過去作品倉庫とは

過去ジャンルの作品置き場です。
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15.08.2011 旧ブログ初掲載




 おおきな みどりのおへやのなかに
 でんわが ひとつ
 あかい ふうせん ひとつ
 えの がくが ふたつ―――


 ちくちくと薄い寝巻きを刺す毛布から顔を出して、アクビーは大きな青い目を光らせながら、周りを見渡した。
 古い漆喰の壁と、腐りかけた木の柱。限りなく灰色に近い白と、時の流れに煙(けぶ)るこげ茶にかこまれた、屋根裏の小部屋。あるのは、小さな小さな洋服ダンスと傾いた勉強机。動くたびにみしみしと鳴る子ども用のベッド隣には、アンティークと呼ぶには中途半端に古くさいチェストが置かれ、その上には花柄の傘をかぶったラムプと早朝にセットされた目覚まし時計が鎮座している。
 アクビーの歳にふさわしい玩具など何一つないその部屋に住んで、もう5年になった。
 冬には焚き木ストーブが増えた。夏は、広さに不似合いな大きな窓を開ければいい。この高さまで虫が飛んでこれないとアクビーが知ったのは、おととしのことだ。
 夜風が冷え始める秋の今宵、風邪をひいてしまうからと、窓はとうに閉められている。

 それは めうしが おつきさまを とびこす えと
 さんびきのくまか いすにこしかけてる え

 窓に四角くくりぬかれた月明かりが、今朝モップで磨いたばかりの床に、縫い付けられたラグのように広がっている。薄白いそこを、小指の爪ほどの蜘蛛が一匹、影で身体を倍くらいに見せながら、アクビーのベッドに向かって歩いてきていた。
 アクビーは掃除が嫌いではない。自分にあてがわれたこの小部屋の掃除も、礼拝堂の床磨きも、用具入れの片付けも、年々腰が弱くなる老神父に代わってよくこなした。毎日の生活を支えてくれる家具を労わり、床に自分の顔が映るのに満足し、雑然とした世界が美しく整い行くさまが好きだ。ひとつだけ、白い蜘蛛の巣を払うたびに、申し訳なさで胸がいっぱいになるのが嫌だった。
(クモさん、ごめんなさい)
いつか謝りたいと思っていた存在が、月色を抜け出して行く先が知りたくて、身を起こしたアクビーに、密やかな声が降りかけられた。
「こら。ちっとも寝る気がないじゃないか」
せっかく絵本を読んでいるのに。そうたしなめる声色はアクビーの耳にどこまでも優しく、甘く響く。あれだけ小さな胸を痛めていた蜘蛛のことは頭から消し飛び、かわりに声の主への想いがたちまち心を満たしていった。
 いつも顔と同じ皺を刻んだような声でアクビー呼ぶ、老神父とは似ても似つかないまっすぐな人影が、月明かりの中、アクビーすぐそばに控えている。数ヶ月前に神学校から派遣されてきたという存在は、虹の向こうから来た人のように、素晴らしく見えてならなかった。
「僕の読み方は、下手かい?」
首を傾げられて、アクビーは慌てて頭を振って否定する。よほど必死に見えたのか、クスと笑う気配がした。いつもどこか眠そうな黒い双眸が、アクビーひとりに向けられている事実に、胸が高鳴る。
 求めてやまない瞳の色を見たくて、アクビーは夜に目を凝らした。けれど、映るのは月光を背にした暗がりばかりだ。すぐにアクビーは、あからさまな自分の行動にほほを染めて、うつむく。一連の所作を、相手が不審がる様子はなかった。
 手を伸ばせば届く近さで、眼差しすら届かない隔たりにそっと、アクビーは毛布のすみを握り締めた。





