【必読!!】
※「断罪のマリア」前篇の続き。
※オリキャラ注意。公式キャラ×オリキャラ要素注意。オリキャラによる公式キャラへの悪口雑言注意。
「ひょっとしてあなた……、ブレットが好きなの?」
そう言ってステラは美しく微笑む。慈悲深いマリアを彷彿とさせる神々しさに、カルロは身震いがした。
断罪のマリア
間が悪い、なんてことはよくある話だ。
例えば、ステラが二年ぶりにブレットを訪ねたタイミングが、カルロがブレットに心を開きかけた矢先だったこと。
例えば、天体観測の約束を控えた昼間に、彼女がブレットから満面の笑みを引き出したこと。
例えば、ブレットとステラがロマンチックに寄り添った夜が、カルロの誕生日だったこと。
そして、本人すら心の底に押し込めてきた願望を形にした夢から覚めた直後、部屋から出たカルロをステラが待ち構えていたことも、ただただ間が悪かったとしか言いようがない。最悪の間の悪さで展開される何もかもに、カルロの精神はすでに限界に近かった。
カルロの精神状態などおかまいなしに、ステラは怒っていた。眉を吊り上げ、日頃愛らしいはずのエメラルドの瞳を炯々と輝かせている。
「あなた、ブレットの何なの?」
開口一番のセリフがもうカルロには最悪だ。なぜ自分が、メロドラマの女優がキャットファイトのきっかけに口走るようなセリフをぶつけられなければいけないのか。第一、その疑問を聞きたいのはこちらのほうだ。
俺はブレットの何なんだ。
国も違う、生まれも育ちも違う。共通点はWGPに参加するグランプリチームのリーダーというだけ。気づけば肩を並べて星を見上げて、クソの役にも立たない四方山話を交わしている。終いには、互いの誕生日を気にかける始末だ。こんな関係をブレットなら何と呼ぶか。
「あいつはどうした」
カルロがベッドにいたのは短時間で、名目上の消灯および外出が禁じられる時刻にはまだ早かった。アメリカ人のステラが欧州勢の寮にいても、彼女がゲスト証を首から下げている限り問題にはならない。それでもカルロは、ステラに問う。
二人の仲睦まじい後姿がカルロの嫉妬を呼び起こし、あの夢を見させたのは間違いない。雨に濡れ、傷つき、垢にまみれたブレットがフラッシュバックする。
「うちの寮の屋上よ。知ってるくせに」
ブレットはカルロより背が高くて、ブレットよりヒールの分背が高いステラは、当然カルロを見下せる。アーモンド形のグリーンアイズが、槍のようにカルロに突き刺さった。
「だったら、なんで俺んとこ」
「彼に追い返されたの。『あなた』が来るからって」
あなた、を強調して、ステラの目が見開かれた。体の前で抱きしめた腕に圧迫されて、コーラルレッドのシャツから胸の谷間が覗いている。だがカルロは魅力を感じなかった。カルロはステラがふりまくセックスアピールにまるで惹かれない。それどころか、彼女の体がブレットの傍らでなよなよと動くたびに、言いようのない不快感がこみ上げていた。
「私、今日が誕生日なの。彼に『祝って』って頼んだら、先約があるって断られたわ」
先約。
ステラの証言に、ブレットがカルロの誕生日を祝うつもりだったことがますます確定的になる。夢に描いた幸せが手を伸ばせば触れられるところにあったことに、カルロの脇が汗に濡れ、頬が熱を持つ。ミッドナイトブルーの瞳をさまよわせるカルロに、ステラは天使のような微笑にそばかすを歪ませた。
「あなたのことは知ってるわよ、反則大好きのロッソストラーダのリーダー、カルロ・セレーニくん。ああ、あなたも今日がお誕生日だったわね、12歳おめでとう。生まれと言えば、あなたって結構なお育ちだそうじゃない?」
「あいつから聞いたのか」
生い立ちに触れられカルロの声が知らずこわばる。ステラは肩をすくめるだけで明確な回答を避けたが、肯定と大差ない。哀れなカルロをネタに恵まれた二人が笑い合う光景が反射的に目に浮かび、一瞬で冷めた頬の熱に反して、はらわたは煮えくり返る。笑いものにされるために、足りないものを彼に打ち明けたわけじゃない。
『そういえば、カルロの親や家族は何をしてるんだ?』
『いねえよ』
『いない?』
『ああ、それがどうした』
親兄弟がいないこと、決して恵まれた出自ではないこと、そのどちらもブレットはカルロの心を慮って慎重に受け止めてくれた。そのことを疑いもしなかったのは、あのとき投げかけられたブレットの声の硬さのせいだ。カルロ、とこちらの本意を探るような響きに、らしくないなとカルロは強がることを選んだのだ。
『続けろよ』
『え……』
『星の話。クソつまんねえ俺の話より、てめえの星語りの方がマシだ』
『カルロ……』
あの声音が偽物なら、カルロはもうブレットの何を信じていいのかわからない。
信じる? 俺が? あいつを、信じてたって言うのか?
