。
 俺は、何をしようとした?
 何かとんでもない間違いを犯しかけたんじゃないか。そんな疑いと、ブレットのムーン・グレイが頭から離れず、カルロはその後一時間以上屋上に留まり続けていた。



 秋の夜長の天体観測後、アストロレンジャーズとの二度目の対戦でロッソストラーダの全車リタイアという憂き目を見た。正しさを証明されたのは、ブレットの言葉だったというわけだ。
 悪いことは重なるもので、ビクトリーズの試合で、とうとうロッソストラーダは出場停止処分を受けてしまう。ドンの指示で、カルロは決勝レース直前までイタリアに戻っていた。そうして、再びブレットと寄宿舎の屋上で出くわす機会は失われたまま、世界グランプリは幕を下ろした。
 グランプリを終えイタリアに戻ったカルロは、あの夜を思い出すように夜空の下に立った。手には「B.A.」と記された望遠鏡を携えている。ずっと返しそびれたままのそれは、捨てることも叶わずにはるばるイタリアまでカルロと行動を共にしていた。おそらく高価な、しかも他人の物を簡単には捨てられない自分の貧乏性にカルロはまた悪態をつく。
 オーナーから与えられたアパートメントのベランダで、カルロはブレットの双眼鏡で空を見る。東の空でペガサスの四辺形を探したが見つからなかった。春の空に秋の星座は見えないのだとか、星を見るにはミラノの街は明るすぎるのだとか、おせっかいな指摘をしてくれる存在はいない。
『カノープスを探してたんだ』
 ブレットは言った。南の星明かりをムーン・グレイの瞳に受けながら、彼は星への愛情表現を惜しまなかった。
 ブレットにならって南の空にカノープスを探してみるけれど、案の定、どれが何やらさっぱりわからなかった。彼が執着する星なら、ひと目でわかる気がしたのが馬鹿だったのだとカルロは苦虫をかみつぶす。
『カノープスはただ明るいだけの星じゃない』
 このどこまでも続く空の果てに、カノープスを目印にした惑星探査機が銀河を漂っている。星を愛する宇宙少年は、探査機から届く宇宙の情報を心待ちにしているのだろう。
 ロマンもファンタジーも、カルロの腹を満たさない。それはブレットも同じであるはずなのに、なぜ彼は動いていられるのだろう。彼が星に抱くロマンやファンタジーは、彼の何を満たすのだろう。
 宇宙少年と過ごしたあのひとときが、カルロの心に引っかかる。もやもやとしたものを抱えながら、それでもカルロは、ミラノの明るい夜空の下で双眼鏡を覗きこんだ。





 罅割れた空、その向こうにファンタジー
 (星を見るお前は、星みてぇにキラキラしてた)





+++++++++++++
やっと書けた! アニメ時制&なれそめ話!!

リーダーじゃないときのブレットは、ただの宇宙ヲタだと可愛いなぁ。
WGP2で双眼鏡を返す話が書けたらいい。その時こそ、二人が互いの恋を自覚する時……!(かな?)

星のことはよくわかりません。
東の空にアンドロメダ座が綺麗に見える時間帯なら、カノープスはとっくに沈んでるぜ、とか言わないでください!
リーダーはきっと全部わかってます!!!!!

2015/03/11 サイト初出。

2015/03/11(水) レツゴ:チョコレートナイフ(カルブレ)
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