 「全然眠る気がないだろう、君」
そうアクビーが睨めつければ、狼はとんでもないと言いたそうにベッドの中で頭を振った。二段ベッドの梯子をイス代りに、上段で横たわる狼の傍にはべりながら、アクビーはため息をつく。
 眠れない。
 就寝時間を過ぎ、消した部屋明かりの中で、頭だけをアクビーの天井から下ろしてきて狼は言った。暗い中で目を開けていろと言えば、眠気が一向に来ないと返され、羊でも数えろと助言すれば、千までいったと胸を張られた。
 困った。
 平時凛々しい眉を情けないハの字に変え、狼は情感たっぷりにそう告げた。寝つきも寝覚めも良すぎるくらい良い狼の性質はアクビーも熟知している。ゆえに辛いのだという彼の言い分は飲み込めた。だから、
 アクビー、助けてくれ。
 狼のご指名の嘆願に読みかけの本を閉じ、ベッドサイドのラムプのボタンに手を伸ばした自分に、アクビーは胸に抱える感情は別にしても、自分がつくづく彼には弱いのだと思い知った。
 梯子を上り、狼のテリトリーに迎えられ、アクビーは黙って横になってるようにとの指示を下して、始めたことは寝物語。狼にとっても自分にとっても、らしくないのは承知の上で、アクビーの口は大きな緑の部屋を舞台にした、短い物語を紡ぎだす。ことさらゆっくりと、記憶をたどるように語るアクビーを、語られる側の狼は口こそ挟まないものの、眠るどころか目を見開いてまじまじと見つめてくる。眼力の強さにアクビーの背筋を8対2の割合で羞恥と怒りが駆け上がり、歪む口元を隠そうと、アクビーは眉間に力を込めて本来の目的を狼に問うた。
 アクビーの非難を否定して、狼が口にしたのはとんでもないことだ。
「アンタの作品?」
何を馬鹿な。うっかり、思ったことをそのまま顔に出したのだろう。アクビーの答えを待たず、狼は怒るなよと胸の前で両手をふった。狼自身、自分の考えが正しいとは思ったわけではなく、ただアクビーの語り口のよどみのなさと、懐かしいものを追うような横顔に、ひょっとしたら、今自分が聞かされているのはアクビー自身の思い出ではないのかと、そう感じただけのことだと、狼は釈明してみせた。
 この狼の主張は、アクビーの癇をほんの僅かだがくすぐった。国際捜査官を、その中でも潜入捜査に特化した人材を目指す者として、わが身の過去を不用意に明かすような馬鹿な真似はしない。そして間違っても、吹聴してまわりたいような過去を持ち合わせた覚えもない。
 生まれ正しい、恥じる謂れひとつ抱えるつもりもない、西鳳民国の狼士龍と一緒にされたくはなかった。
 狼の無礼にぴくりと揺れたアクビーの柳眉を、当人は見逃さず、しかし別の意味に受け取ったらしい。狼は心配事が一つ減ったような、心緩んだ笑みを浮かべて言った。
「ってことはアンタにも、眠れねえときの相手がいたんだな」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。けれど、狼の言葉の真意が見えた瞬間、アクビーの背筋を先ほどとは違う何かが駆け上る。続いて、胸の中が騒ぎ始めた。
 今宵のアクビーは、眠れぬ夜をたちつくす狼の相手。
 ならばあの夜に、幼いアクビーを、夢に導いた相手は誰だ。
 その相手に、この寝物語を語られた。一度や二度ではない。大人になってまで諳んじられるほど。寝苦しい夜に心を和ませる方法として、真っ先に思いつくほど。
 それは誰かに、慈しみをもって見守られた経験を、アクビーが持っていることに他ならない。
 気安く語られることのないアクビー・ヒックスという人間の生い立ちに、小さくない影を嗅ぎ取っていた狼は、自分が導き出した答えに満足したのか、浮かべた笑顔をそのままにベッドにもぐりこんだ。そして頭の下で手を組み、目を閉じる。
「続けてくれよ。今なら眠れそうだ」
狼に魔法をかけられ、アクビーの口は動き出す。何度も何度も重ねられ、心に写し取られた物語は、色褪せることなくよみがえった。そして、瞼の裏に大きな緑の部屋が姿を見せる。