「シュミット君ならわかるのよ」
自身の発した言葉にカルロが激しい動揺に襲われていることは、ステラには手に取るようにわかっただろう。彼女は攻撃の手を緩めなかった。
「彼なら『レベルが合う』でしょうし、気の合う男同士でツルんでたいってのもしょうがないわ。だけど、何であなたなの?」
レベルが合う。そのフレーズはカルロのコンプレックスを容赦なく打ちのめす。ドイツのお貴族様と、余暇にチェスやテニスに興じるブレットの姿をカルロは何度となく目撃してきた。チェスもテニスも、カルロはルールどころか道具に触れたことさえない。ステラの見識は正しかった。ブレットと同じ高さで、カルロはモノを見られない。
ブレットと同じ高さに立てる者。それはシュミットと、そして目の前の彼女だ。ブレットと対等な女性はシュミット以上に希少だろう。高度な学問を理解し、思い出を共有する彼女となら、ブレットはコミュニケーションのストレスを抱えずに済む。
「あなたにチェスができて? テニスのルールご存知? 初等物理学くらい理解できるのかしら。ねぇ、カルロくん?」
そのステラが、言葉でカルロを殴りつける。彼女が繰り出す一発一発が、カルロの粗暴な本性を挑発する。そうして怒りや憎しみが膨らめば膨らむほど、カルロの中に共存する氷のように冷めた目がステラの目的を暴き立てた。
ステラは、カルロを怒らせようとしている。放つ一言一句、一挙手一投足に至るまで、彼女はカルロの逆鱗の位置を探ることに終始している。そうやってカルロをいたぶり、激情を臨界点にまで引っ張り上げた先に彼女が期待しているものも、冷えて固くなったカルロの心の目は見透かしていた。
哀しいかな、人が誰しも持つ負の感情に、カルロはとりわけ聡い少年だった。
ステラが狙っているもの、彼女が壊そうとしているもの、それはカルロに向けられるブレットの信頼だ。カルロとステラの間には三つの年齢差があり、身長もステラの方が高い。とはいえ、一方が男で一方が女である場合、何かあった時に守られるのは常に「非力な」ステラの方だ。おまけにカルロには拭いきれない悪評が付きまとう。そのすべてを承知してステラは行動している。カルロが怒りのあまり、自分に手を上げることを待っている。
なんて、女だ。
ステラが隠し持つ狡猾さ、性根の悪さにカルロの頭が沸騰する。ブレットは、彼女の本性を知らないのか。こんな策を弄する女が、果たしてブレットに純粋な好意を抱いているのだろうか。シュミットとブレットを並べて、彼女は「レベルが合う」と言い、合わないカルロをこき下ろした。すべてを「つり合いで」考えているこの女が、心からブレットを想っているはずがない。
ブレットの友人にはシュミットがふさわしい。ブレットの恋人には自分がふさわしい。
いや、違う。
ステラの恋人として、ブレットがふさわしいのだ。彼女にとって、自分以外の人間は自身を着飾るアクセサリーでしかない。
ステラ・キング。東海岸の新聞大手・キング(王)の娘。頭が良くて容姿に優れているというだけで、すべてが手に入ると思っている勘違い女、それが本当のステラだ。グランプリレーサーの前で振りまいた愛想も、アストロレンジャーズに取り入った手管も、そこに彼女の真心はない。欲しいものを手に入れるための、計算高い手段にすぎなかった。
そうまでして欲しがったブレットですら、才女ステラを飾りたてるアクセサリーだ。ブレットの人格を踏みにじるステラの意図が、カルロの憤怒を煽る。自分以外の誰かのために、怒れる自分をカルロは知った。
「……違うんだよ」
気づけば、声を絞り出していた。呻くようなカルロの声音に、ステラが顎をそらして眉をひそめる。
「あいつは……あんたとは、違う……」
出会ったころなら、ブレットにもその傾向があった。お情けで世界グランプリに参加させてもらえた日本チームと、カルロと同じようにビクトリーズを見下し、ドイツチーム以外は歯牙にもかけなかった。けれど彼は、間違いを改める勇気と潔さを持った男だ。だからこそ格下であるクールカリビアンズとの敗戦にも、彼は相手の健闘をたたえた。そこには彼が持つエリート意識とは相反する、もっと純粋な心根が作用している。
『綺麗だろ』
満天の星空を愛するように、夜空にきらめくファンタジーを楽しむように、彼は、世界の美しさを信じている。自分が美しいと信じる宝物を、誰かに認めてもらいたがっている。だから彼のムーングレイは、闇夜の中でも燦然と光り輝くのだ。
カルロの絞り出すような主張に、ステラは首を傾げる。波打つハニーブロンドが、お粗末な蛍光灯の下でしゃらしゃらと揺れた。
「ひょっとしてあなた……、ブレットが好きなの?」
そう言ってステラは美しく微笑む。慈悲深いマリアを彷彿とさせる神々しさに、カルロは身震いがした。
彼女の思惑など百も承知で、一発お見舞いしてやりたかった。彼女のお高く留まった綺麗な顔が、二目と見られないほどに崩れるさまを見ればさぞかし胸がすくだろう。カルロの中に根強いエリートへの敵愾心は、ステラという標的を見つけて雄叫びを上げている。宣誓台に立つブレットに抱いた衝動と、それはとてもよく似ていた。
同じ感情を、ブレットはカルロから払拭し、ステラは煽り立てる。やはりブレットとステラは違いすぎた。
「……そうよね、あなたみたいな人にとって、ブレットと仲良くしておけば得だものね」
カルロが自分の凶暴さと戦っているさなか、ステラは何かが腑に落ちたように何度も頷いてみせる。どうやら彼女は、カルロを自分と同じ、損得で飼える相手と判断したようだった。彼女の心の動きが手に取るようにわかるカルロは、彼女のふてぶてしさにかえって思考が冷めていく。だが、次に彼女が発した言葉は、カルロを恐怖の淵に追いやった。
「双眼鏡も、本当は欲しかったんでしょ」
ひゅっと、カルロの喉が鳴る。双眼鏡。ブレットが父親から贈られた大切な双眼鏡を、カルロは半年以上、ディオスパーダの傍らに置いてきた。その事実を「窃盗」だとステラは疑っている。違う、と敢然と言い返せさないカルロに、ステラはますます笑みを深めた。
「『カルロが預かってくれたんだ』だなんてブレットは言ってたけど、イタリアまで持っていっちゃったのなら盗んだのと同じよね」
なんたって、育ちが育ちだもの、しょうがないわとステラは罵声とも同情ともつかない言葉を投げかける。カルロをいたぶる彼女の言葉は、奇しくも的を射ていた。
双眼鏡に限った話ではない。二人きりの天体観測で見せるブレットの無防備さに、カルロはこれまで幾度となく自分の悪癖が頭をもたげるのを感じてきた。彼の私物や、アストロレンジャーズのロゴの入ったデータブックに手を伸ばしそうになる。親もなく家もなく、生きるために身に着けた術は、今でも隙を見てはカルロをそそのかす機会を狙っていた。
だがカルロは、手癖の悪さを懸命に抑え込んできた。他らなぬブレットの存在に、「良心」なんてものが、自分の中にあるのだと気づかされてきたのだ。
そんなカルロにとって、双眼鏡の一件だけはわき腹をつつかれるような痛みが走る。顔を引きつらせるカルロに、ステラは誘惑の言葉を重ねた。
「認めちゃいなさい、楽になるわ」
ステラの声は、むかつきを覚えるほど甘ったるい。この手口で、彼女はこれまで何人の人間を丸め込んできたのか。慈愛に満ちたエメラルドの瞳に優しく微笑まれて、陥落しない人間は少ないだろう。だが、ここで流されてステラの言葉に頷いてしまえば、カルロはステラに弱みを握られる。そうなればもう、ステラの犬(ペット)だ。
「欲しいのよね。わかるわ。とっても素敵だものね」
ステラはしきりに双眼鏡のことを口にする。けれど、カルロが本当に欲しいものは別にあった。
「私なら、彼に頼めるのよ。彼、私には甘いから。お願いなら何だって聞いてくれるわ」
カルロは笑い出したかった。誕生祝いを袖にされた癖に何を偉そうに。カルロに難癖を付けてきた舌の根も乾かないうちに、ステラは矛盾したことを口走る。
お前こそブレットの何のか。カルロはステラの異常性に確信を抱いた。
この女はどこか頭がおかしい。おかしいに違いないが、しかし彼女の中では一定の理屈が通っているのだろう。いや、通っていなければいけない。なぜなら彼女はキング(王)の娘。賢く、美しく、誰もが羨む王子様といつまでもいつまでも幸せにならなければいけない。
この、魔女め!
カルロの肩にステラの手が置かれる。間近できらめくグリーンアイズは、魔女がかきまわず鍋の中身と同じ色をしていた。
「仲良くしましょう。私たち、きっと良い関係になれるわ」
ブレットを利用してか。あいつの心を弄んでか。
ステラへの嫌悪感が最高潮に達し、カルロは今度こそ彼女を殴りつけてやろうと決めた。
「カルロ、いるのか?」
カルロが右の拳を握りしめたところで、渦中のブレットが姿を見せたのはタイミングが良かったのか悪かったのか。廊下をこちら向かって進みながら、ブレットがゴーグルのない顔で眉をひそめた。
「ステラ? なんでここに」
「あなたが待ってるって、カルロくんに伝えようと思って」
あらかじめ用意していた言い訳を諳んじる、ステラの空々しさにカルロは虫唾が走る。にこやかなステラと彼女を睨めつけるカルロの間の不自然さに、ブレットも不穏な気配を感じ取った。そしてブレットは逡巡なくカルロを選ぶ。
「お前は戻った方がいい、ステラ。もうすぐ消灯時間だ」
不純異性交遊を疑われかねないと、半ば脅すような口調でブレットはステラに命じる。レース中のチームメイト以外に、彼がこんな高圧的な物言いをすることは珍しい。
「そう。じゃ、お先におやすみなさい」
形勢不利と見たか、ステラはあっさりと引き下がった。去り際の優雅さは虚勢か、それとも双眼鏡の件を人質に、カルロが告げ口をしない確信を持っているせいか。もしや、例えカルロが告げ口しようとも、ブレットを言いくるめる自信があるとでも言うのか。
何にしたって勘違いの過ぎる女だと、カルロは蛇や蛙を見る目つきでステラを見送った。ステラと入れ替わるように、ブレットが傍らに立つ気配がする。隣にいるのが彼だと言うだけで、ささくれだった神経が宥められていくことにカルロはもう驚かなかった。
「いつの間に仲良くなったんだ、お前ら」
ブレットの皮肉に、深い皺がカルロの眉間に刻まれる。
「あの女の誕生日、祝わなくて良かったのか」
「ああ、それがどうし……」
ブレットの言葉が止まり、ムーングレイの瞳がたちまち厳しい色を帯びてカルロに向き直った。
「あいつに、何か酷いこと言われたのか」
やはりステラは勘違いが過ぎるバカ女だ。カルロとは方向性こそ違えど、ブレットもまた、人の機微に聡い少年だ。その彼が、彼女の思惑にいつまでも気づかないわけがない。ブレットは、ステラが自分の誕生祝を袖にされたうっぷんを、カルロにぶつける可能性のある女だと見抜いていた。
「俺のこと、知ってたぜ」
「あいつの父親は新聞大手だ。身辺調査はお手の物だろう」
たったそれだけの説明に、疑念を氷解させられたカルロはこらえ切れず天井を見上げてため息をついた。安堵に緊張が解け、全身が重く感じる。ブレットがカルロをネタにしたわけではなかった。あそこでステラが答えをあいまいにしたのも作戦だ。
「なんで来なかった、カルロ。絶対来いって言ったろ」
わざわざこれを問い詰めに現れたのか。助かったような、面倒なような、複雑な気持ちでカルロは俯く。
「俺の誕生日なんざ、祝ってどうすんだ」
「お前は祝ってくれたじゃないか。あの時の礼が出来ると、楽しみにしてたんだぜ」
ブレットはどこまでもストレートな性根の持ち主だ。カルロの誕生日を祝うだなんてバカげたことを、彼は当然のことのように口にする。
「楽しみって……、お前……」
正直に言って、ブレットの気持ちは嬉しかった。けれど、その言葉に甘えそうになるや否や、カルロの頭にステラの声がよみがえる。
『あなたにチェスができて? テニスのルールご存知? 初等物理学くらい理解できるのかしら』
嘲りと共に撃ちこまれた爆弾は、カルロのコンプレックスに深く沈み、そう簡単には撤去できそうにない。厄介な不発弾に、気持ちを振り回されたカルロは思ったままを口にしていた。
「俺は、シュミットじゃねえ……、チェスはできねえ……」
テニスのルールなんてもちろん知らない。物理学どころか、掛け算だって怪しいことは、他でもないブレットが一番よく分かっている。
「シュミット? チェス?」
カルロのセリフの脈絡のなさに、ブレットはきゅっと眉をひそめて首を傾げた。だが彼がカルロの言葉を判じかねている時間は短かった。カルロの足りない言葉を、補う不思議な能力をブレットは持ちあわせている。彼は月色の目を眇め、優しい声をカルロに投げた。
「そうか。お前、ステラにバカにされたんだな」
「……」
頬の裏を噛んで、口をもぞもぞと動かすばかりのカルロに、ブレットの手が伸びる。掲げられた手のひらは、カルロの銀髪にそっと触れた。埒外の接触に、はたと顔を上げたカルロの目に映ったのはブレットの笑顔で、「しょうのない奴だ」と言わんばかりの微笑が、星屑をまとっていてとても眩しかった。
「シュミットも星は知らない。ステラはカシオペア座も見つけられないんだぜ?」
何の話だろう、とカルロは自分の髪に触れる手の感触が気になって思考がまとまらない。その間に、くしゃりとカルロの髪を撫でた手が、肩へと移る。両肩を掴まれ、額が触れ合いそうな近さに彼のムーングレイが差し出された。ブレットの月の中に、ただカルロ一人が映っている。
「何を知ってるとか、持ってるとか、そんなことで俺は友達を選ばない。選ぶべきじゃないと、俺はこのグランプリで教わったんだ」
友達。
『あなた、ブレットの何なの?』
ステラからぶつけられ、カルロ自身密かに抱え続けてきた疑問に、ブレット本人から答えが渡される。友達の一言を恐る恐る拾い上げるカルロに、ブレットは「わかったか」と念押しして笑った。
「誕生祝い、仕切り直すぞ。次は逃げるな」
カルロ本人ですら捨てた日付に、こだわるブレットがおかしい。おかしくて、おかしくて、カレンダーの7の日付を、また元の位置に戻しても良い気になる。
「……勝手にしやがれ」
なけなしの意地に、カルロの肩をブレットが叩く。そして彼は、もう一度カルロの両肩を掴んで言った。