 こねこが にひき
 てぶくろ ひとそろい
 にんぎょうのいえ
 こねずみ いっぴき

 空ばかり、見ている子どもだった。朝は昇る太陽を。昼は高く浮かび流れる雲を。夕はくるくると表情を変える空の色を。雨の日には無数の雨粒を飽きもせず。
 そして夜は、月を。
 屋根裏の窓に両手をついて、夜空を見上げる子どもに声をかけてきたのは"彼"のほうだった。
 今夜もまだ起きていたのかい、アクビー。
 なら、本を読んであげようと、アクビーをひき離すためか、"彼"はベッド脇にイスを寄せて、自らの背で月明かりを遮った。"彼"の顔を、薄い影が被う。
 "彼"がアクビーに約束させたことは、目を閉じることと耳をすますこと。それらを守るだけで、"彼"の若く、張りのあるテノールが、残像の舞う闇を満たしていく。老神父のがらがら声とは次元を異にするその響きを、アクビーは胸に刻み、瞼の裏に浮かぶ物語を記憶に刻んだ。
 忘れようとした、甘く優しかった在りし日。抱えていけるほど強い人間ではないと思っていたから。それを今宵よみがえらせた男を、アクビーは見下ろす。警戒心ひとつなく、安普請のベッドと出自怪しいルームメイトに全てを委ねている彼こそ、その在りし日を忘れようとアクビーに動機付けた原因だとは、この際、永遠の秘密にしておこう。
 初めて狼の声を耳にしたとき、"彼"かと思い、アクビーは息を止めた。その場が養成所の廊下だと思い出し、ありえないと結論付けるのにいくらか時を要した。正体を確かめようと振り返って、遠くの人だかりの中心に立つ存在を認識した。太陽を背負ったように眩しく見えたことを、今でもアクビーは忘れられない。
 何の導きか、太陽の似姿と寝食を共にする部屋に、アクビーは視線を投げる。出入り口の隣に申し訳程度に設えられた小窓から、廊下ごしの月の名残が届いていた。大の男が二人で生活するには、少々手狭を感じざるを得ない。屋根裏の小部屋を後にして十年は経つというのに、自分はまだ、絵すらない小さな部屋から抜け出せずにいる。恥じるしかない現状も、今宵は胸に不思議な温度が染みわたる。月の色がたまった場所に、"彼"が見える気さえした。
 思い起こせば、本心を明かさず、顔をゆがめたような笑顔しかできない、気味の悪い子どもだったと思う。"彼"はアクビーのいた教会に、ひと時だけとどまり、アクビーがささげる想いに気づくどころか、霊感のない人が幽霊を通り過ぎるように去ってしまったけれど、毎晩時間を費やしてくれたあたり、それなりに気にかけてくれていたのだろう。

 おやすみ おつきさま
 おやすみ おつきさまをとびこしてるうしさん

 空ばかり、見上げている子どもだった。朝も、昼も、夜も、目を皿のようにして見つめた先に、結局自分の居場所はないのだと理解したのは、果たして何歳のころだったか。太陽と月の慈悲の下、かろうじて息をしている矮小な人間(じぶん)を知ってなお、焦がれることをやめられないのは、あの日々から何年たっても変わらない。

 おやすみ ほしさん
 おやすみ よぞらさん

 腰掛けるベッドからは、深い呼吸が聞こえる。ゆるく閉じられた瞼と上下する胸に、アクビーは梯子を降りようとして、腕に違和感を感じた。目を向ければ、寝巻きの袖口をつかむ、武骨な手があった。
 笑うしかないと、アクビーは口のはたを戦慄かせる。夢に向かうさなかでなお、狼はまた、アクビーの記憶の封を剥がして行った。
 月夜の"彼"を離したくなくて、けれど眠らずに叱られるのは嫌で、こっそり毛布の下から握った"彼"の上着の袖の感触。どんなに強く握っても、離すまいと決意しても、目覚めればひとりぼっちの屋根裏部屋で、ついたため息の数。
 そんな甘く苦い諸々を心に浮かべながら、今度は”彼”の歳に追いついたアクビーが、引きとどめる指を外していく。"彼"は何を思っただろう。小さな問いが、アクビーの胸に去来する。自分と同じであればいい。抱いた想いの形は違っても、確かに自分に向けられるものがあったのなら、もう、それでいい。
 アクビーは再び窓を見やる。ほの白い月光に向けて、口を開いた。声には出さず、かの人に囁く。
(おやすみなさい。神父さま)
月影を背負う"彼"の顔は、どうしても思い出せないままだったけれど。
 昼間が嘘のように、力のない狼の指から開放され、梯子を降りる。味気ないリノリウムの床に立ち、見上げた先で眠る、同じ声をした彼を想った。
(でも"彼"とはまるで違う)
明日になれば張りのあるテノールを響かせて、目映く、人を魅了してやまない太陽を。


(おやすみ。私の、愛しい君)





マーガレット・ワイズ・ブラウン作 せた ていじ訳『おやすみなさい おつきさま』評論社 より一部引用
逆転検事(BL) 2016/05/08(日)
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