「ステラのことはすまなかった。あいつのケリは俺がつける。もう、お前のことをどうこう言わせたりしない。約束だ」
一体どうするつもりなのか。その答えは、翌朝になってカルロの前に差し出された。
「いい加減にしてくれ、ステラ」
ブレットの声は、グランプリレーサー専用のラウンジによく響いた。彼らしからぬ冷たい声音に、その場にいたレーサーの視線が集中する。腕を組んで仁王立ちするブレットの正面には、整った顔をこわばらせるステラがいた。
「ここに来てからのお前の行動は目に余る。俺は何度も忠告してきたはずだ。俺たちは遊びでグランプリを戦っているわけじゃない、公私の別はわきまえてくれ」
「わ、私が、あなたの邪魔をしたっていうの?」
「チーム練習や俺のリーダー業務に口を挟むのは、明らかな越権行為だ。何よりお前は俺の友人だが、それ以上じゃない。プライベートまで干渉されなくはないな」
ステラはステディではない、そう断言したブレットにステラの顔色が醜く変わる。そこにブレットと肩を並べる才女の面影は無く、突然メッキをはがされ、どうすればこの場を自分に有利に取り繕えるかを考える自己中女がいた。
「そんな言い方、ひどいわ……!」
「何がひどい? 俺たちが噂になってることくらい知ってる。だが俺は何一つ認めてないし、お前とは節度を守った付き合いをしてきたはずだ。違うか? 俺がお前のためにオフの時間を割いたのも、レース会場がシスコから離れれば、お前は大学に戻るとわかってたからだ。
繰り返すぞ。お前は俺の友人だった。俺はお前に対して、不誠実なことは何もしてない。だからこそ、お前に彼女面して干渉されるのは迷惑で、不愉快だ」
被害者を装うステラに、ある種の決意を秘めたブレットは取り付く島を与えなかった。友人「だった」とブレットはステラの存在を過去形で表現する。公衆の面前で、ブレットはこれ以上ないきっぱりとしたやり方でステラをフった。
ステラは、全身をわなわなと震わせている。自分がアクセサリーにしようとしていた相手に、お前は俺に似合わない、ふさわしくないと否定されたのだから、プライドの高い才女の屈辱はいかほどだろうか。
次の瞬間、彼女の右手がブレットの頬に炸裂した。
パンッ。
小気味いい音が弾ける。ただでさえ顎の小さいブレットの頬は、ゴーグルでほとんど隠されている。その猫の額ほどの面積にクリーンヒットさせた狙いは大したものだ。だが、彼女のビンタを甘んじて受け入れ、少し右にそれた顔以外微動だにしなかったブレットにはなお威圧感がある。ゴーグル越しの眼光と目が合ったのか、ぶった方のステラの肩がすくんだ。そして彼女は、それ以上何も言わず、何もできず、ヒールで床を踏み鳴らしてラウンジを去って行った。
ステラが消えるや否や、ラウンジ内は騒然となる。アストロレンジャーズの何人かが、ブレットに近寄ろうとしたができなかった。ブレットは人をかき分け、一直線にカルロに近づいてくる。海を渡るモーセのごとく、人波を左右に割った先で、ブレットは赤くなった頬もそのままにカルロににじり寄った。
「これでどうだ? スッキリしたか?」
ブレットの威風堂々たる宣言に、カルロは呆れて物も言えなかった。どうにかその場から逃げ出したものの、その後のラウンジでの狂乱が想像にたやすくてカルロは頭を抱える。その夜の天体観測で、カルロはさっそくブレットに物申した。
「ゴシップの良い餌食だぞ」
あれだけ大勢の前で、ステラに三行半をつきつけただけでも大事だ。その上カルロまで巻き込まれてしまった今、関係者たちの間では、ブレット、ステラ、カルロの三人を主人公にしたありとあらゆる妄想が飛び交っている。男二人が女一人を取り合っただの、片想いの連鎖だの噂はどれもこれも陳腐だが、自分の名で語られることがカルロには耐えがたかった。
少しはてめぇの行動の結果を考えやがれとかるろは訴える。だが、同じく渦中にいるはずのブレットは、気にした風もなかった。
「人の噂も七十五日。やましいことは何もないんだ、平然としてろ」
サンフランシスコの星空の下で、そう言い放つブレットにカルロは同意できずに黙り込む。やましいことは、本当に何一つないんだろうか。
カルロの脳裏に、昨夜見た夢がよみがえる。雨の中、小さなカルロを抱きしめるブレットに、カルロは悲鳴を上げ、涙を流した。あの夢は、生まれて初めての「友達」に、過剰に期待する心が見せた幻だったとでも言うのだろうか。
「そんなことよりも、だ」
カルロの疑問に、カルロを友達だと言い切った張本人が答えをくれることはない。代わりに彼は、満面の笑みと共に小さな紙袋を差し出した。
「一日遅れだが、Happy Birthday, Carlo」
ブレットの祝いの言葉とプレゼントは、シンプルであるが故に眩しく、カルロの悩みをまたひとつ多くする。それでも受け取らずにはいられない自分に、カルロはますますすっきりとしないものを抱え込むのだった。
断罪のマリア
(本当にいいのか? 俺がお前の友達で)
++++++++++
一か月フライングの誕生日ネタになりましたね。カルブレですよ~。
「まずはオトモダチから始めましょう」ってやつです。
ステラ登場回はこれで終わりですが、彼女が引き起こしたあれやこれやのおかげでもう少し話は続きます。
結局、性悪女で終わったので、メアリースーにはなってないと信じたい。
【ステラができるまで】(オリキャラ製作の過程なので反転してます。興味ない方はスルー推奨)
初期案ステラはもっとピュアで可愛いいい子でした。
ブレットが所属していた聖歌隊(そういえばこの設定も全然生かしきれてないや!)にいた引っ込み思案の女の子で、聖歌隊でも仲間に馴染めないところをブレットに声をかけられて、以来ずっと片思いを貫いている……という設定で。
「ブレットが覚えていてくれるだけでいい」「近くで彼の活躍を観ていられればいい」なんて初期案ステラのピュアっぷりにあてられたカルロが、自分の不純っぷりに凹むストーリーのはずでした。(8月の事件は「カルロを思いっきり凹ませてそれでもブレットへの執着を捨てきれないことを自覚させる」というのがコンセプトなので、凹ませるのは大前提)
が、
この初期案ステラを踏み台にしてカルブレが成立したら、カルロもブレットもめっちゃ悪役やんけ、と気づいて路線変更。
結果、性悪勘違い女のステラが出来上がりました。
性悪ステラは、まさに世間が抱く「カルロとブレットへの社会的評価」をそのまま形にしました。
エリートのブレットにふさわしいと(ブレット本人ではなく)世間が想像する理想的な少女であり、学歴主義、家柄主義、権威主義と三拍子そろったうえで、チンピラのカルロを徹底して蔑視する存在なわけで。
カルロがブレットと交際するにあたって乗り越えなきゃいけない壁そのものですね。
女性キャラにしたおかげで、カルロの女性アレルギーに拍車がかかりそうですし、結果論ですがカルブレ的には彼女で良かったのかなと。
こういう当て馬的なキャラは書いててしんどいですね。とはいえ、公式キャラを当て馬にはしたくないので……。
上手に名無しモブレベルで話をまとめられる日が来るよう、努力したいと思います。
2015/07/12 サイト初出。
※「断罪のマリア」前篇の続き。
※オリキャラ注意。公式キャラ×オリキャラ要素注意。オリキャラによる公式キャラへの悪口雑言注意。
「ひょっとしてあなた……、ブレットが好きなの?」
そう言ってステラは美しく微笑む。慈悲深いマリアを彷彿とさせる神々しさに、カルロは身震いがした。
断罪のマリア
間が悪い、なんてことはよくある話だ。
例えば、ステラが二年ぶりにブレットを訪ねたタイミングが、カルロがブレットに心を開きかけた矢先だったこと。
例えば、天体観測の約束を控えた昼間に、彼女がブレットから満面の笑みを引き出したこと。
例えば、ブレットとステラがロマンチックに寄り添った夜が、カルロの誕生日だったこと。
そして、本人すら心の底に押し込めてきた願望を形にした夢から覚めた直後、部屋から出たカルロをステラが待ち構えていたことも、ただただ間が悪かったとしか言いようがない。最悪の間の悪さで展開される何もかもに、カルロの精神はすでに限界に近かった。
カルロの精神状態などおかまいなしに、ステラは怒っていた。眉を吊り上げ、日頃愛らしいはずのエメラルドの瞳を炯々と輝かせている。
「あなた、ブレットの何なの?」
開口一番のセリフがもうカルロには最悪だ。なぜ自分が、メロドラマの女優がキャットファイトのきっかけに口走るようなセリフをぶつけられなければいけないのか。第一、その疑問を聞きたいのはこちらのほうだ。
俺はブレットの何なんだ。
国も違う、生まれも育ちも違う。共通点はWGPに参加するグランプリチームのリーダーというだけ。気づけば肩を並べて星を見上げて、クソの役にも立たない四方山話を交わしている。終いには、互いの誕生日を気にかける始末だ。こんな関係をブレットなら何と呼ぶか。
「あいつはどうした」
カルロがベッドにいたのは短時間で、名目上の消灯および外出が禁じられる時刻にはまだ早かった。アメリカ人のステラが欧州勢の寮にいても、彼女がゲスト証を首から下げている限り問題にはならない。それでもカルロは、ステラに問う。
二人の仲睦まじい後姿がカルロの嫉妬を呼び起こし、あの夢を見させたのは間違いない。雨に濡れ、傷つき、垢にまみれたブレットがフラッシュバックする。
「うちの寮の屋上よ。知ってるくせに」
ブレットはカルロより背が高くて、ブレットよりヒールの分背が高いステラは、当然カルロを見下せる。アーモンド形のグリーンアイズが、槍のようにカルロに突き刺さった。
「だったら、なんで俺んとこ」
「彼に追い返されたの。『あなた』が来るからって」
あなた、を強調して、ステラの目が見開かれた。体の前で抱きしめた腕に圧迫されて、コーラルレッドのシャツから胸の谷間が覗いている。だがカルロは魅力を感じなかった。カルロはステラがふりまくセックスアピールにまるで惹かれない。それどころか、彼女の体がブレットの傍らでなよなよと動くたびに、言いようのない不快感がこみ上げていた。
「私、今日が誕生日なの。彼に『祝って』って頼んだら、先約があるって断られたわ」
先約。
ステラの証言に、ブレットがカルロの誕生日を祝うつもりだったことがますます確定的になる。夢に描いた幸せが手を伸ばせば触れられるところにあったことに、カルロの脇が汗に濡れ、頬が熱を持つ。ミッドナイトブルーの瞳をさまよわせるカルロに、ステラは天使のような微笑にそばかすを歪ませた。
「あなたのことは知ってるわよ、反則大好きのロッソストラーダのリーダー、カルロ・セレーニくん。ああ、あなたも今日がお誕生日だったわね、12歳おめでとう。生まれと言えば、あなたって結構なお育ちだそうじゃない?」
「あいつから聞いたのか」
生い立ちに触れられカルロの声が知らずこわばる。ステラは肩をすくめるだけで明確な回答を避けたが、肯定と大差ない。哀れなカルロをネタに恵まれた二人が笑い合う光景が反射的に目に浮かび、一瞬で冷めた頬の熱に反して、はらわたは煮えくり返る。笑いものにされるために、足りないものを彼に打ち明けたわけじゃない。
『そういえば、カルロの親や家族は何をしてるんだ?』
『いねえよ』
『いない?』
『ああ、それがどうした』
親兄弟がいないこと、決して恵まれた出自ではないこと、そのどちらもブレットはカルロの心を慮って慎重に受け止めてくれた。そのことを疑いもしなかったのは、あのとき投げかけられたブレットの声の硬さのせいだ。カルロ、とこちらの本意を探るような響きに、らしくないなとカルロは強がることを選んだのだ。
『続けろよ』
『え……』
『星の話。クソつまんねえ俺の話より、てめえの星語りの方がマシだ』
『カルロ……』
あの声音が偽物なら、カルロはもうブレットの何を信じていいのかわからない。
信じる? 俺が? あいつを、信じてたって言うのか?
「シュミット君ならわかるのよ」
自身の発した言葉にカルロが激しい動揺に襲われていることは、ステラには手に取るようにわかっただろう。彼女は攻撃の手を緩めなかった。
「彼なら『レベルが合う』でしょうし、気の合う男同士でツルんでたいってのもしょうがないわ。だけど、何であなたなの?」
レベルが合う。そのフレーズはカルロのコンプレックスを容赦なく打ちのめす。ドイツのお貴族様と、余暇にチェスやテニスに興じるブレットの姿をカルロは何度となく目撃してきた。チェスもテニスも、カルロはルールどころか道具に触れたことさえない。ステラの見識は正しかった。ブレットと同じ高さで、カルロはモノを見られない。
ブレットと同じ高さに立てる者。それはシュミットと、そして目の前の彼女だ。ブレットと対等な女性はシュミット以上に希少だろう。高度な学問を理解し、思い出を共有する彼女となら、ブレットはコミュニケーションのストレスを抱えずに済む。
「あなたにチェスができて? テニスのルールご存知? 初等物理学くらい理解できるのかしら。ねぇ、カルロくん?」
そのステラが、言葉でカルロを殴りつける。彼女が繰り出す一発一発が、カルロの粗暴な本性を挑発する。そうして怒りや憎しみが膨らめば膨らむほど、カルロの中に共存する氷のように冷めた目がステラの目的を暴き立てた。
ステラは、カルロを怒らせようとしている。放つ一言一句、一挙手一投足に至るまで、彼女はカルロの逆鱗の位置を探ることに終始している。そうやってカルロをいたぶり、激情を臨界点にまで引っ張り上げた先に彼女が期待しているものも、冷えて固くなったカルロの心の目は見透かしていた。
哀しいかな、人が誰しも持つ負の感情に、カルロはとりわけ聡い少年だった。
ステラが狙っているもの、彼女が壊そうとしているもの、それはカルロに向けられるブレットの信頼だ。カルロとステラの間には三つの年齢差があり、身長もステラの方が高い。とはいえ、一方が男で一方が女である場合、何かあった時に守られるのは常に「非力な」ステラの方だ。おまけにカルロには拭いきれない悪評が付きまとう。そのすべてを承知してステラは行動している。カルロが怒りのあまり、自分に手を上げることを待っている。
なんて、女だ。
ステラが隠し持つ狡猾さ、性根の悪さにカルロの頭が沸騰する。ブレットは、彼女の本性を知らないのか。こんな策を弄する女が、果たしてブレットに純粋な好意を抱いているのだろうか。シュミットとブレットを並べて、彼女は「レベルが合う」と言い、合わないカルロをこき下ろした。すべてを「つり合いで」考えているこの女が、心からブレットを想っているはずがない。
ブレットの友人にはシュミットがふさわしい。ブレットの恋人には自分がふさわしい。
いや、違う。
ステラの恋人として、ブレットがふさわしいのだ。彼女にとって、自分以外の人間は自身を着飾るアクセサリーでしかない。
ステラ・キング。東海岸の新聞大手・キング(王)の娘。頭が良くて容姿に優れているというだけで、すべてが手に入ると思っている勘違い女、それが本当のステラだ。グランプリレーサーの前で振りまいた愛想も、アストロレンジャーズに取り入った手管も、そこに彼女の真心はない。欲しいものを手に入れるための、計算高い手段にすぎなかった。
そうまでして欲しがったブレットですら、才女ステラを飾りたてるアクセサリーだ。ブレットの人格を踏みにじるステラの意図が、カルロの憤怒を煽る。自分以外の誰かのために、怒れる自分をカルロは知った。
「……違うんだよ」
気づけば、声を絞り出していた。呻くようなカルロの声音に、ステラが顎をそらして眉をひそめる。
「あいつは……あんたとは、違う……」
出会ったころなら、ブレットにもその傾向があった。お情けで世界グランプリに参加させてもらえた日本チームと、カルロと同じようにビクトリーズを見下し、ドイツチーム以外は歯牙にもかけなかった。けれど彼は、間違いを改める勇気と潔さを持った男だ。だからこそ格下であるクールカリビアンズとの敗戦にも、彼は相手の健闘をたたえた。そこには彼が持つエリート意識とは相反する、もっと純粋な心根が作用している。
『綺麗だろ』
満天の星空を愛するように、夜空にきらめくファンタジーを楽しむように、彼は、世界の美しさを信じている。自分が美しいと信じる宝物を、誰かに認めてもらいたがっている。だから彼のムーングレイは、闇夜の中でも燦然と光り輝くのだ。
カルロの絞り出すような主張に、ステラは首を傾げる。波打つハニーブロンドが、お粗末な蛍光灯の下でしゃらしゃらと揺れた。
「ひょっとしてあなた……、ブレットが好きなの?」
そう言ってステラは美しく微笑む。慈悲深いマリアを彷彿とさせる神々しさに、カルロは身震いがした。
彼女の思惑など百も承知で、一発お見舞いしてやりたかった。彼女のお高く留まった綺麗な顔が、二目と見られないほどに崩れるさまを見ればさぞかし胸がすくだろう。カルロの中に根強いエリートへの敵愾心は、ステラという標的を見つけて雄叫びを上げている。宣誓台に立つブレットに抱いた衝動と、それはとてもよく似ていた。
同じ感情を、ブレットはカルロから払拭し、ステラは煽り立てる。やはりブレットとステラは違いすぎた。
「……そうよね、あなたみたいな人にとって、ブレットと仲良くしておけば得だものね」
カルロが自分の凶暴さと戦っているさなか、ステラは何かが腑に落ちたように何度も頷いてみせる。どうやら彼女は、カルロを自分と同じ、損得で飼える相手と判断したようだった。彼女の心の動きが手に取るようにわかるカルロは、彼女のふてぶてしさにかえって思考が冷めていく。だが、次に彼女が発した言葉は、カルロを恐怖の淵に追いやった。
「双眼鏡も、本当は欲しかったんでしょ」
ひゅっと、カルロの喉が鳴る。双眼鏡。ブレットが父親から贈られた大切な双眼鏡を、カルロは半年以上、ディオスパーダの傍らに置いてきた。その事実を「窃盗」だとステラは疑っている。違う、と敢然と言い返せさないカルロに、ステラはますます笑みを深めた。
「『カルロが預かってくれたんだ』だなんてブレットは言ってたけど、イタリアまで持っていっちゃったのなら盗んだのと同じよね」
なんたって、育ちが育ちだもの、しょうがないわとステラは罵声とも同情ともつかない言葉を投げかける。カルロをいたぶる彼女の言葉は、奇しくも的を射ていた。
双眼鏡に限った話ではない。二人きりの天体観測で見せるブレットの無防備さに、カルロはこれまで幾度となく自分の悪癖が頭をもたげるのを感じてきた。彼の私物や、アストロレンジャーズのロゴの入ったデータブックに手を伸ばしそうになる。親もなく家もなく、生きるために身に着けた術は、今でも隙を見てはカルロをそそのかす機会を狙っていた。
だがカルロは、手癖の悪さを懸命に抑え込んできた。他らなぬブレットの存在に、「良心」なんてものが、自分の中にあるのだと気づかされてきたのだ。
そんなカルロにとって、双眼鏡の一件だけはわき腹をつつかれるような痛みが走る。顔を引きつらせるカルロに、ステラは誘惑の言葉を重ねた。
「認めちゃいなさい、楽になるわ」
ステラの声は、むかつきを覚えるほど甘ったるい。この手口で、彼女はこれまで何人の人間を丸め込んできたのか。慈愛に満ちたエメラルドの瞳に優しく微笑まれて、陥落しない人間は少ないだろう。だが、ここで流されてステラの言葉に頷いてしまえば、カルロはステラに弱みを握られる。そうなればもう、ステラの犬(ペット)だ。
「欲しいのよね。わかるわ。とっても素敵だものね」
ステラはしきりに双眼鏡のことを口にする。けれど、カルロが本当に欲しいものは別にあった。
「私なら、彼に頼めるのよ。彼、私には甘いから。お願いなら何だって聞いてくれるわ」
カルロは笑い出したかった。誕生祝いを袖にされた癖に何を偉そうに。カルロに難癖を付けてきた舌の根も乾かないうちに、ステラは矛盾したことを口走る。
お前こそブレットの何のか。カルロはステラの異常性に確信を抱いた。
この女はどこか頭がおかしい。おかしいに違いないが、しかし彼女の中では一定の理屈が通っているのだろう。いや、通っていなければいけない。なぜなら彼女はキング(王)の娘。賢く、美しく、誰もが羨む王子様といつまでもいつまでも幸せにならなければいけない。
この、魔女め!
カルロの肩にステラの手が置かれる。間近できらめくグリーンアイズは、魔女がかきまわず鍋の中身と同じ色をしていた。
「仲良くしましょう。私たち、きっと良い関係になれるわ」
ブレットを利用してか。あいつの心を弄んでか。
ステラへの嫌悪感が最高潮に達し、カルロは今度こそ彼女を殴りつけてやろうと決めた。
「カルロ、いるのか?」
カルロが右の拳を握りしめたところで、渦中のブレットが姿を見せたのはタイミングが良かったのか悪かったのか。廊下をこちら向かって進みながら、ブレットがゴーグルのない顔で眉をひそめた。
「ステラ? なんでここに」
「あなたが待ってるって、カルロくんに伝えようと思って」
あらかじめ用意していた言い訳を諳んじる、ステラの空々しさにカルロは虫唾が走る。にこやかなステラと彼女を睨めつけるカルロの間の不自然さに、ブレットも不穏な気配を感じ取った。そしてブレットは逡巡なくカルロを選ぶ。
「お前は戻った方がいい、ステラ。もうすぐ消灯時間だ」
不純異性交遊を疑われかねないと、半ば脅すような口調でブレットはステラに命じる。レース中のチームメイト以外に、彼がこんな高圧的な物言いをすることは珍しい。
「そう。じゃ、お先におやすみなさい」
形勢不利と見たか、ステラはあっさりと引き下がった。去り際の優雅さは虚勢か、それとも双眼鏡の件を人質に、カルロが告げ口をしない確信を持っているせいか。もしや、例えカルロが告げ口しようとも、ブレットを言いくるめる自信があるとでも言うのか。
何にしたって勘違いの過ぎる女だと、カルロは蛇や蛙を見る目つきでステラを見送った。ステラと入れ替わるように、ブレットが傍らに立つ気配がする。隣にいるのが彼だと言うだけで、ささくれだった神経が宥められていくことにカルロはもう驚かなかった。
「いつの間に仲良くなったんだ、お前ら」
ブレットの皮肉に、深い皺がカルロの眉間に刻まれる。
「あの女の誕生日、祝わなくて良かったのか」
「ああ、それがどうし……」
ブレットの言葉が止まり、ムーングレイの瞳がたちまち厳しい色を帯びてカルロに向き直った。
「あいつに、何か酷いこと言われたのか」
やはりステラは勘違いが過ぎるバカ女だ。カルロとは方向性こそ違えど、ブレットもまた、人の機微に聡い少年だ。その彼が、彼女の思惑にいつまでも気づかないわけがない。ブレットは、ステラが自分の誕生祝を袖にされたうっぷんを、カルロにぶつける可能性のある女だと見抜いていた。
「俺のこと、知ってたぜ」
「あいつの父親は新聞大手だ。身辺調査はお手の物だろう」
たったそれだけの説明に、疑念を氷解させられたカルロはこらえ切れず天井を見上げてため息をついた。安堵に緊張が解け、全身が重く感じる。ブレットがカルロをネタにしたわけではなかった。あそこでステラが答えをあいまいにしたのも作戦だ。
「なんで来なかった、カルロ。絶対来いって言ったろ」
わざわざこれを問い詰めに現れたのか。助かったような、面倒なような、複雑な気持ちでカルロは俯く。
「俺の誕生日なんざ、祝ってどうすんだ」
「お前は祝ってくれたじゃないか。あの時の礼が出来ると、楽しみにしてたんだぜ」
ブレットはどこまでもストレートな性根の持ち主だ。カルロの誕生日を祝うだなんてバカげたことを、彼は当然のことのように口にする。
「楽しみって……、お前……」
正直に言って、ブレットの気持ちは嬉しかった。けれど、その言葉に甘えそうになるや否や、カルロの頭にステラの声がよみがえる。
『あなたにチェスができて? テニスのルールご存知? 初等物理学くらい理解できるのかしら』
嘲りと共に撃ちこまれた爆弾は、カルロのコンプレックスに深く沈み、そう簡単には撤去できそうにない。厄介な不発弾に、気持ちを振り回されたカルロは思ったままを口にしていた。
「俺は、シュミットじゃねえ……、チェスはできねえ……」
テニスのルールなんてもちろん知らない。物理学どころか、掛け算だって怪しいことは、他でもないブレットが一番よく分かっている。
「シュミット? チェス?」
カルロのセリフの脈絡のなさに、ブレットはきゅっと眉をひそめて首を傾げた。だが彼がカルロの言葉を判じかねている時間は短かった。カルロの足りない言葉を、補う不思議な能力をブレットは持ちあわせている。彼は月色の目を眇め、優しい声をカルロに投げた。
「そうか。お前、ステラにバカにされたんだな」
「……」
頬の裏を噛んで、口をもぞもぞと動かすばかりのカルロに、ブレットの手が伸びる。掲げられた手のひらは、カルロの銀髪にそっと触れた。埒外の接触に、はたと顔を上げたカルロの目に映ったのはブレットの笑顔で、「しょうのない奴だ」と言わんばかりの微笑が、星屑をまとっていてとても眩しかった。
「シュミットも星は知らない。ステラはカシオペア座も見つけられないんだぜ?」
何の話だろう、とカルロは自分の髪に触れる手の感触が気になって思考がまとまらない。その間に、くしゃりとカルロの髪を撫でた手が、肩へと移る。両肩を掴まれ、額が触れ合いそうな近さに彼のムーングレイが差し出された。ブレットの月の中に、ただカルロ一人が映っている。
「何を知ってるとか、持ってるとか、そんなことで俺は友達を選ばない。選ぶべきじゃないと、俺はこのグランプリで教わったんだ」
友達。
『あなた、ブレットの何なの?』
ステラからぶつけられ、カルロ自身密かに抱え続けてきた疑問に、ブレット本人から答えが渡される。友達の一言を恐る恐る拾い上げるカルロに、ブレットは「わかったか」と念押しして笑った。
「誕生祝い、仕切り直すぞ。次は逃げるな」
カルロ本人ですら捨てた日付に、こだわるブレットがおかしい。おかしくて、おかしくて、カレンダーの7の日付を、また元の位置に戻しても良い気になる。
「……勝手にしやがれ」
なけなしの意地に、カルロの肩をブレットが叩く。そして彼は、もう一度カルロの両肩を掴んで言った。
「ステラのことはすまなかった。あいつのケリは俺がつける。もう、お前のことをどうこう言わせたりしない。約束だ」
一体どうするつもりなのか。その答えは、翌朝になってカルロの前に差し出された。
「いい加減にしてくれ、ステラ」
ブレットの声は、グランプリレーサー専用のラウンジによく響いた。彼らしからぬ冷たい声音に、その場にいたレーサーの視線が集中する。腕を組んで仁王立ちするブレットの正面には、整った顔をこわばらせるステラがいた。
「ここに来てからのお前の行動は目に余る。俺は何度も忠告してきたはずだ。俺たちは遊びでグランプリを戦っているわけじゃない、公私の別はわきまえてくれ」
「わ、私が、あなたの邪魔をしたっていうの?」
「チーム練習や俺のリーダー業務に口を挟むのは、明らかな越権行為だ。何よりお前は俺の友人だが、それ以上じゃない。プライベートまで干渉されなくはないな」
ステラはステディではない、そう断言したブレットにステラの顔色が醜く変わる。そこにブレットと肩を並べる才女の面影は無く、突然メッキをはがされ、どうすればこの場を自分に有利に取り繕えるかを考える自己中女がいた。
「そんな言い方、ひどいわ……!」
「何がひどい? 俺たちが噂になってることくらい知ってる。だが俺は何一つ認めてないし、お前とは節度を守った付き合いをしてきたはずだ。違うか? 俺がお前のためにオフの時間を割いたのも、レース会場がシスコから離れれば、お前は大学に戻るとわかってたからだ。
繰り返すぞ。お前は俺の友人だった。俺はお前に対して、不誠実なことは何もしてない。だからこそ、お前に彼女面して干渉されるのは迷惑で、不愉快だ」
被害者を装うステラに、ある種の決意を秘めたブレットは取り付く島を与えなかった。友人「だった」とブレットはステラの存在を過去形で表現する。公衆の面前で、ブレットはこれ以上ないきっぱりとしたやり方でステラをフった。
ステラは、全身をわなわなと震わせている。自分がアクセサリーにしようとしていた相手に、お前は俺に似合わない、ふさわしくないと否定されたのだから、プライドの高い才女の屈辱はいかほどだろうか。
次の瞬間、彼女の右手がブレットの頬に炸裂した。
パンッ。
小気味いい音が弾ける。ただでさえ顎の小さいブレットの頬は、ゴーグルでほとんど隠されている。その猫の額ほどの面積にクリーンヒットさせた狙いは大したものだ。だが、彼女のビンタを甘んじて受け入れ、少し右にそれた顔以外微動だにしなかったブレットにはなお威圧感がある。ゴーグル越しの眼光と目が合ったのか、ぶった方のステラの肩がすくんだ。そして彼女は、それ以上何も言わず、何もできず、ヒールで床を踏み鳴らしてラウンジを去って行った。
ステラが消えるや否や、ラウンジ内は騒然となる。アストロレンジャーズの何人かが、ブレットに近寄ろうとしたができなかった。ブレットは人をかき分け、一直線にカルロに近づいてくる。海を渡るモーセのごとく、人波を左右に割った先で、ブレットは赤くなった頬もそのままにカルロににじり寄った。
「これでどうだ? スッキリしたか?」
ブレットの威風堂々たる宣言に、カルロは呆れて物も言えなかった。どうにかその場から逃げ出したものの、その後のラウンジでの狂乱が想像にたやすくてカルロは頭を抱える。その夜の天体観測で、カルロはさっそくブレットに物申した。
「ゴシップの良い餌食だぞ」
あれだけ大勢の前で、ステラに三行半をつきつけただけでも大事だ。その上カルロまで巻き込まれてしまった今、関係者たちの間では、ブレット、ステラ、カルロの三人を主人公にしたありとあらゆる妄想が飛び交っている。男二人が女一人を取り合っただの、片想いの連鎖だの噂はどれもこれも陳腐だが、自分の名で語られることがカルロには耐えがたかった。
少しはてめぇの行動の結果を考えやがれとかるろは訴える。だが、同じく渦中にいるはずのブレットは、気にした風もなかった。
「人の噂も七十五日。やましいことは何もないんだ、平然としてろ」
サンフランシスコの星空の下で、そう言い放つブレットにカルロは同意できずに黙り込む。やましいことは、本当に何一つないんだろうか。
カルロの脳裏に、昨夜見た夢がよみがえる。雨の中、小さなカルロを抱きしめるブレットに、カルロは悲鳴を上げ、涙を流した。あの夢は、生まれて初めての「友達」に、過剰に期待する心が見せた幻だったとでも言うのだろうか。
「そんなことよりも、だ」
カルロの疑問に、カルロを友達だと言い切った張本人が答えをくれることはない。代わりに彼は、満面の笑みと共に小さな紙袋を差し出した。
「一日遅れだが、Happy Birthday, Carlo」
ブレットの祝いの言葉とプレゼントは、シンプルであるが故に眩しく、カルロの悩みをまたひとつ多くする。それでも受け取らずにはいられない自分に、カルロはますますすっきりとしないものを抱え込むのだった。
断罪のマリア
(本当にいいのか? 俺がお前の友達で)
++++++++++
一か月フライングの誕生日ネタになりましたね。カルブレですよ~。
「まずはオトモダチから始めましょう」ってやつです。
ステラ登場回はこれで終わりですが、彼女が引き起こしたあれやこれやのおかげでもう少し話は続きます。
結局、性悪女で終わったので、メアリースーにはなってないと信じたい。
【ステラができるまで】(オリキャラ製作の過程なので反転してます。興味ない方はスルー推奨)
初期案ステラはもっとピュアで可愛いいい子でした。
ブレットが所属していた聖歌隊(そういえばこの設定も全然生かしきれてないや!)にいた引っ込み思案の女の子で、聖歌隊でも仲間に馴染めないところをブレットに声をかけられて、以来ずっと片思いを貫いている……という設定で。
「ブレットが覚えていてくれるだけでいい」「近くで彼の活躍を観ていられればいい」なんて初期案ステラのピュアっぷりにあてられたカルロが、自分の不純っぷりに凹むストーリーのはずでした。(8月の事件は「カルロを思いっきり凹ませてそれでもブレットへの執着を捨てきれないことを自覚させる」というのがコンセプトなので、凹ませるのは大前提)
が、
この初期案ステラを踏み台にしてカルブレが成立したら、カルロもブレットもめっちゃ悪役やんけ、と気づいて路線変更。
結果、性悪勘違い女のステラが出来上がりました。
性悪ステラは、まさに世間が抱く「カルロとブレットへの社会的評価」をそのまま形にしました。
エリートのブレットにふさわしいと(ブレット本人ではなく)世間が想像する理想的な少女であり、学歴主義、家柄主義、権威主義と三拍子そろったうえで、チンピラのカルロを徹底して蔑視する存在なわけで。
カルロがブレットと交際するにあたって乗り越えなきゃいけない壁そのものですね。
女性キャラにしたおかげで、カルロの女性アレルギーに拍車がかかりそうですし、結果論ですがカルブレ的には彼女で良かったのかなと。
こういう当て馬的なキャラは書いててしんどいですね。とはいえ、公式キャラを当て馬にはしたくないので……。
上手に名無しモブレベルで話をまとめられる日が来るよう、努力したいと思います。
2015/07/12 サイト初出。
2015/07/12(日)
レツゴ:ステラ事件(カルブレ)【完結】
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